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KMM-003 「読んでは忘れて」について

noteではご無沙汰しております。仕事がうず高く積み上がっており、連載の紹介でスズキナオさんの「読んでは忘れて」だけ残っていることに非常に引っかかりを覚えてはいたのですが、こちらのテキストに記したように、基本的には仕事優先ということで手をつけずにおりました。

なのですが、先ほど更新した第4回の内容を読んでいて、辛抱たまらずログインした次第です。ぜひ、第1回からつらーっと第4回までご覧いただければ幸いです。

ことさら出版のサイトをつくるとき、スズキナオさんに何かを書いてもらいたい、という考えは最初からありました。

私はサイト以前に、まず本屋をつくりたい、という考えがあり、それ自体は2~3年前からあったものなのですが、こんな連載をしてほしい…と思うに至ったのは、ちょうど1年前(本当にピッタリ1年前で自分で今ビビってます。それで仕事アラートが消えたのでしょう)、毎日新聞に掲載された保坂和志『プレーンソング』の書評を読んでからです。

奥ゆかしいスズキさんは、「自分が人の本を評するなんて」と遠慮される方です。この連載の相談をしても同じことを仰っていました。ただ、本を触媒にして、自分に寄せた内容で書いていただくことなら、どうにかやっていただけるのではないか、と思いました。

実際に、毎日新聞の書評も、おそらくはそのような葛藤を経て書かれたもので、スズキさんのルーツであるご両親の出身地・山形県での思い出が描かれたものでした。「読んでは忘れて」も、本の内容がよくわかる、という書評ではなく、結果的によくわかるものもあるかと思いますが、スズキさんの考えがメインになっている内容だと思います。ちなみに、連載のバナーも山形県でスズキさんが撮影された写真を提供いただいています。

そして、件の第4回では、『マッチと街』と『高知遺産』という本の紹介から始まり、“愛着”についての考えが述べられています。

その内容もぜひご一読いただきたいのですが、私がいつもスズキさんの文章を読んでいて胸打たれるのが、常に考えの途中であることを、シンプルに記されていることです。

要するに何? 愛着って、時間が経ったらどんな場所にもホコリのように勝手に降り積もっていくものなのか? どんどんわからなくなっていく。

ちょうど先日、スズキさんの敬愛する、『プレーンソング』の著者である保坂和志のこんな記事を読みました。

ここで、保坂さんはこのように述べています。

 言葉にならない部分が、気持ちや考えの中にあるってことを知らない人がいるんだよね。考えることや感じたことっていうのは、全部言葉になると思ってる人たちがいっぱいいるのね。だからSNSの悪い面っていうのは、すぐに感じたことをシェアしたり、考えて書かなきゃいけないと思ってるでしょ。

 子どもの時からの読書感想文みたいなのは全部そうで「何か感じたなら考えなさい」「これを読んで、どういうことを言ってるのか考えたらすぐ書きなさい」っていう風になってて、書かない、今の気持ちや考えてることは書けないんだっていうことは許されない。もっと書くのに時間がかかって「今は感じました。考えました。考えたけど、十分考えたいんだけど、今私の中には言葉はまだありません。それは一年後かもしれないし二年後か、もっとずっと大人になってからか、もしくは全く別の経験をしてようやく言葉が出てくるかもしれないし、それでもやっぱり出てこないかもしれないけど、この今の気持ちは持ってる」ってことがあってもいいはずなんだよね。今何かを言いたくなったけど、「言えなかったというその気持ちは、ある」っていうことをもっと大事にする社会のモードがないんだよね。だから僕の本を好きな人たちって、テキパキハキハキしてる人はあまりいないんだよね(笑)。そうやって僕は、すぐに言葉のやり取りが簡単にできるような友達のグループではないところで、育って生きてきたわけ。

私は、自分でもやってはいるものの、SNSはこの世界になくてもよい、と考えている人間です。

それは、SNSによって、人間の本来大切な部分が損なわれていくのでは、という思いがあるからです。もちろん、SNSの利点、それがあることで救われた魂がたくさんあるだろうことは理解しているので、表立って文句を言うほどではないのですが。

その中の一つに、いいねやシェアを欲するあまりに、“結論”に寄りがちな発言が増えていくことがあります。

多分、ですが、特にTwitterなどでは、ドラスティックなことを、力強く言い切った内容がシェアされやすくなる傾向があるのではないでしょうか。研究した論文なども探せばあるとは思うのだけれども。

なんとなく、シェアされやすそうな、実質は同じ内容のツイートでも、最後の口調を言い切りではなく、「~と思います。」にするだけで、拡散力が1/10~1/100くらいになってしまうような気がしています。そのような流れができると、一部の人たちは、どんどん発言が尖って、先鋭化していくようになるのではないでしょうか。

