映画「アステロイド・シティ」感想

 ブルーレイ版を買ったきり、「皿の上の好物は、最後まで残しておく」みたいな一種の精神疾患から、長く積んであったアステロイド・シティを、連休の隙間にようやく見る。なぜか小鳥猊下が、よりによってウェス・アンダーソン監督作品だけ、ザ・ロイヤル・テネンバウムズ以降、あまり内容を理解できていないにも関わらず、ぜんぶ見ていることは、すでに周知の事実かと思います。予告映像から事前に想像していたのは、アラモゴード近郊に建設された「原爆の町」における日常を描くストーリーで、オッペンハイマーをイヤイヤながら履修し終えたいまがちょうどいいタイミングだろうと再生を開始したのですが、悪い意味で期待を裏切られる結果となりました。「窓から身を乗りだして、キノコ雲のスナップ写真を撮る」という、ほんの数十秒のシーンだけが作品中における唯一のロスアラモス案件であり、アジアの悲惨をオシャンティに消費するその欧米仕草を目にした瞬間、脳の血液が沸騰するーーレフト村の同族殺しの抜け忍なのに、敵を前にしたときだけ、かつての記憶と両手に染みついた殺人術がよみがえるイメージーー感覚があり、これから記述する内容は「殺る気スイッチ」が入ったゆえの、一般性をいちじるしく欠いた放言かもしれないことを、あらかじめ公平を期すためにお伝えしておきます。

 ウェス・アンダーソン作品の持ち味って、非常にロジカルな部分と乾いたエモーショナルな部分が作中でずっとせめぎあいながら進行してゆき、最後にスクリーン上というよりは、観客の胸中で「エモが勝つ」ところだと思うんですよね。もう少し具体的に説明すると、カメラアングルと物語フレームがロジ要素で、色彩とシナリオがエモ要素になっている。本作においては徹頭徹尾、前者のエレメントが後者のそれを過半の分水嶺付近でまさり続けていて、同監督のファンが好む「なんか話はようわからんかったけど、ええもん見たような気がするわ」という読後感を、残念なことに大きく損なってしまっている気がしました。それもこれも、「隕石によるクレーター周辺に建設された核兵器の町へ、UFOに乗った宇宙人がやってくる(ネタバレ)」というストーリーラインが単純すぎると考えたのか、はたまたそれだけでは思ったほど面白くならなかったからなのか、おそらく追加撮影とパッチワーク的編集による「あとづけ」感の非常に強い、本来的には不要のメタ的な設定を導入したことが原因ではないかと推測します。「アステロイド・シティ」をかつて上演された演劇作品にみたてて、その制作秘話と舞台公演を行き来しながらストーリーを進めていくのですが、話の筋と客の理解がややこしくなるだけで、面白さの点はもちろん、ストーリーにいかなる深みも加えていないことは、大きな問題でしょう。

 演劇を意識した真横からの観客席アングルも徹底できておらず、UFOを真下から見上げてみたり、人物の表情をアップで写してみたり、「どっちつかずのふりきれていなさ」はとても気になりました。前作のフレンチ・ディスパッチにも感じたことながら、物語フレームの難解さが「難解になること」自体を目的としていて、謎解きによる収束や驚きの結末による構造からの解放をどうやら意図していない。個人的な体験を言えば、ダージリン急行のエンディングで持っていた荷物をトランクごとぜんぶ捨てて、汽車の最後尾にとびうつるスローモーションのシーンは、映画の内容すべてを忘れてさえ、非常に鮮烈なイメージとしていまだに脳裏へ焼きついていますもの! それが、本作のラストシーンで再登場する「タッパーウェアに納められた妻の遺灰」というあざといエモ小道具に対しては、意地悪く「こっちは熱線で蒸発して、壁のシミしか残せんかったけどなあ?」としか思わなかったのは、やはり題材と国籍と世代の食いあわせが最悪だったせいなのかもしれません。

 最後に白状しますが、ストーリーに入りこめなかった理由はもうひとつあって、「英語による高速かつ膨大な情報提示を、字幕ではフォローしきれない」という、主に個人的なリスニング力の欠如によるものです。もちろん翻訳担当が悪いのではなく、「機銃掃射みたいな高速ナレーションを聞きながら、文字のビッシリ詰まった看板から情報をスキミングする」ような状況に対応できる字幕なんて、この世には存在しないからです。まさに、シン・ゴジラが海外では流行らなかった理由を、別の視点から追体験させられているような状況なのでしょう(シドニィ・シェルダンかナツコ・トダによる「超訳」なら、あるいは……)。もしかすると、旧帝大卒の日英バイリンガルで平和教育のくびきから解かれた若い世代なら、アステロイド・シティをもっとも屈託なく知的に楽しめるのかもしれません、知らんけど。



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