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NovelJam2018秋へ向けて、言葉との付き合いを振り返ってみた。

11/23-25、二泊三日の合宿で「著者」と「編集者」と「デザイナー」がチームを作り、ゼロから小説を書き上げ販売する「NovelJam2018秋」に参加することになった。正直今は、あまり考えないようにしている。それくらい、高揚もしているけれど、本当はそれ以上に、怖いと思っている。あぁ、でも、どうかな。本当は嬉しくて仕方がないのかもしれない。

「藤宮ニア」というペンネームは、馴染むほど使ってきたものではない。藤宮は創作を始めた頃に使っていた名前なので多少馴染みがあるけれど、ニアなんていうのはごく最近作った名前だ。本名の「なかにし」をアルファベットにした際に、niaの三文字がそれぞれ2回ずつ登場していることに気がついてつけた。語感が「にゃあ」と鳴く猫じみていて間抜けなのも良いなと思った理由のひとつだ。カタカナにしたのは、いまだに正解かわからない。その程度のものだ。

そもそもずっと、「ペンネーム」を必要とする活動をしてこなかった。
仕事でもライター業をしているが、そちらは完全に本名の「中西須瑞化」でおこなっている。
最近、九州ADCアワード2018でベスト50に入選した企業パンフレットのライティングをさせていただいていたり、商品のネーミングを考えたり、映画「アイスと雨音」の企画でコピーを採用していただいたり、素敵なご縁のおかげでありがたいお仕事をさせていただけている。それだけでも、きっと十分しあわせなんだと思う。お仕事をさせていただく一件一件、どれも大切な案件だ。
それなのに、それでも、わたしはずっと、「まだここじゃない」という気がしていた。もっとちゃんと表現するならば、「ここだけじゃない」という感じ、だろうか。

わたしと言葉のこれまで

わたしが言葉と繋がりを持ちはじめたのは、たぶん小学校三年生の頃だ。長くなるので、飛ばしたい人はどうぞスクロールを進めてほしい。
幼稚園の頃から本は好きで、近所の図書館で貸出数の上限いっぱいまで毎日本を借りては返して過ごしていた。単純にそれしか娯楽が許されていなかったという家庭環境もあるとは思うけれど、幼稚園でも童話を読んでいたのを覚えているし、夢見がちで、純粋で、おとぎ話や物語が大好きな子どもだったと思う。よくある「ごっこ遊び」でも、一人勝手に頭の中で設定とセリフを考えながら遊んでいたのを覚えている。セーラームーンごっこでみんなで追いかけ合っているのに、一人木陰に隠れて設定とセリフを妄想して浸っているような子どもだった。今思うとめちゃくちゃ変だな。ちなみに卒園アルバムに書いた「一番怖いもの」は「死ぬこと」だった。

小学校三年生の頃、大好きだった担任の先生がいた。近藤先生という女性の方だった。彼女は「自学」と呼ばれる自由学習を推奨していて、とても丁寧に自学ノートにコメントをくれていた。日記でも、計算練習でも、お絵かきでもいい自学ノート。わたしはそこによく「詩」や「お話」を書いていた。

近藤先生は授業でよく詩を書かせてくれた。書いた詩は名前が抜かれた状態でプリントになり、クラスのみんなはそれを読み合って「ここが好き」「これが面白い」と意見を交わす。名前を伏せられた状態で自分の書いたものを講評されるのはとてもワクワクして、その中から「上手な詩」として選ばれると最高に嬉しかった。誰のものかわからない詩をたくさん読んで、「こういう表現があるのか」と発見する瞬間は最高に楽しかったし、自分にない表現を見つけるのは悔しくて堪らなかった。わたしは近藤先生のおかげで詩が大好きになった。
この頃から、わたしは小学校卒業まで毎年、作文コンクールで入選するようになった。国語が好きだと言えるようになった。詩作だけじゃなく、詩を読み合う中での音読も大好きだった。

