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【ジョジョnote】第5部考察 構成編 ジョルノ・ジョバァーナ その④

目次
ジョジョnote

前回
構成編 ジョルノ・ジョバァーナ その③

1-6. 歴代ジョジョの「戦う理由」
[信頼度: B (それっぽい! 推測)]

ここまでのジョルノ考察は、どちらかというと抽象的というか、
キャラクター設定の背景などについて考えてきた。
考えが飛躍しすぎに感じられる部分もあるが、そこは読み手の判断に委ねたい。

今回は、マンガ本編に話を戻し、
歴代ジョジョの「戦う理由」という観点から、
ジョルノ・ジョバァーナというキャラクターの特殊さを考えてみよう。


A. ジョースター家のジョジョが戦う理由(第1部-第3部)

まずは、第4部までの歴代ジョジョ、それと物語が一端完結するという意味で、
第6部の主人公・空条徐倫の戦う理由を振り返ってみる。

第1部 ジョナサン・ジョースター
ジョナサンとディオの出会いは受動的(ディオの方からやってきた)。
吸血鬼ディオが生まれてしまったのは、自分が研究していた石仮面が悪用されたことや、ディオとの関係が劇的にこじれてしまったことが原因。
(もちろんほとんどの問題はディオ側にあるわけだが)
→ 吸血鬼ディオを生み出した責任感や、石仮面の因縁に巻き込まれる形で
「戦わなければならない」

第2部 ジョセフ・ジョースター
冒頭のストレイツォ戦は祖父の代からの因縁によるもの。
その後のサンタナ戦・柱の男たちとの戦いも、
ナチスが余計なことをしたから。
戦うモチベーションはエリナばあちゃんのためであり、スピードワゴンのためでり、最終的にはシーザーやリサリサなどの仲間のためである。
→ 過去からの因縁や、ナチスが目覚めさせた柱の男の因縁に巻き込まれる形で
「戦わなければならない」

第3部 空条承太郎
承太郎が戦う理由は極めて簡潔だ。
それは、ジョナサンの代から始まった100年に渡るDioとの因縁にケリをつけるためであり、Dio復活によって瀕死の床についた母ホリーを救うためだ。
→ 過去からの因縁に巻き込まれる形で「戦わなければならない」


第1部から第3部までのジョジョが戦う理由を振り返ってみた。
これは少年漫画の宿命なのかもしれないが、
「『悪』がいるから、戦って倒さなければならない」
ジョナサン・ジョセフ・承太郎が戦う理由の根源だ。
しかも、その『悪』は、現実の厄災として主人公たちに降り掛かってきているもので、主人公たちには「戦わない」という選択肢がない。
逆に言えば、「悪(ディオ・カーズたち・Dio)が存在しなければ、彼らには戦う理由がない」ともいえる。

そこが、ジョースター家の主人公たちがもつ、弱点といえるのかもしれない。
ジョースター家の人々にとっては、
「自分(たち)に危険・厄災をもたらす悪からの攻撃が先手で、
トラブルに巻き込まれた自分たちは後手に回って戦わなければならない」


B. ジョースター家のジョジョが戦う理由(第4部・第6部)

この構図は、第4部・第6部ではどうなっているだろうか?

第4部 東方仗助
第4部は序盤から中盤にかけて、「物語の方向性がない」という点で特殊だ。
(そのあたりの考察はこちらにまとめてあります)
ここでは、戦う理由に焦点をあててみよう。
冒頭アンジェロ戦にはじまり、形兆戦・音石戦・吉良戦。
いずれも、杜王町に襲いかかる、あるいは内部から食い破るような悪を倒すために仗助たちは戦う。
→ 杜王町のトラブルに巻き込まれる形で「戦わなければならない」

第6部 空条徐倫
冒頭、徐倫は父・承太郎と同じように、刑務所に放り込まれることから物語が始まる(留置所と刑務所ではハードさが桁違いだが…)
徐倫が戦う理由も簡潔だ。
Dioの思想に感化されたプッチ神父の策謀によって、植物人間化された承太郎を救い出すために戦う。
→ プッチ神父の策謀に巻き込まれる形で「戦わなければならない」

やはり、ジョースター家の面々が戦う理由は、
「巻き込まれたから、戦わなければならない」なのだ。


C. ジョジョにおける「悪」とは?「正義」とは?
[信頼度: A (確からしい! 出典あり)]


僕がいいたいことは、「ジョースター家は消極的な人たちなんだ…」ということではない。
仕方なく戦ってるんだ…という話でもない。
戦いの起点となる意志は誰に端を発しているのか?
ということなのだ。

