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今でも不思議に思う話

 暑くもなく寒くもない、ある小春日和に、俺はドストエフスキーの名作、カラマーゾフの兄弟の第一巻を持って、ある公園のベンチに腰掛けた。今回の話は、この公園から始まる。

 20代前半に、千葉県の津田沼に住んでいた俺は、毎日暇を持て余していた。その日は、週刊実話の発売日で、山口組四代目の動向に関する記事を楽しみにしながら本屋へと向かったのだが、店員の女性があまりにも綺麗だったので、カッコつけて岩波文庫のカラマーゾフの兄弟を買ってしまった。

 いい天気だし、外で読むかと思い、近くの公園に来たわけだ。

 本を読み出してしばらくすると、一人のおばあさんがベンチに近づいて来て、俺の前に無言で立った。おばあさんの影でその存在に気づいた俺は、ゆっくりと顔を上げた。60才ぐらいだろうか。おばあさんは、手に持っていたビニール袋からチーズケーキを出して、俺に差し出した。何も言わずに、無表情で。俺は黙って受け取り、「コーヒーはブラックで」と言ってみた。おばあさんは何も反応を示さず、静かに公園を出て行った。

 貰ったチーズケーキを傍に置いて、登場人物の名前を忘れないように紙きれにメモっていたら、さっきのおばあさんがブラックの缶コーヒーを持って公園に戻ってくるではないか。俺は笑いながら「ありがとう」と言って受け取った。

 次の日、俺は駅のホームで電車を待っていた。すると誰かが肩をトントンと叩くので振り向くと、昨日のおばあさんが後ろに立っていた。驚いて目を丸くしていると、おばあさんは、無言で魚肉ソーセージを差し出してきた。しょうがないので受け取りながら、ホームに入ってきた電車に乗り込んだ。おばあさんは電車には乗らず、ホームにじっと立って俺を見つめていた。

 その次の日、朝から図書館で新聞を読んでいた俺は、なにげなく目線を入口の方に泳がせた。すると、なんとあのおばあさんが入口に立っていることに気づいた。なんだか恐ろしくなってきて、急いで本棚のかげに隠れ、息を殺して様子をうかがった。おばあさんは明らかに誰かを探しながら、建物に入ってきた。俺は本棚の配置をうまく利用しながら、見つからないように移動し、建物から抜け出すと一目散に走ってそこから逃げた。

 それ以降、おばあさんは俺の前に現れることはなくなった。

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