見出し画像

彼女の居場所のない世界

国の条例でBLが禁止された世界のお話です。これは何の現実とも関係のない、ただのフィクションです。


 仕事帰り、まず違和感を感じたのは、一階の窓に明かりが見えないことだった。中学生の娘はとっくに塾から帰ってきているはずだ。駐車場には妻の車が停めてある。道の駅でのパート仕事は六時にはもう終っているはず。一体何があったのか。
「チン田まことさんが逮捕された」
「……誰それ?」
 灯りも点けず、キッチンには鍋どころか包丁すら出されていない。真っ暗な居間のテーブルにノートPCだけ開いて呆然と座っている妻の姿に少なからず動揺しながら電気を点ければ、こちらを振り返って最初に言ったことがそれだ。チン田まこと? 誰だ、それは? お笑い芸人か誰かか?
「ごめん、時計見てなかった。晩ご飯作ってない……」
「いや、いいよ、夕飯は落ち着いてからでいいから、お茶か何か入れてくれるだけでいい」
 妻はしばらく呆然とした様子で僕の顔を見ていて、それから、のろのろと椅子から立ち上がった。普段は温厚でおとなしい妻の、あんな様子は見たことがない。一体何があったというのだろう。
 ネクタイをほどきながらスマホを取り出し、ニュースを検索してもそれらしい芸能人が逮捕されたというニュースは見つからなかった。出てくるのは強い台風の接近と強い風雨への警戒、芸能人の離婚、韓国の首相の汚職疑惑を知らせるニュースといったもの。おぼつかない足取りで戻ってきた妻がテーブルに湯飲みを置く。
「逮捕されたって、君の好きな漫画家か誰かの話かい? それらしいニュースも出てこないけど、何かの勘違いとかじゃなくて?」
「漫画家……漫画家といえば、そうだけど。わたしの古い知り合いで、一緒に同人誌を出したりしてた人」
「同人誌って、君、まだそんなことしてたのかい?」
 僕と妻は高校時代の同級生だ。とはいえ、当時はさほど仲良くしていたというわけでもなかった。僕は人数の足りないバレーボール部の部員で、妻は文芸部員。同じクラスという以外に特に共通点はなく、高校の同窓会で再会するまではさして縁があったわけでもない。そうしてあの頃、妻が同人誌とやらに手を出していたらしいということは、なんとなく噂に聞いてはいた。
 いつも教室の隅っこの方に集まって、不自然に高い声の早口で盛り上がっている数人ばかりの女子の存在を、何か得体の知れない動物のように思っていたことは憶えている。とはいえ二十代も半ばを過ぎて再会した同級生はごく目立たない雰囲気の普通の女性に成長していたし、読書好きで旅行好きという以外にはとりたてて趣味らしい趣味もない。強いて言うならば今でも漫画好きでよく少年漫画を買い集めている以外には、特に変わったところもないと思う。
「あー、ごめん。まことさんって言っても分からないよね。ちょっと頭が混乱してて。私の友達で昔からよく旅行も一緒に行っててさ、今は商業で漫画も書いてて……あなたに言ってもわかんないか。今日、なんか新しい法令が出たみたいで、事情聴取受けることになったって連絡があったの」
「ちょっと待ってくれよ。君、そんな危ないものを書いてる人と付き合いがあったのか? 旅行? 君の趣味が旅行だったのは、実優が産まれるより前のことだろ。そんな大昔の友人が事件に巻き込まれたって、君は大丈夫なはずだよ」
 妻はのろのろと顔を上げると、無理矢理に顔を握りつぶしたように笑ってみせる。「そうだねえ」と答えると、「何か作るね」と言って椅子から立ち上がる。その目元が真っ赤に腫れていることにも、さすがに僕も気付いていた。
 新しい法令? 何のことなんだろう。そういえば一階では母親が灯りも点けずに泣いていたことに、妻と仲の良い実優が気付いていないはずがない。妻にとって何か尋常では無いことが起こっているらしいということは分かるけれども、僕にはどんな事件が起こっているのかすら想像もつかなかった。ニュースサイトをいくつも巡ってみる。そうしてようやく、それらしい記事をひとつだけ見つける。
 青少年健全育成のための新法令が衆参両院で採決。青少年に有害なコンテンツを配信するサイトの運営者に事情聴取。

「お母さん、ずっと同人やってたよ」