熟考の末に出された結論には価値があると思います。しかし、今の社会には、SNS仕様に変換された、雑な結論があまりに蔓延しているように思います。

悲しきかな、国籍が中国や韓国であるというだけで、それに該当する人に「死ね」と気軽に書き込む人がネット上には散見されますが、本当に人が死ぬということにどれほど思いを至らせているのか。また億が一、日本人であることに優位性があったとしても、偶然の結果でしかない、自力で身につけたものではない“国籍”しか他者を見下す=自分を持ち上げる材料のないことが、どれだけ恥ずかしいことであるのかを理解している方は、ほとんどいないように感じられます。

本当に全ての責任を負える自信があるのなら、他者に「死ね」と発言することも「表現の自由」の範疇ではあります。でも、SNS上にそんなことを書き込める人のほぼ全員は、その自由に伴う責任として、自分が殺されかねない怒りにリアルな空間でさらされることがあったら、それを受け止めることができない方ばかりではないか。

はっきり言って、そんな恥ずかしい人たちが、恥ずかしいことをしているだけならどうでもいいのですが、問題はSNS上での立ちふるまいが、リアルにも反映されていくだろうことです(追記:あと、ネット上だけでも、発言に傷つく人がいるので「勝手にやってろ」で済む話ではないですね。失礼しました)。言霊と言うと安っぽくなるかもしれませんが、やはり発言には行動を引っ張る力があります。ネット上だから気軽に書き込める敵意は、それが繰り返されれば、リアルでも発言できるようになっていくものだと思います。

これは、このような極端な事例に限らず、その内容がおもしろ系であっても同じことだと考えています。シェアされやすいからと、自分の中では「とりあえずの結論」レベルのものを「熟考の末の結論」のように変換し、発信することに慣れている人は、それ以外の局面においても、同様の変換をしてしまうケースが増えていくのではないでしょうか。

私はそれを、大げさに言えば「知性の放棄」だと考えます。答えが出ないことを、結論を出せないことを、恥ずかしく思うのではなく、途中であることを素直に表明できることこそが本当の“知性”ではないのか。少し強い言い方をしてしまえば、強い意見や結論を表明しない人を下に見る姿勢は、下劣であるとすら思います。

比べるべきは、結論か、途中であるかではない。そこに至るまでの営為です。そして、現在SNSで蔓延する“結論”は、大した逡巡も経ていない、それっぽいツイートのRTを見て、軽く感染した結果のくしゃみのようなものであったりしないでしょうか?

少なくとも、そんなものよりは、ずっと考え続けて、「どんどんわからなくなっていく」と書くスズキさんの“途中”のほうが、何百倍も美しい知性の有り様であると私は信じます。でも、結論を摂取することばかりに慣れると、目の前の文章から、その背景にある営為を汲み取る能力が衰えてしまう。その結果、その美しさに、そもそも気づくことができない人が増えているような気がします。

それに、そもそも結論は変わるものです(そう言えば、SNS社会は、人が考えを変えることにも不寛容な気がしますね)。私には、すでに、結論は次の結論に至るまでの途中である、という当たり前のことも知らず、安い結論にばかり価値がつきやすい社会になっているように見えます。そして、その流れはしばらく続きそうだ…とも。

この流れに棹さすことは難しいとしても、せめて「美しい途中」の数を増やしたいとは思います。そして、スズキナオさんの書評から伝わる考えの多くは、そんな美しさを持つ宝石であると確信しています。加えて、この長ったらしい文章を読んでくださっている何人かの数奇者のみなさんは、何万リツイートを稼ぐおもしろい発言よりも、スズキさんの文章により価値を見出す方々であるのだろうと信じています。

SNS上で、多くの人がわかりやすい発言を志向してしまうのは、結果を重要視するからでしょう。

ですが私は、結果はそこまで重要ではなく、それよりも、他者の目につく場所で行う言動には、“権利”を担保する意味合いがあるのではないかと考えています。

どういうことかと言うと、たとえばこの国で戦争が起きて、国民が徴兵されるようになるとしたら。

みなさんは、自分が他国の兵士を殺せると思うでしょうか?