けれど、言葉との蜜月は長くは続かない。
小学校5年生になった頃、わたしの人生で一番きつい時期が始まった。毎晩家では兄と母が殴り合いの喧嘩をしていた。母は宗教の勉強に熱を上げ、その後にネットワークビジネスを始めた。父はそんな家から目をそらすように実家に逃げるようになった。
家の中はどんどん荒れていった。食事はスーパーで父が買ってきてくれる半額シールのついたお惣菜かパン、もしくはテーブルに置かれた現金になった。兄は持病のせいで学校に行けず、フラストレーションが溜まってよく暴れていた。矛先は大抵母親だったけれど、父親がいれば父親にも怒鳴り散らした。一度だけ、普段は温厚な父が兄に手をあげるのも見た。母親の八つ当たりは大抵わたしに向けられて、兄の理不尽にも、母親の無理解にも、父の不遇と無責任にも本当にイライラしていた。毎日が戦争だった。

わたしは、「きっと誰かが誰かを殺すまで続くんだ」と思っていた。だから、そうなった時にはどうしようかという妄想をよくしていた。親とは一緒に住めなくなるんだろうか。親戚のところに行くよりは施設の方がいいかもしれない。転校することになるんだろうな。転校先でも何か言われたりするだろうか。むしろ働くことになるかもしれない。苗字は変わるだろうか。マンションの周りにパトカーがたくさんきたり、ニュースに写真が出たりするんだろうか。
そんなことを考えながら、怒鳴りあう声や物が壊れる音を聞いて、わたしは毎晩「110」をセットした電話の子機を握りしめて息を殺していた。いっそわたしを殺してくれたら楽なのにと何度も思った。

この頃、わたしは言葉とも上手くいかない関係になっていた。
何を書いても感情が乗らない。全部がテンプレートじみた、いい子の文章にしかならない。綺麗な言葉を連ねて、クラスの誰よりも早く作文は仕上げられても、マスをただ埋めていくだけの作業にしかならないように感じていた。言葉が全部上滑りする。どこにも落ちてこないし、響かない。味がしない。色がない。
案の定、小学校6年生の頃だけは作文がひとつも入選しなかった。その他の学業の成績もガクンと落ちた。算数が急にわからなくなって、社会の暗記が急にできなくなって、焦ったわたしは人生で初めてカンニングをした。そうしてとった高得点は、一ミリも嬉しいものじゃなかった。
今思えば、この頃は本当に体もおかしくて、急にお腹が痛くなって変な汗が出たり、突然お腹を下したり、そういうことがしょっちゅうあった。
クラスの友達がみんな幸せそうで羨ましかった。

創作に出会い、創作に救われた中学生時代

当時流行り始めたインターネットで、わたしはいくつかの詩の投稿掲示板を覗くようになった。中でもYOZAN東海というサイトの管理人さんには大変お世話になって、いつも丁寧なコメントでレスをくれるこの方とのやりとりが、ギリギリわたしを繋ぐひとつの要素になっていた。いつか探偵ナイトスクープに出したいくらい、一度会ってお礼が言いたい相手だ。顔も、名前も、今どこにいるのかもわからないけれど。あの時わたしと毎日のようにやりとりをしてくれていたYOZAにぃ、本当にありがとう。

中学生になってからは、いわゆるオタクで腐女子の友達が数名できた。当時のオタクや腐女子は今ほど市民権を得ておらず、だからこそクローズドでアンダーグラウンドな世界の住人たちは慎ましく節度をもって作品を愛でていたと思う。創作をする人に向けるリスペクトも、皆一様にしっかりと持っていた。わたしの友人たちは皆総じて若干スレた明るいオタクだったので、三年間大きな揉め事もなく平和に過ごすことができた。ギャルやヤンキーを見る目は冷たくも、別に彼ら彼女らを否定はしない。他者を批判するより自分たちの愛するものを愛していたいという、いい奴らだった。言い方を変えれば、みんな程よく現実には退屈や絶望を抱いていた。
このとき、人生で初めて、「絵」を描く友人ができた。漫画やイラストを次々に描き続けていく彼女のことを、わたしは心底尊敬した。自ら世界観や物語を創るということの魔法を目の当たりにして、すごいと思った。格好良いと思った。
気づけば、わたしは文章で、彼女はイラストで、他の友人らと共に創作活動をするようになっていた。いわゆる完全なる「黒歴史」にはなるんだろうけれど、わたしにとってはとてつもなくキラキラしていた時間だったし、辛い現実の中で息をするためにとても重要な出来事だった。
自分の書いた物語の登場人物が彼女の手によって形になっていくのを、わたしはかじりつくように眺めて昼休みを過ごした。帰宅後もインターネット上でやりとりをして、お絵かきチャットをしたりして深夜まで遊んでいた。イラストを見ていると物語が浮かんだ。生み出したキャラクターが動いている姿が想像できて、楽しくて夢中になって、時には涙を流したりもした。
今でも彼女のことは尊敬して止まないし、絵を描く人へのリスペクトは一瞬も揺らがずに生きてこれている。創作の力はすごい。こんなにも楽しいのかと、わたしはこの三年間でみっちり覚えたんだと思う。