 お父さんには秘密にしてたけど、と実優は口ごもる。初めて聞いた話だ。「だって言ってないもん、私も書いてるもの見せてもらってないし」と言われて、ますます意味が分からなくなる。同人をやっている? そのことを知っているけど見せてもらってはいない? 一体どういうことなのか、さっぱりわけがわからない。
 結局、今日の夕飯はレトルトのカレーと作り置きのピーマンの和え物だけになってしまった。今日はもう疲れたから、と妻が早々に寝室に引っ込んでしまった。今日ばかりは何を聞いても答えてくれそうにない。仕方ないからと娘に聞いてみると、怒ったような顔で答えてくれた内容がこれだ。
「お母さん、寝る前とかよくパソコン弄ってたじゃん」
「あれ、ブログか何かをやってたんじゃなかったのか」
「そうじゃないよ、ずっと二次創作小説書いてたの。動画作ったりもしてたし、お母さんオタクだからさあ。あたしもそうだけど」
 そういえば妻は文芸部員だったか……まさか未だに書いているとは知らなかった。「二次創作って何なのか、聞かないでね」と娘が渋い顔で言う。
「分かんなかったら自分で検索して。恥ずかしいから! あと何書いてたのかは聞かないでね、あたしも知らないから。ジャンルは知ってるけどHNは教えてもらってないし、そもそも読ませてもらってないし」
「その、なんでそこまで詳しく知ってるのに、小説だけ読ませて貰ってないんだい。お父さんなんて、そんな話初めて聞いたんだぞ」
 実優は口を横に引き結んで僕の顔を見る。こんな嫌そうな顔で見られたのは初めてで、正直なところ、僕は内心そっと傷ついていた。自分で言うのもおかしな話だが、僕は娘とは仲が良い方の父親であるつもりだった。少なくとも今でも休日に近くのショッピングモールまで送ってくれとねだられる程度には、娘に頼られていたはずだ。
「お母さんが書いてるの、R18中心らしいんだよね……その……まあ、えっちな小説書いてんの。だから私まだ中学生だから読めないの」
「はぁ!?」
「言っとくけど、お母さんだけじゃないからね! そういう人いっぱいいるから! R18じゃない同人だったら私も書いてるし、私のフォロワーさんでもR18も健全も書いてるひともいるし、健全だけだったら読ませてもらってるし」
 頭がクラクラしてきた。
 僕の知らないところで、妻と娘は何やら知らない世界を作っていたらしい。小説を書いている? すごい話だとは思うが、R18というのは……ポルノ小説だろうか。自分の妻がポルノ小説を書いていたというのは相当にショックな話だ。浮気をされるよりはずっとマシだとはいえ、欲求不満でもあったのだろうか。
「すまん、お父さん、よく分からん。実優、お茶入れてくれないか……」
「自分で入れてよ、お茶くらい。……それで、逮捕されたっていう人さ、多分お母さんと仲の良い同人仲間だったんだと思う」
「チン田まこと?」
「女の人だと思うよ。そういう変な名前名乗ってる人、いっぱいいるから。お母さんずっと同人やってるからプロになってる知り合いもいるんだと思うし、」
 ふと、娘が口ごもる。一体何なんだ。寝室がある方にすこし目をやるけれども、もう眠ってしまっているのか、何の気配もしてはこない。
「今、ツイッターが大騒ぎになってるんだよね。人気のあるBL作家の人のとこに警察が来たとか、アカウントが凍結されてるとか無茶苦茶で」
 私のフォロワーさんも何人も凍結されてるし。不安げな表情でつぶやく実優に、けれど、やっぱり僕は困惑するしかなかった。だいたい僕はツイッターをやっていない。正直なところ、デマやヘイトスピーチばかり流れてくるだとか、炎上騒ぎの話ばかり聞こえてくるSNSに中学生が参加しているということ自体とても良いことだとは思えない。
「お父さん、ぜんぜん同人誌とか分からないけどな」
 正直なところ、妻の知り合いが何か犯罪行為に関わっているかもしれないこと自体が不安で仕方がない。小説が書くことが趣味だということも今日初めて知ったばかりだ、あまり分かったようなことはいってはいけないのかもしれないけれど。
「実優、しばらくネットからは離れなさい。お母さんにもそう言っておくから。お父さんにはそういうことはよく分からないけれど、法に触れるようなことをしている人とは関わらない方がいいと思うぞ」
 実優は僕の顔を見る。眼鏡の奥の目がまたたき、くちびるが強く噛みしめられる。
「――お父さん、ぜんぜん分かってない」
