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自己紹介13。

初めて海外で働くレストランが世界12位。(現世界1位)

各セクションにつく担当者の仕事のレベルの高さに驚いた。外国の料理人は日本人と比べると仕事が雑な人が多い印象だったが、ここのスタッフは日本人より細かく清潔な仕事をしていた。

レストランミラズール。

着いたその日に案内された調理場は、今まで感じたことのない熱気と各国の言葉が激しく飛び交う、まさに戦場だった。

シェフが発するオーダーに、全員が怒号の様な返事をする。一度料理がかかると、盛り付けをするシェフの前に次々と淀みなく食材が渡され、一皿へと仕上がっていく。

目の前で見ているだけで圧倒されてしまう様な、そんな見えない力がこの調理場には渦巻いていた。

初日だからと言う理由で、軽い仕込みと見学で終わった。

明日からこの調理場で戦う。興奮と不安がぶつかり合うなんとも言えない気持ち。

寮へ案内すると言われ、車へ向かう。店から車で15分。山を登った先にスタッフの住む小さな家があった。運転してくれたスタッフは、仕事がまだ残っていると店へ引き返した。残された僕は訳も分からぬままシャワーを浴びて、長い1日を終えた。

8月のマントンは、多くの観光客で賑わっている。シーズン真っ只中のミラズールは、昼夜合わせて140名近いゲストが毎日の様に訪れていた。そんな中、途中から入った僕は前菜のポジションへ入れられ、18歳の若者と仕事をしていた。

先に働いていた彼マリアーノは、後から来た僕に仕事を奪われまいと何かにつけて喧嘩腰で話をする。後から分かる話なのだが、どうやら彼は僕の事を22歳だと思っていたそうた。(29をヴァンヌフと発音するのだが、22のヴァンドゥーと聞き間違えたらしい。僕の見た目が外国人と比べ幼いのもそれを助長していた。)

調理場にはフランス人がいなかった。イタリア人、スペイン人、アルゼンチン人、アメリカ人、そして日本人は僕1人。

1年かけて学んだフランス語は日の目を見ず、中学時代の英語を頭の片隅から引っ張り出し、必死にコミニケーションをとっていた。会話する人の出身地によっては訛りが激しく、英語を話せないスタッフもいた。20人以上いるスタッフの名前を覚えるのも一苦労。何気ない会話をする余裕もない程の忙しさ。賄いも1人でかき込む様に食べ、直ぐに準備に取り掛からないと間に合わなかった。

オーダーに耳が慣れず、18歳のマリアーノにはナメられ、今までの自分の仕事が否定されている様なそんな毎日だった。

それでも1週間が経ちシェフと話をすると、研修生ではなく社員として雇ってもらえる事になった。自分の中で結果は出せていなかったが、取り敢えずは自分の居場所を確保する事が出来たのだ。

次の週から賄いを作る様にと言われた。1週間皆で交代で作っていると。

良くある話だが、この賄いをキッカケに僕の仕事は好転する。言葉よりも何よりも、美味しいものを作る技術が僕の事を救ってくれた。

『世界に通用する技術を身に付けろ』

いつか師匠に言われた言葉の意味を、僕はこの時やっと理解した。




初めて作った賄は何だっただろうか?

レストランで働き始めてから、幾度となく賄を作ってきた。最初の頃はまずいと言われ、目の前で捨てられ、コンビニ弁当を食べられた日もあった。

実家にいる時は料理なんて作ったことがなかった。味噌汁さえも作った記憶はない。

それでもなぜか僕は料理人になった。母の料理のお陰だ。

母の料理のお陰で、美味しいものが分かる舌は育っている。

ミラズールで働き始めたものの、僕はいまいち馴染めずにいた。言葉の壁もある。

そんな矢先、賄を作る機会が回ってきた。30名を超えるスタッフの賄を作る。

毎日激しく忙しい調理場で、賄用に火口もなかなか使えない。自分の仕込みもある中でバタバタと働いていたが、半ば強引に場所を取り仕込みを始めた。

賄は皆、好きなものを作るらしいが、自国の料理を作ることが多いみたいだ。

勿論僕は和食を作った。(日本人が僕しかいなかったので、作れと皆から言われた)

死ぬほど忙しい中、僕が最初に賄いに作ったのはカツ丼だ。30人分のカツを上げるだけでも一苦労なのに、なぜカツ丼を選んだのか。(のちにシェフとしてカツ丼を作るとは思ってもいない)

それでも何とかやり切り、皆と一緒に賄のテラスへ。

料理人として初めて作った賄よりも緊張した。それでも当時よりは間違いなく旨いものが作れている。さあ食ってくれ!そんな気分だった。

いつものように一人で食べていると(賄を食べる時間も勿体ないくらい時間に追われていたのと、会話が続かない引け目で)何人かのスタッフが近づいてきた。

『これはなんだ!どうやって作るんだ!!うまいじゃないか!!!』と興奮気味に話しかけてきた。僕を顎で使っている18歳のマリアーノも寄ってきて、急にタムサンと敬語になった。不慣れな英語だが、精一杯カツ丼の作り方を教え、くだらない会話も出来た。それからは賄を作るたびに評価が上がり、仕事の仕方も聞いてくるようになった。

賄が僕の技術を証明してくれたのだ。そして、得体のしれない日本人から、技術のある日本人へと周りの目が変わった。仕事に対して意見をしても、ちゃんと聞いてもらえる。新しいメニューの試作を任されたり、気が付けばセクションを任されるほどに。

正直入って一週間は、日本に帰りたくなるほどきつかった。それでも何とか立ち直り、セクションを任され、お店に貢献することが出来たと思う。

僕の培ってきた技術が世界に通用した瞬間だった。(賄だけでなく、様々な場面で)

新卒の頃、毎日言われ続けた『世界に通用する技術を身につけろ』の言葉の意味を体感し、当時ガムシャラに働いて身に着けた技術と、師匠の下村シェフに改めて感謝した。

自信が付くと自己主張も出来るようになり、働きやすい環境作りが出来始める。

本当の戦いはここからかもしれない。



皆様の優しさに救われてます泣