ジョジョにおける戦いの起点を理解するために、
ジョジョにおける「悪」とは?「正義」とは?
この点を今一度振り返ってみよう。

まずは、第4部の終幕におけるジョセフの発言だ。

「この町の若者は 『黄金の精神』を持っているということをのォ
かつて わしらもエジプトに向かう時に見た……
「正義」の輝きの中にあるという『黄金の精神』を……
わしは仗助たちの中に見たよ……
それが あるかぎり 大丈夫じゃ……」
(第4部 最終話 「町の守護精霊」)

どうやら、仗助や康一くんたちの中には、「正義」や「黄金の精神」があるらしいい。

そんな康一くんは、ブラック・サバス戦の後に、犠牲になった清掃員の爺さんの死を悼むジョルノを見て次のように語っている。

「だけど…
ジョルノの話の中には『正義の心』があったんだ
ぼくは いつも『それ』を見ていたからわかるんだ…
杜王町でジョースターの血統を受け継ぐ「3人」をいつも見ていたから
『正義の心』が まるで
自分のエネルギーだとでもいわんばかりのあの3人を!

今の 犠牲になったおじいさんを見る彼の目にも
『それ』があった!
彼の体の中には まぎれもなく
ジョースターの意志を受け継いでいたんだッ!」
(第5部 「ギャング入門 その⑥」)

このように、ジョルノを含めジョースターの人々の中には「正義の心」がある。

しかし、この「正義」とはなんだろうか?
荒木先生は、マンガという表現手法でそれを描き出しており、僕らはジョジョを読んで感動する。
それ故に、ジョースター家の人々の行動が正義なのはすごく伝わってくるけど、「正義って何?」ってことを言葉で定義しようとすると、難しくなる。


こういうときは、「相手」を見れば良い。

第5部中盤、教会のエレベーターの中でトリッシュがボスに誘拐された後、ブチャラティは叫ぶ。

「吐き気をもよおす『邪悪』とはッ!
なにも知らぬ無知なる者を利用する事だ……!!
自分の利益だけのために利用する事だ…
父親が なにも知らぬ『娘』を!!
てめーだけの都合でッ!」
(第5部 「ブローノ・ブチャラティ その少年時代」)

ここで、興味深い言葉が、第3部の承太郎の口からも語られている。
物語冒頭、肉の芽によって操られた花京院が学校の女医を攻撃したときだ。

「だが こんなおれにも はき気のする「悪」はわかる!!
「悪」とはてめー自身のためだけに
弱者を利用し ふみつけるやつのことだ!!」
(第3部 「花京院典明 その②」)

「悪」の概念については、荒木先生のインタビュー中でも語られている。

「そのように悩み抜いて生み出した悪役がDIOなのですが、不老不死の彼は、とにかく「俺」を中心に考え、行動します。彼の世界には「俺」と「俺以外」しか存在しない。世界を征服したいというわけではなく、自分の行動圏内で家族とか恋人とか仲間とか、そういう社会的な幸福感を全否定して、「俺」の存在を実感できれば欲求が満たされるんです。」
「至高の悪としてのDIOの存在 」
kotoba 39 悪の研究(2020年春号)18ページ
集英社

このように、ジョジョの世界観において「悪」とは、
利己的 = 自分だけのために他者を傷つける者

と表現できるだろう。

この対極にある存在を「正義」とするならば、
利他的 = 自分以外の者(他者)のために戦い、悪から守る者

と表現できる。

「『悪』がもつ意志」は強い。
ディオも、カーズも、Dioも、吉良も、ディアボロも、プッチも。
なぜなら、彼らは「自分の価値観」に基づいて、「自分のため『だけ』に」戦うからだ。特にプッチに至っては、「自分は善きことをしている」とすら思っている悪の自覚がない人だから、手に負えない。
(彼は、自分の価値観 = 運命を覚悟することは、万人にとって大事だと勘違いしており、自分以外の人の都合を全く意識せずに世界を変えてしまう人。だから、第1部から第6部の中で、最も邪悪な人といえる


悪は、「自分のためだけ」に戦う。
ジョジョの世界観においては、物語は「独善的・利己的な悪」がジョースター家側に厄災をもたらすことから始まる。

だから、ジョースター家の人々が「正義」に基づいて戦う限り、
「悪が先手をとり、正義は後手をとって守るために戦う」というのは、
悪と正義の性質を考えると抗えない構造なのだ。


D. ジョルノは「夢」のために戦う

さて、今回の本題である、「ジョルノが戦う理由」に挑んでみよう。

他のジョジョたちとジョルノとの決定的な違い。

それは、「夢がある」ということ。


第5部は、ジョルノを含め、主要キャラクターたちの戦う動機が、生い立ちを含めて詳細に描かれている。
中でもジョルノは、「ギャングスターになる夢」があり、
そのために戦っている。

ジョルノにとって、「夢」とはどんな影響をもたらすのだろうか?
ジョルノは頻繁に、「僕には夢がある!」と語る。
特に、敵と対峙するときや、危険なミッションに挑む時に、
あたかも自分に言い聞かせるかのようにこの言葉を唱える。