 実優はそう吐き捨てると、ふっとソファから立ち上がった。おい、と呼び止める暇もなく、そのまま二階へと上がっていってしまう。パタパタと階段を上がって行く音が聞こえてくるのを、僕は呆然と聞いていた。

 翌日以降、いろいろと自分なりにニュースを調べてみても、妻と娘が一体何に関わり合いになっているのかはさっぱり分からないままだった。
 法令で一部の漫画や小説が規制されたと言ってもアダルトな表現を含むものの取り扱いについてを慎重に行うようにというごくまっとうな内容のものでしかなかったし、一部の識者が表現の自由を引き合いに出して問題視している様子はあってもそれ以上の何かが起こっているというわけでもない。ただ同人活動の萎縮が経済に影響を与えるかもしれないというニュースが気に掛かった程度で、職場でもニュースサイトでも特に騒がれるようなことは起こってはいないようだった。
 BL。男性の同性愛を取り扱ったポルノ作品。どちらかというと妻がそんなものに長年関わり合っていたということのほうがショックだったし、僕にそのことを隠していたということのほうがずっと問題であるように思えた。
 妻だけじゃない、娘もだ。そんなものを読んでいて、精神に不健全な影響がありはしないか。――いや、それはさすがに考えすぎかもしれない。妻は確かにそういった変態的なものを好んでいたかもしれないけれど、世の中には得体の知れない趣味を持った人はいくらでもいる。僕の大学時代の先輩には、爬虫類の飼育が趣味という人もいた。何匹も蛇やトカゲを家に飼っていて、冷蔵庫には冷凍したヒヨコやらネズミの仔だのが入っているという話を聞いたときは薄気味が悪くて仕方がなかったが、今はその人もまっとうに家庭を持っている。妻だって生真面目ですこし神経質なところはあるものの、結婚したことを後悔したことは一度もない。
 そうだ、たかが趣味じゃないか。過去を振り返ったって仕方がない。ただ、今後はどうなるというのだろう? 
 たかが趣味のためだけに、妻と娘が何か被害を被ることの方が問題じゃないか。

「お父さん、今週末、友達が何人かうちに泊まりにくるから」
 妻がそう言い出したのは、ちょうど夕飯を食べ終わったところだった。鰯の生姜煮、キュウリの酢の物、なすと豆腐の味噌汁、筑前煮。いくらなんでも唐突すぎる。「え?」と思わず聞き返す僕に、「みんな、長い付き合いの友達だから」と妻は繰り返した。
 もうこの話を聞いていたのか、娘は「ごちそうさま」と手を合わせると、黙って皿を台所に持っていった。皿を洗う音が聞こえてくる中で、妻は僕の目を見つめ、ゆっくりと繰り返す。
「うちにはお義父さんたちがいた部屋が空いてるでしょ。みんなにはそこに泊まってもらうし、わたしはパートで休みも取らせてもらったし、あなたに迷惑はかけない」
「待ってくれよ、友達ってそれ、何の友達なんだ? こんなところに何しに来るっていうんだい」
 言っちゃ悪いが、ここは田舎だ。観光するようなところもないし、都心から来ようと思えば新幹線と電車を乗り継いで二時間はかかる。そんなところにわざわざ訪ねてくる理由があるとはとても思えなかった。
「何人かって具体的には何人なんだい。どういう人たちなんだ? そもそも、うちに何しに来るっていうんだ?」
 妻は、目をそらそうとはしなかった。ゆっくりとした口調で言う。
「私の同人誌の友達。もうすぐイベント……同人誌を売るためのフリーマーケットみたいなものがあるから、そのための原稿を書くための場所が欲しいの。うちなら部屋も空いてるでしょ、三日ぐらいでいいの、泊めてあげて欲しいの」
 かるい目眩を感じる。
「原稿って何なんだ。漫画かい? それと、それは君の大学のサークル仲間か何かなのか?」
「ううん、色々。ただ、女の人ばっかりだけど。ネットで知り合った人ばっかりだし、歳も住んでる場所も色々だから。でもみんなアマチュアだし……信頼できるかって言うんだったら、お父さんがわたしを信用しているんだったら、信じてほしいとしかいえないんだけど」
 妻の目線が無性につらく思えて、僕は目線を落とす。テーブルの上に置かれた妻の手、丸々としてやわらかい指に結婚指輪が光っている。
 僕は大きく息を吸い、吐き出した。
「いいよ、かまわない」
 妻がぱっと顔を上げた。
「ありがとう、よかった」
「何日も泊まってもらうんだろう、何か美味しいものでも食べてもらおうじゃないか。……けど、なんでうちなんだい?」