その間にも、現実では家庭崩壊がどんどん進んで、気づけば母親はあまり家に帰ってこなくなっていた。別の家を借りて暮らし始めたと後から聞いた。
高校受験の時も、資料集めから学校見学から手続きまですべて一人で行った。受験当日のお弁当も自分で作った。受験した翌日、母から電話で「明日お弁当でしょ」と言われて、「もう終わったよ」と話したのを覚えている。母は電話口で笑っていた。わたしは笑えなかった。
自分で必死に探した高校には特待生で受かったけれど、母親からの許可がおりなかった。その学校は芸術学科があって、創作を学べる学校だった。結局、わたしはバスで40分かけて通う総合学科の高校へ進学した。

どこにも居場所がないと思ったとき、
わたしを助けたのはそれでも「言葉」だった。

高校生になってからは、創作活動は一切しなくなった。周りにそういうタイプの子がいない環境に入ったというのもあるし、一人前に恋をしたり部活に夢中だったりしたせいもあると思う。こう書くとリア充みたいに思えるけれど、実際家庭環境は劣悪になる一方だったし、わたしは毎日死にたいと思っていた。自殺するのも面倒だったから、ただ息をして、そこに存在しているというだけだった。

帰りのバスの中でひとりでに涙が出たり、原因不明の高熱が頻繁に出たり、学校に行けなくなったり、いろいろなガタがきていた。事故でも事件でもいいから死なせてくれないかなと毎日考えていたけれど、他人に迷惑をかけてまで死ぬ価値がわたしにはないと思って踏み切れなかった。
友達はみんないい子だった。いい子で、やさしくて、まともな家庭で育ったまともな高校生だった。家に居場所がない分、学校や部活の友達には本当に救われていた。けれど、やっぱり、ここでもわたしは虚しかったんだと思う。

わたしの疑問や、わたしの考えや、わたしの心は、その中では少し、歪に浮いていた。息ができない、と思った。呼吸の仕方がわからなくなることがなんどもあった。

そんな中でも、わたしを救ったのは言葉だった。
国語の授業で読んだ、梶井基次郎の「檸檬」。今でもこれを超える作品はないと思っているくらい、わたしの人生にとって重要な作品。

わたしの中の混沌を、わかってくれる人がいた、と思った。
それだけじゃない。こんなにも美しい日本語があるのかって、ものすごく驚いて、感動して、最高に嬉しかった。一行を読むたびにため息が出た。授業中に少しだけ泣いた。
言葉に温度が戻るきっかけになったのは、檸檬だったのかもしれないと思う。

言葉が好きで、言葉と心中したくて、言葉に生かされて息をしていたわたしは、言葉を学ぶ大学の学部へ進学した。それでも、希望していた芸術大学には行けなかった。

それから、少しずつ書くことを再開するようになった。
mixiで、Tumblrで、Facebookで、日記で、あるいは大学の課題で。
頭の中にある混沌を書き出して、書き付けることで、わたしは息ができていた。
場所や内容は違っても、「書くこと」をまた好きになった。想像力は人を生かすと信じられるようになった。家のこともあって、言葉は時に人を生かしもするし、殺しもすると感じるようになった。だからこそ、言葉を大切にしたいと思った。一緒に生きていきたいと思えた。

大切過ぎて触れられなかった。
でも、やっぱり、言葉と一緒にいたい。

とはいえ、わたしがまともに書いた「小説」なんて、大学の卒業制作で作った「Briongloid.(ブリオングロード)」という22万字のSF長編くらいのものである。あとは創作クラスタの知り合いと細々やりとりをする掌編だったり、妄想の書きつけ程度しかない。
休学後の半年で仕上げた処女作は、そりゃあもう色々と惜しいところがあるのだけれど、それでも一作品を作ったことの達成感はあった。卒業制作としての評価はそんなによくなかったし、応募したコンテストにも見事に落ちたけれど。それでも、わたしの中で「物語を書く」という確かな経験になった。