私は、殺せると思っています。少なくとも、そんな状況になったら。

第二次世界大戦中のものとかよりも、個人的には連合赤軍関係の本などがわかりやすいと思うのですが、異常な言動をするに至った人が、みな異常であったのかと言えばまったくそうではなく、ごく普通の人、ないしはむしろ聡明な人であったりして、そんな人たちを狂わせるのが、“状況”という装置であることがよくわかります。

そのような本を読んでいると、自分は殺せるな、と思わざるを得ません。あるいは、ビビっている間に殺されるか。

だから、私はそんなときに、他国の兵士も含め、人を殺せる人間に文句を言うことはできません。ただ、そうさせた状況に「だから言っただろう、こんなことになるって」と文句を言ってから、自分も殺すなり、殺されるなりしたい―とは強く思っています。

その文句は、実際にそんな状況になったら日本中のSNSで書き込まれるに違いありません。しかし、本質的には、文句をつける権利があるのは、そんな状況になるずっと前から、どんなに小さなものであっても―いいねやリツイートがゼロであっても―声を上げていた人だけである、というのが私の考えです。

だから、届かなくてもいいんです。

これから、もっとしょうもない結論ばかりが蔓延する社会になって、さすがにSNS上でもみんな「これはよくないな」と思うようになってしまうようなことがあったとして、そのときに「ふざけるな。だから俺は言ってきただろ、スズキさんのような考え方にこそ価値があるんだって」と文句を言う権利を自分に与えるためにやっているのが「読んでは忘れて」です。

でも、同じことを思う人が増えたら、もちろんそのほうがいいですし、文句をつけるような状況に、そもそもならなかったら最高です。

とはいえ、自分がやった後のことはよくわかりませんし、私も結局、いいねやシェアを求める人間にならないとも限りません。でも、だからこそ、途中を常に記録していきたいとは思っています。

もちろんこの文章には、スズキさんのような人に価値を感じる同士を増やしたいという下心はありますが、結果は二の次。とりあえず私としては、これを記したことで、ある程度の担保はすでに得たつもりでいます。

「流れ」について

第4回の原稿をいただく前に、「「読んでは忘れて」についてのnote更新したいな」と思ったタイミングがあります。それが、スズキさんが盟友・パリッコさんと交互に連載されている、cakesの「のんだ? のんだ!」の第6回を読んだときです。

この原稿は、毎日新聞の書評のように、スズキさんの山形の親戚のことが中心に描かれています。

私は、一読して「これこそスズキさんにしか書けない文章だな。これをベースにしたらnoteの紹介文が書きやすいな」と思っていたのですが、当時は今よりも仕事が厳しい状況で、更新する余裕がありませんでした。

そして、少し落ち着いたときには新しい原稿が追加されており、cakesの有料会員でないと読めなくなっていました(最新回が無料で読める)。

そのときは困ったなあ、と思っていたのですが、よもや、更新予定日からは1日遅れている今日が、毎日新聞の書評の1年後とは…。人生、ヤバいな!

でも、こういう、結論という点ではなく、そこに至るまで、またそこから伸びる線に物事の本質はあるはず。また、結論が美しい人ももちろんいますが、それは、そこまでの線=結論に至るまでの営為が美しいものであるからでしょう。それを暗喩するような流れになって、cakesの連載を読んだタイミングで更新できなかったことも、むしろよかったなと今は思っています(追記:後で見返すと牽強付会が過ぎる気もします。とはいえ当時の自分は整った感じがあったのでしょう)。

ざっくり内容を要約すると、スズキさんが泥酔する親戚の様子を見て、また自身が酒に呑まれる様子を俯瞰して、しかし、その姿に意味を与える内容になっています。私も有料会員ではないので、うろ覚えですが。

この内容の素晴らしさは、その意味が、スズキさん個人の人生を飛び出して、広くスズキ一族に与えられている点です。個人の人生が終点ではない。

現在、私たちが享受している権利の多くは、先人たちの戦いによって得られたものです。まだまだ十全ではないものの、差別の解消などは、文字通り命を懸けて、少しずつ歩を進めてきた歴史がある。

そして、そんな立派なものに限らず、全ての物事、人生には流れがあり、その流れを描く線の、いち登場人物であることは、本当に素晴らしいことだと思います。

ただ、自分の人生の途中で結論を出せないことは、悔しい、寂しいと思う人も多いのではないでしょうか。というか、誰でもそうかもしれない。「多い」というか「ほとんど」のほうが正しいかも。ですが、それでも、安易な結論で一旦点を打つくらいなら、線の一部でいいと思える人、線を繋ぐ役割を担うことに意義を見いだせる人が、知性のある人なのだと私は考えます。

そして、こんな肩肘張った物言いではなく、親戚や自分がへべれけになっている文章から、線の美しさを伝えられるスズキさんはやはり凄いな、と感動しました。

よろしければ、有料会員登録して読んでみてください。そして、こっそり私にももう一回読ませてほしいです…。

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