 妻は笑ってくれた。よかった、ようやく明るい顔をしてくれたと、内心でホッとする。誰だか知らないが知り合いが逮捕されたらしいという事件以来、ずっと暗い顔ばかりしているのがどうしても気掛かりだった。
「ホテルかどこかだと誰に見られるか分からないし、みんなで集まれるぐらい広い家はうちしかなかったから。それに……どうしても直接会って話がしたかったし」
「直接会って?」
 知り合いだったら、直接会っている方が普通なのでは? 僕はよほどいぶかしげな顔をしていたらしい。妻は苦笑する。
「みんな遠くに住んでるからね、なかなか会うチャンスがないの。ネットの知り合いなんて、そんなものよ」
 
 週末。
 僕がいても邪魔だろうと久しぶりに映画を見に出かけ、戻ってくると扉を開ける前から良い匂いがする。今日の夕食はどうやら鍋らしい。玄関を見ればたくさんの女性の靴がある。スニーカーがあり、スタッドを打った厚底のブーツがあり、リボンのついた革靴があり……
「あっ、お邪魔しています!」
 元気の良い挨拶が出迎えてくれて、その声が思ったよりも若いのに驚く。元は僕の両親が使っていた部屋から顔を出すのは、短く切った髪を明るい金色に染めた若い女性だった。これが妻の友人? どう見ても10歳は年下に見える。お世話になっています。失礼しております。それぞれ挨拶に出てくる女性は全部で四人、それぞれまるで統一性の無い服装と雰囲気に頭が混乱する。これはどういう集まりなのだろう? 妻と同年代の太った女性がおり、どこか都会的な雰囲気の女性もおり、もう少し若い二人は人形が着るようなレースの付いたワンピース、それにバンドのロゴが入った大きなTシャツを着ている。四人で入るには狭いだろうに、足の短い卓を床に置いた上に何やら横に倒した薄型テレビのようなもの、タブレットやらノートPCやらを持ち込んで、賑やかに話し合っている。廊下にまで階段の途中に座っていた娘が、「おかえりなさーい」と嬉しそうに迎えてくれる。横には何冊もの薄っぺらい本が積み上げられていた。
「いやあ、すごいな。あれが君の友人かい?」
「そう! ぺこさ……ええと、あの金髪の人と、ショートカットの人は東京から来てくれたの。一番年上の人は、大学生のころからのわたしの友達」
 昔はよく一緒に旅行に行ってたの。妻がうれしそうにしているから、いぶかしく思う気持ちもすこしは収まる。妻が鍋の準備を始めると、「手伝いますよ」と太った女性が部屋から出てきた。
「ええと、あなたは……」
「森重と言います。奥様には学生時代からお世話になっています」
 やや高めの声の出し方がすこし妻と似ている。僕は高校時代にクラスの隅に集まっていたころの妻を思いだした。
「今回は急な話なのに、お宅に泊めてくださってありがとうございます。奥様と直接会うのもずいぶんと久しぶりだから、私たちもはしゃいでしまって」
「はあ。直接、ということは、それ以外ではまだ妻と親しく……?」
「ええ、最近はずっとネットでの付き合いですけども」
 妻にもこういう交友関係があったのか…… ひどく不思議に思う。食事の準備の邪魔にならないように、夢中で漫画を読んでいる様子の娘の隣をすり抜け二階にあがる。階下からどっと笑い声が聞こえてくる。あれこれと話し合っているらしい様子は、高い声のせいで熱帯の鳥でも鳴き交わしているようだった。
 普通の女性ばかりじゃないか。
 どういう経緯で知り合ったのか、さっぱり分からないけれど。
 少なからず頭が混乱する。あれが男の同性愛の漫画やら小説やらを書きたがる人たちだって? なんでそんなことをするのだろうと思わずにはいられない。一緒に話をしているだけであれだけ楽しそうにしていられるのならば、もっと普通の趣味で仲良くしていれば何の文句も付けられずにいられるものを。
 少し考えてから、今日は妻たちの邪魔にならないように、部屋で夕食を食べるようにしようと考える。あの学生の部活のような集まりの中に混じるのも野暮な話だろう。上着を脱いでからトントンと階段を降りていくと、途中に座っていた娘を蹴飛ばしそうになる。
「こら。廊下で本を読むのはやめなさい」
「だって、他に座るとこないんだもん」
 娘が口を尖らせる。横に積んである薄いパンフレットのようなものはなんだろう? 「それ、なんだい」と問いかけると、娘はしばらく考えた後、こちらに向けてページを広げた。