それなのに、それ以降、わたしは「創作」から逃げていた。そもそもBriongloid.だって、人目にさらせるようになるまでに4年もかかってしまった。

歪な家庭では、創作や娯楽は悪であると教えられてきた。
書くことなんて仕事になるわけがないと言われ続けてきた。
時には首を絞められて、「いい加減にしろ、殺してやる」と言われたこともある。

そこまでして守ってきた「書くこと」や「創ること」と向き合ったとき、たとえばどうにもならない困難に気が付いてしまったら。わたしは耐えられるだろうかと、ここ数年ずっと考えていた。怖くて、知りたくなくて、目を逸らして誤魔化して生きていた。

わたしには書くことの才能がない。

たとえばそれが目の当たりになったとき、わたしはとうとうひとりぼっちになってしまう。

そんなの耐えられなかった。生きていけるわけがないと思った。だから、作家じゃなく、「ライター」の道を選んでいた。生きていくために必要だというのもある。ライターという仕事をバカにしているわけでも、嫌っているわけでもない。ライターとしての難しさも苦労ももちろん知っている。そこにプライドがないわけでは決してない。
仕事として向き合う以上、言葉との共存のための闘いをやり通すのは絶対条件として考えている。ライターとして仕事をすることでしか生み出せない価値だってあるだろうし、実際、冒頭でも書いた通り、わたしはライターとして素敵なお仕事をたくさんさせていただいている。でも、ここに至るまでの入り口は、わたしにとってはやっぱり逃げだった。
わたしという人生で見たときに、本当にすべき闘いから逃げて、違う場所で生きていくための努力をしている。そんな気がずっとしていた。そんな気がしながら、ずっと、自分に言い訳をし続けてきた。

「小説家」になりたいのかと言われると、正直言ってよくわからない。
でも、WEBライターになりたかったのかと言われると、それは違うとはっきり言えてしまう。WEBライターにもいろいろあるけれど、わたしの中でのイメージがどうしても消費系ライターなのだ。(おかげさまで今は少しずつ、コピーライティングやブランディングやストーリーライティングといったお仕事が増えてきている。)
正直こんなことを書いたら仕事がこなくなるんじゃないか、とも思いながら書いている。それは大変困る。死活問題だ。でも、このとてつもなく長い文章をここまで読んでくれた人なら理解してくれるんじゃないか、とも思っている。甘い期待だろうか。それでもいい。
それでも、今回に限っては、全部書かないといけないと思って、書いている。全部なんて、正直、まだまだ足りないかもしれないけれど。それでも。

NovelJamは、SNSを見る限りすでに創作界隈で活動をされている方が多いように思う。ちゃんと創作アカウントを持っていて、そこでの発信や交流も盛んにされている。すごいなぁ、と思う。

正直、ちょっとびびっている。わたしが参戦してしまって良かったんだろうかと心配しているし、こてんぱんに打ちのめされるんだろうなぁと怯えてもいる。

ただ、ここからが始まりなのだ。

たとえば才能のなさだとか、不勉強だとか、甘さだとか。その手のものを痛感して、悔しいなと歯噛みして、それでも確実に「何か」を得て。そこからがきっと、わたしの人生で重要なスタートだ。
中学生時代の創作の原点で味わったような、「チーム」でつくることの感覚を、また濃厚に思い出せればいいと思う。高校時代のバンド活動で憧れていたような、セッションの中に身を置いて汗をかきたい。

わたしは機能不全家族で育った分、自己理解と心の成長が遅い。だからようやく今、ここまできたことを、わたしはまず自分で褒めなければならないと思う。

よく、舞台に立つ決心をした。

ここからは未知の世界だ。どんな人に出会い、どんなものを創り、どんなものを見たいと思うのか。
存分にわくわくしながら、また、「言葉」と向き合ってくるといい。


中学生時代から数えて11年ぶりに足を踏み入れる創作の世界に、どうか歓迎されるようにと願って。

読んでいただいてありがとうございます。少しでも何かを感じていただけたら嬉しいです。 サポートしていただけたら、言葉を書く力になります。 言葉の力を正しく恐れ、正しく信じて生きていけますように。