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「人が物語を求める気持ち」は、旧石器時代から続いている

「出版不況は底が見えない。実用書はともかく、文芸は悲惨すぎてお先真っ暗」といった話を、よく耳にします。
「テレビドラマなんかオワコン」と言う人もいます。
どちらにも関わっている私は、
「まあ、そうかもしれませんね……」と、ぼんやりしたことしか言えません。
あれこれデータを並べたりすれば、未来を予測することはできるんだろうけれど、予測はあくまで予測でしかないし、本当に「お先真っ暗」かどうかは、先になってみないと分からない、と思っています。

もちろん、どちらも廃れさせたくないけれど、
「オワコンでも、お先真っ暗でもない!」
と無闇に反論するのは、どうもしっくり来ないんですよね。
どんなにいい物だって、時間の流れの中で廃れてしまうことはあるし、
「廃れない!」
と声を荒げてみても、解決策を見出していない限りは、単に「自分の仕事が失われることを怖れて反発している」ということにしかならない気がするので。

ただ、こんな私にも強く信じていることがあります。
それは「とにかく人は、物語がすごく好きだ」ということ。
新しいメディアが生まれて、古いものが消えていって……ということは、この先も繰り返されていくと思いますが、それでもコンテンツとしての「物語」が消え去ることは、ないんじゃないかと思っています。

最近読んだ松谷みよ子さんの著書『民話の世界』に、こんなことが書かれていました。

 人類が最初にお話を語りはじめたのは、今から四、五万年前、旧石器時代の末期と推定されている。そのころすでに、現在私たちが使っている音節言語(単語を組み立てた言語のこと)は完成していたという。しかしその時代の話は現在残っていない。 その後、月日は流れ、一万数千年ほど前に弓矢が発明された。そのころ人間は、氏族共同体とよばれる集団をつくって暮らしていた。(中略) 集団の名はよく獲れる動物や自分たちの祖先だと考えられる動物の名がつけられ、その動物と自分たちとは親戚関係にあると考えていた。 この中でまず最初に語られたのが動物の話である。彼らは親戚である動物の世界にも人間の世界と同じような秩序があると考え、自分たちの喜びや悲しみ、またこうありたいと思う規律や未来についての考えを、動物の世界に託して語るようになった。これが現在「動物ばなし」と呼ばれているものの祖先である。

なんと「お話」は、旧石器時代にはもう生まれていたといいます。
そして、
「自分たちの喜びや悲しみ、またこうありたいと思う規律や未来についての考えを、動物の世界に託して語るようになった」
という箇所にも非常に驚かされました。
これは、現代の脚本家や小説家がしていることと、ほとんど同じじゃないかと思ったからです。
違うのは、「動物」じゃなく、「架空の登場人物に託す場合がほとんど」ということぐらいじゃないかな……。

自分たちの目の前には、”今、生きている現実”がある。
そして「お話」の中には、”現実とは違っているはずなのに、どこか繋がりも感じる世界”が広がっている。
そこでは登場人物たちが泣いたり笑ったりしていて、「お話」を聞く人々は、語られている世界に憧れたり、希望を見出したり、時には自分たちの現実を顧みるきっかけを得たりもする。
そんな「お話」を聞きたいという気持ちが、旧石器時代から人々の中に芽生えていたというのなら、この先も、そう簡単に消えるはずはないと私は思います。

伝え方がこの先どう変わっていくのだとしても、「面白いお話」を求めてくれる人がいる限り、私はそれをつくり続けたいです。
お話をつくるのが、大好きなので。

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