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しんぱいとのお付き合い



心配性で得することはなんだろう、得なんて、あまりないんじゃないか。

私は、いつからか、こんなにも心配性になった。心配性とは、問題についてあらゆる方面からどうしたら解決できるかを、長時間、ずっと案じてしまう性質のことだと思う。

考えごとはもとから得意なほうで、電車のなかでも、ごはんを食べていても、寝転がっていても、眠って夢をみていても、ずっと考えごとをしている質だ。それが、よい想像とか、今後のプランなどといった前向きなテーマならよいが、たいていそれは抱えている問題について「なんとかしなきゃ…」という強迫観念とともにある。

でも、それが特別に苦というわけでもない。案じていることが好きだから、自然と心配性になったのだろうと思う。でも、精神衛生上よいかと言われると、それはそうでもない。苦でもないけれど、やはり負担であることに変わりはないのだ。負担があると、うまくいくことも、うまくいかなくなる。変な力が入ってしまう。

「しんぱい」では、正解のないことに対してくよくよ考える。しばらく悩んだあとに、自分から自分へ「そんなのどうしようもないんだから!」という声が飛んでくるほどだ。どうしようもないと分かっているのに、考えてしまう。私は、この「しんぱい」との上手い付き合い方がずっと分からずにいる。

思い切って、心配しない人間になってみようか。なろうと思えばなれるかも。筋トレを頑張っている時期には、私でも不思議と気持ちが前向きになる。脳みそのなかまで筋肉がついてきて、だんだん体育会系の深くは考えない頭になってくる気がする。

でも、ふとした瞬間にこれはほんとうの私の性質ではない!  考えなくなって、鈍感になって、だれかを傷つけてしまうのでは?  と怖くなる。やはり、心配が性に合っていると認めるほかないのだろう。

心配する事柄が、自分のことではない場合、それはもっと厄介である。周りの大切な人たちが、風邪をひいたり、心を病んだり、いじわるに晒されていないか、悲しい思いをしていないか、ちゃんと食べて、ちゃんと眠れているのか。たまに、私はみんなのお母さんか?  というくらいに心配になってしまう。

背中の痛みがある人がいれば、心配しすぎて翌日には自分の背中が痛くなってしまう。あまり食べていない友人がいれば、簡単にできる料理を教えたり、栄養のある市販品を紹介したり、とにかくお節介が過ぎる。そういう風に、尽くしすぎて、気づけば自分のエネルギーがなくなってしまうのだ。

他者のことはどうしようもないからこそ、心配しすぎて、必要もないのに自分の身を犠牲にしてしまう。誰に頼まれたわけでもないし、周りからしたらかえって迷惑な話だろう。

ほどほどに心配して、あとは、切り離して自分のことに集中する、ということができるようになりたい。それがきっと「しんぱい」との上手い付き合い方。

そもそも、自分にもキャパシティが多いわけではないのだ。心身をそぎ落としてまで、だれかの心配をできる器ではないと分かったほうがいい。私は私を幸せにすることをもっと考えた方がいい。

誰もがみんな、心配なんかしないで生きられたらいい。

どうかみんな、ただ、健康に生きてくださいね。とまた、思考は結局心配におちつくのだった。


エチカ



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