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記号としての「朧月夜」

久しぶりに何か書かなくては、という気持ちになり仕事終わりにサンマルクカフェに寄ってパソコンを開いている。家に帰宅したら、眠ってしまうとわかっているから。

ちょうど桜が満開で、今日は綺麗な満月が浮かんでいる。朧月夜とは、春の夜にしか使えない言葉ということを知ってから、なるほど、言葉とはルールに則って使われる、制限付きのものだなということを改めて感じる。とても不自由だ。

しかし、「朧月夜」という言葉は毎年再現することができる。毎年見る月は、見る場所、見る私自身の都合によって、同じ月ではない。しかし、決まって春には朧月夜という言葉を使うことが許される。今日はそんな言葉の再現性についてのお話。

言葉というのは、生ものではない。何年何十年何百年と経過しても、言葉は、なぞることができる。平安時代の和歌でさえ、現代に再現することが可能だ。忘れ去られることがない限りは、腐ったりしない。

言葉を残すことに価値があるのは、そんな風に全く知らない人の残した言葉を、真似ることができる点にあるかもしれない。言葉のコピーは、言葉そのものになり得るのではないだろうか。時が経っても、同等の価値をそれに見出すことができる。

絵のコピー(つまりは贋作)は、どれだけの技術をもってしてもコピーにしかなり得ない。

写真のコピーはどうか。これは、データなしの場所ではほぼ再現不可能だ。フィルムが残っているか、撮った時のデータがなくては、コピーできない。スキャンという手もあるが、それは同等の価値とは言えないかもしれない。

音楽のコピーはどうか。音には音程と、音色と、強弱などが潜在しているが、それらを忠実に再現するのは困難だ。一度生まれた音は、その場で消えていく。録音したとしても、録音された音であるから再現ではない。再現するにはあまりに不安定な存在だ。

命のコピーはどうか。クローンという意味になるだろうか。人間がクローンをつくることは許されていないが、もし存在したとしたら、本来の人間Aから作られたクローンBは、Aと同等の価値なのか。価値という基準で測れないとしたら、AとBは同一なのかという問いでもよい。AとBがそれぞれ自我を持つ場合、答えは、「同一ではない」に落ち着くだろう。


というわけで、言葉の再現性というのは、この世界ではかなり貴重なものではないかと考えた。言葉の発音の加減や、文字のゆがみ具合などを抜きにして、「言葉」という単体で考えた時に、それはあまりに普遍的であり、我々に平等に与えられた存在であることに気づく。

会得する苦労はあるものの、「言葉」は命にも勝る普遍さで我々に与えられた。

命にはそれに自動的に付随するものが多すぎる。自我や身体、意思、運命、境遇などである。その点、言葉はそれ単体で存在している。概念のみだ。だから普遍であり、だれもがその概念にアクセスすることができる。

この概念を、記号としての言葉とする。記号としての言葉を無限に組み合わせることで、オリジナリティに挑戦する作家たちよ、なんと果敢なことか。誰にでも発することを許され、無限にコピーが可能な媒体を用いての芸術への挑戦は、どこまでも発展可能だ。

言葉とは、誰にとっても平等で普遍でなければならない不自由な存在ながら、同時に使い手によって組み合わせられ、どこまでも自由になり得る存在だということかもしれない。

数百年後、数千年後に地球から月は、今と同じようには見えないかもしれない。もしそんな先の未来に日本人としての人類がいて、「朧月夜」という美しい言葉が残っていたら、未来のその人はどんな過去を想像するだろう。

かろうじてコピーとしての画像が残っていたりするのだろうか。月の景色をそのまま保存出来る袋みたいなのが出来てるかな。

今は今しかない。「朧月夜」はきれいだ。

エチカ


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