ジョルノが「僕には夢がある」と唱える場面を振り返ってみよう。
・麻薬少年に同情したブチャラティに攻撃しなかったとき
(夢がある、とは言っていないが、夢の内容を語っている)
(ブチャラティが来る その⑤・塀の中のギャングに会え その①)
・ブラック・サバス戦で、ブラック・サバス本体への攻撃を始める時
(ギャング入門 その③)
・同じくブラック・サバス戦、康一と共同戦線を組む時
(ギャング入門 その④)
・ソフト・マシーン戦。敵の能力を探る囮として、ハエ化したナランチャの靴が飛び回るエリアに自ら突っ込んでいく時
(ソフト・マシーンの謎 その①)
・サーレー戦。船に先行してカプリ島に乗り込むために、浮き輪を魚に変えた時
(セックス・ピストルズ登場)

ジョルノにとって「夢」とは、危険な戦いに挑む時に「覚悟」を与えてくれる、
モチベーションの起爆剤なのだ。
これ以降はジョルノが夢を語る場面は出てこない。
物語が軌道に乗りはじめたことや、「覚悟」のような新しいフレーズに重きが置かれるようになったことで、ジョルノが戦う動機をわざわざ示す必要がなくなったのだろう。


他のジョジョの場合は、ラスボスを倒すことが目標 = ゴールであるのに対して、
ジョルノにとってはボス = ディアボロを倒すことは、
「ギャングスターになる夢」に到達するための「通過点」にすぎない。
ジョルノの人生にとっては、ディアボロとの戦いが夢の成就のために重要であるため、ジョルノは「夢のため = 自分のため」に戦っているのだ。

「自分のため『だけ』に戦う」というモチベーションは、それまでのジョジョにおいては『悪』の専売特許だった。
ならば、「自分のため」に戦うジョルノもまた、『悪』なのだろうか?
ここで改めて、ジョルノの「夢」の内容を思い出してみよう。
彼にとって、社会的に悪とされるギャングスターは憧れの対象である。
なぜなら、彼が育った環境においては、正義 = 利他の精神の模範となる一般人はいなかったからだ。
母親がDioとの間に子どもを設けた経緯は描かれていないが、幼少期のジョルノを利己的な理由でネグレクト状態で放置したことを考えれば、Dioとの関係もまた自分勝手なものだったことが推測される。
義理の父親も、イタリアに移住した後の周囲の子どもたちも、虐待やいじめという『悪 = 利己的』な形でジョルノを虐げていた。
皮肉にも、ジョルノが窮地を救うことになったギャングこそが、正義 = 利他の精神の模範となった。

つまり、ジョルノとってのギャングスターとは、ディアボロのように利己的な理由で娘を殺したり、無知なる少年に麻薬を横流しするような「悪」のギャングではなく、虐げられている弱者にこそ手を差し伸べて、助けが必要な人にこそ組織の巨大な力で後押しするような「正義」のギャングなのだ。
(この利他的な精神は、ジョルノ = キリスト仮説にも根本的に通じるところだろう)

したがって、ジョルノの根底には、他のジョースター家の人々と同じように「正義 = 黄金の精神」が流れている。
しかしながら、それに加えて、本来「悪」の専売特許であった、「自分のため『だけ』に戦う」という要素すらも取り込んで、「夢のために戦う」というある意味利己的なジョジョ像に挑戦している。
さらに、「正義に基づく夢」のために戦う = 「『他人のため(正義)』に基づく『自分のため(夢)』」という、本来矛盾してしまう2つの要素を取り込んだ革新的なジョジョ像を作り上げることに成功しているのだ。

第5部序盤で、執拗に「夢」をジョルノに語らせているのも、
「なぜジョルノは戦うのか?」
ということを読者と共有するために、荒木先生が設けた補助輪ではないか?

「利己 = 悪」と「利他 =正義」。
完全に矛盾する2つの概念の両方を取り込みつつ、矛盾なく成立させる。
それはまさに、「悪魔のプリンス」と「神のプリンス」という二重性を両立させているジョルノにしかできない超人的な芸当といえるだろう。


まとめ

1. ジョジョの世界観では、「悪 = 自分のため『だけ』に他者を傷つける利己的な存在」
2. 「正義 = 自分以外の者(他者)のために戦い、悪から守る利他的な存在
3. ジョースター家の人々は、「正義 = 他人のため」の心に基づいて戦うために、「悪 = 自分のためだけ」に戦う敵の後手に回らざるを得なかった
4. ジョルノは、「正義に基づく夢」のために戦う、革新的なジョジョ

これにて、構成編 ジョルノ・ジョバァーナを閉じさせていただく。

次回からは、構成編 ブチャラティチームに入ります。

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