「お母さんの知り合いの人が書いた同人誌」
 巧いものだ。まるでプロの漫画家みたいじゃないか。僕が感心していると、すこし開けてから、娘は付け加えた。
「逮捕された人の書いた本の、私の歳でも読んで良いやつだよ」


 どうやら彼女たちは、今夜は眠るつもりがないらしい。
 遅い時間になるとさすがに話し声は小さくなったものの、下の階の灯りが消える様子はない。あの中に混じってソファの前を占領するのも気が引けた。たった数日の我慢だ、今日は部屋でビールでも飲んで早々に寝てしまおう。
 そう考えていたのが、ふと、妻の集めている漫画を読んでみようと思いつく。普段はろくに興味もわかないのが、そんな風に思ったのは熱心に漫画を書いている人間が何人も家の中にいるせいだろうか。
 階下に降りると、まだ娘が起きていた。パジャマ姿に着替えた娘の隣にあの派手な金髪の女性が座っていて、何やら横に寝かせたモニターのようなものを前にペンを握らせている。僕に気付いて、「ああ、どうも」と頭を下げる。
「お父さん、どうしたの? ……え、それ読むの?」
「ああ、たまにはいいかと思ってね」
 リビングの隅におかれている、背の低い本棚。その前であれこれ迷っていると、「そいつ、オススメですよ」と金髪の女性がそのうちの一冊を指してくれる。どうやらスポーツ漫画らしい。「どうも」とかるく会釈をすると、「どーも」と彼女も笑って頭をさげた。
「何やってるんですか? 絵?」
「ああ、これ液タブっていって、絵を描くためのツールなんす。あたしの作業はもう終ったんで、娘ちゃん、使ってみたくないかなあって思って」
「お父さん、これすごいよ。高校受験受かったら液タブ買ってもらおうかなあ」
 耳にじゃらじゃらとピアスをぶらさげた出で立ちを警戒していたものの、思いのほか、気の良い人であるらしい。「子どもの相手は大変でしょう」と言うと、「同じオタクっすから」と笑って答える。
「しかし、君たちは何の集まりなんだい。プロ漫画家を目指しているとか?」
「まさか! あたしらは同人屋なんで。ぺ……森重さんはプロやってたこともあるみたいだけど、今は書いてないですしね」
 プロになろうとも思っていないのに、なんでこんな大変なことをしようと思うのか。僕はずいぶんといぶかしげな顔をしていたのだろう。彼女は少し笑うと、
「好きでやってることなんで」
 と答えた。
 好きでやっていること。変態のような漫画を書くことが? と、「お父さん、どうしたの」と後ろから声をかけられる。妻が冷蔵庫をあけて大量のいなり寿司を皿に積み上げている。おおかた、夜食といったところだろうか。
「お父さんも食べる? よかったらビールも持って行くけど」
「ああ、頼むよ」
 漫画を何冊かまとめて本棚から抜いている僕を見て、妻は目を丸くする。まさか僕が漫画に興味を持つなんて思ってもいなかったのだろう。僕だって考えを変えることぐらいある。熱帯の鳥のような声は相変わらず途切れ途切れに聞こえてくるし、娘はひどく熱心な様子で『液タブ』に向かい合っている。

 漫画は思いのほか面白かった。途中で何度か階下と往復し、最終刊まで読み終わったところで目を上げると、もう時計の短針は真上をとうに過ぎている。
 本を戻そうと階下に降りれば、誰かが庭に出ているのが見えた。家の前に点った街灯にうす青く揺れている煙が見えた。あの太った女性が庭でたばこを吸っているらしい。しばらく迷った後、僕は冷蔵庫からビールを取り出し、窓ガラスをかるくノックする。
「あ、すいません。ちょっとヤニが切れてて」
 彼女は携帯灰皿を出してきて、まだ半分以上残っているたばこをもみ消そうとする。「いえ、お構いなく」と軽く手で制止をして、僕は彼女のとなりに腰をおろした。
「どうですか、一杯」
「ああ、どうも。けど、結構です。今飲んだら寝ちゃうんで」
 どうやらまだまだ起きているつもりらしい。大変なことだ。缶ビールのプルを引くぼくの隣で、彼女はまた大きく煙を吸い、吐き出す。たばこの煙がうす白く揺れながら夜空に登ってゆく。
「大変ですね、こんな夜中まで」
「いえ、好きでやってることですから。……って、他の誰かも言ってましたかね」
 私たち、好きだけで20年もこんなことやってきて。笑う彼女に、僕は複雑な気持ちになる。
