写し取ってよ
私たちは、他者を見て、「この人はこういう人だ」と決めつける。
春、雨が降っていて、桜が咲いている日は、一年で一番悲しい日だ。今日は、あまり寒くないのでまだよかったけれど。
家を出る時、霧のように音もなく雨が降っていた。雨音はしないのに、歩くと、水色のコートがすぐにつやつやと濡れた。音楽を再生しようと取り出したスマホも濡れて、画面を指がすべった。だから、傘をさした。
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他者に「こんな人だ」とラベルをつけて、ピンで壁にとめつける。暴力的な行為だ、と思う。私の考えが刻一刻と変わるのと同じように、他者もまた刻一刻と変化を続けているというのに。
はたまた、他者を変化させたいというエゴが働くこともある。このエゴはすごく非力で、ちっとも人の心を動かすことができない。
万が一心を打って、本人が変わろうとしたとて、自分は自分でそのままでいようとする自然の力が働く。誰かの真似をしようとしても上手くいかない。人間の心にも、慣性の法則は働くようだ。
私が私であり続けることでしか、誰かに影響を与えることはできない。あの人、いいなあと思うひとはいつも自由だ。その人のたましいが、その人の身体の隅々まで流れていて、生き生きしている。
良い影響であっても、悪い影響であっても、どちらでもなくても。猫が気持ちよさそうに自分の体をなめて毛づくろいをする。それを見た子猫が真似してみる。それと同じくらい自然に、柔らかく些細な様子で、そして時間をかけながら、私たちは影響しあっている。
対人において、その人のキャラや性質を定めて把握しようとするのは、その方が感情を扱いやすくて便利だからなのか。これ以上嫌いにならないように、嫌われないように予防線を張っているのか。わかったふりをして優位に立ちたいからか。ネガティブな理由を挙げ始めるときりがない。
一方で、だれかに定められることは心地よくもある。自分ってどういう人なんだろうとわからないまま生きるのはつらい。どんな自分も持ち合わせているようでいて、あちこちに「なれない自分」との狭間・限界を感じる。そんなとき、「あなたってこういう人よね」と言われると、これでよいのだ!と何とも心強い気持ちになる。
それが、多少現実と違う自分の姿だったとしても、そういう風に写っている自分が存在していることに安堵する。
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ひとたび、親しい誰かのことをもっと知ろうとしてみると、今まで持っていた像はゆるゆると溶けはじめて、まったく手で掴めなくなってしまう。
わからない、わからない、の渦に巻き込まれると、ますますわからなくなる。
私たちは誰しも、誰かの心の中で像を結んでは、また行方不明になり、忘れられたり、思い出されたり。実態とは別に、そういう儚い側面を持っている。
エチカ
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