「ぜんぜん知りませんでした、妻にこんな趣味があったなんて」
「そりゃあそうです、家族に隠してる人のほうが多いですから。わたしも旦那には黙ってます。――それにもう、これもおしまいです」
 僕は思いだす。階段の途中に座って、娘が読んでいた薄っぺらい本。
「良いじゃないですか、続ければ。BLじゃないものを書けばいいんですよ。他の趣味だっていいじゃないですか、せっかくあんなに仲がいいんだから」
 何も人から後ろ指を指されるようなものを書かなくても良い。変態みたいな漫画なんて書かなくたっていいじゃないか。けれども彼女はわらって首を横に振った。
「私ら、BLが好きだから長いこと付き合ってきたんですよ。それにじきに連絡も取れなくなります。今回、みんなで泊まろうって話を奥様がしてくれたのも、これが最期だからですよ」
 まさか、どうして。
「ツイッターが方針を変えたんです。BLを書いたらアカウントが凍結される。他のSNSサイトもたぶんそうなるんじゃないかな、条例違反になる可能性があるんで。私ら、基本的に本名での付き合いはしてないから、そしたらすぐに連絡も取れなくなる」
 それに、と彼女は付け加える。
「今書いてる漫画だって、多分、売ることはできません。印刷は……どうしようかな。印刷所に持ち込んだら足が付くし、コンビニでコピーしてコピー誌にするか。コミケは踏ん張ってくれるとは思うけど、宣伝が出来なきゃ同人誌は売れませんからね」
「なんで……」
「さあ、なんでなんだか。青少年の教育に本当によくないっていうんだったら、私ら、みんな犯罪者になってないとおかしいんですけどねえ」
 ――どうしてそういう言い方ができるのか、僕には分からなかった。
「うちにも警察が来ました。昔書いてたもんが書いてたもんなんで、一応、事情聴取しとこうってことなんでしょう。手元に残しておいたデータも消しました。旦那と子どもに迷惑はかけられませんから」
 けどまあ、こうなるかもしれないとは思ってましたから。
「……他のものを書けばいいのでは?」
 阿呆のようだと自分でも思った。けれども、同じことを聞かずにはいられなかった。けれども、逆に彼女は問い返してくる。
「どうして、他のものじゃなければいけないんですか?」
 これが書きたかったのに。
 だから、これを書いてきたのに。
「夢中でこれ書いてきて、それで友達作って、人に読んでもらって喜んで……でも、全部もうおしまいです。20年ぐらいが綺麗に消えちゃうとか、もう、笑う以外どうしたらいいのかわかんないんですよね」
 彼女は笑って、携帯灰皿でたばこをもみ消す。頭がひどく混乱する。――けれども、心のどこかで思ってしまう。
「娘は、まだ間に合いますよね?」
 実優には、犯罪者になってほしくない。BLなんかに関わり合いになって欲しくない。彼女は肉に埋もれてちいさく見える目で僕を見て、「わかんないですね」と言った。
「ただ、お嬢さんから本やゲームを取り上げたり、漫画を書くことを止めたりしないであげてください。私ら、もし親にそうされてたら、今まで生きてこられたかどうかもわかんないんです。巧くやる方法はどっかにあるはずです、余所の人間から見てBLに見えないように書く方法が……」
 まあ、どうにか生き延びてみますよ。彼女はそう言って、こめかみを指でトントンと叩いてみせた。
「何しろ、ここの中味は取り替えようがないですからね。好きって気持ちが捨てられないなら、諦めずに、好きなまんまで生きていくだけです」

 妻はそれから、庭にチューリップを植えるようになった。
 幼稚園児がクレヨンで塗ったような色の花壇を見て、隣家の老婦人は、「園芸をはじめられたの?」と言う。妻は笑って「いいえ」と言う。
「ただ、他にやることがないものですから」
 妻はもう、ノートPCに向かうこともなくなった。娘は部屋に大学ノートを持ち込んで、僕たちの目を盗んで何やら書き物を続けている。
 ネットニュースの片隅に、今日も女性漫画家が書類送検されたという記事が載っているのを見つける。
 それが知らない誰かであるのか、それともあの日我が家に集まった女性たちのうちの誰かであるのか。見分ける手段は僕にはない。
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?