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幸毒

あの呪文を使い、精神の交換などという冒涜的な行為を瓜生と実行してから、一週間が経った。
鏡の前にあるのは紛れもなく、あの整った瓜生の顔。
顔を洗った後、洗面台に滴り落ちる水滴ですら聖なるものに思える。こんな綺麗なモノの中に自分のような穢れた魂が入っているだなんて。
……ああ、それを認識する度に肌を掻きむしりたくなる。掻き出してしまいたくなる。しかし魂に実体はないし、掻き出した所で傷付くのは瓜生の身体だ。そうして手に取ったカミソリを洗面台にまた置き直す。

事実。この身体になってから、人生は実に晴れやかで鮮やかになった。人の目が蔑みから羨望へかわり、なにより知らなかった感覚を毎日味わうことが出来る。
今日の朝餉は玄米に味噌汁と、鮭の塩麹焼き。朝から魚を焼くなど今までしたこともなかったから、料理本を買って見ながら作った。不思議な気持ちだ、本屋に行っても料理本のコーナーを見たことなんて無かったというのに。
料理本を買う為にレジに本を置いた時の、女性店員の目を今でも覚えている。過去の自分への眼差しとは比べ物にならぬほど明るかったからだ。
……そんなことを思い出しながら鮭の身をほぐして口に入れてみる。そして思わず目元が綻んだ。なんて美味しいのだろう。今まで焼け焦げた薄い海水のようにしか思っていなかったが、鮭の甘い脂身とじゅわりと広がる優しい塩味。噛む度に旨味が口腔内に広がる。なるほど、白米に合うのも頷ける。塩麹だからか甘みもある気がする。柔らかい白米をさらに押し込み、米の甘みを感じながら、わかめと豆腐の味噌汁も流し込む。おかしい、前までならこの時点で塩辛くて嫌だったろうに、今は全く気にならない。
一日に三食しかないことが、今は物足りない。食べすぎないようにしてはいるが、もっと味わってみたい。食事だけではなく、いわゆる"勝ち組"の気持ちを、その得益を。

そうして優雅な朝餉を済ませていると、電話がなった。出てみると、優しげな声で「京輔?」と名前を呼ぶのが聞こえる。同じ読みだと挙動不審になり難いため、似たような名前で助かったと入れ替わってから何度も思っている。

「私よ、母さん。最近はどう?先週は一度も電話してこなかったから心配でねぇ……」

ぎくり、とした。自分には"母親にこまめに連絡を取る"という習慣がそもそもなく、そして瓜生にはあったということを知らなかった。しかし一週間連絡しなかっただけでこんなに心配されるとは、瓜生の母親は心配症なのだろうか。

「あ、ああ母さん。大丈夫、何も無いよ」

と、必死に取り繕う。

「本当?ならいいのだけど……。ああそうだ、今度またお夕飯を食べにおいで。親戚の方から金目鯛を貰ったんだけど、食べきれなくてねえ。あなた、好きでしょう?」
「ああ、うん。行くよ。来週末でいいかな」
「ええ、よかった。じゃあまた、身体に気をつけてね」

そうして電話が切れた。
最後までやさしく明るい声だった。底無しの慈愛を感じられる、柔らかな声色だった。
自分の母親が自分に対しこんな風に話すのは見たことも聞いたことも無い。

「……愛されているな、瓜生」

そう、自分の身体に話しかける。
瓜生の実家に行くのは、自分は初めてではない。なので一人で行っても大丈夫だろうと、軽く荷物をつめて実家に向かう。
昔はジメジメして暑苦しかった陽射しが、いまは爽やかな光に感じられる。どこかに遊びに行くということが、こんなにも楽しい事だとは思わなかった。

そうして今、瓜生の実家で
豪華な食事を目の前にして座っている。
大皿の金目鯛の煮付け、盛られた角煮、里芋の煮物やポテトサラダ、そして具沢山なけんちん汁に白米、白菜の漬物……全体的に茶色が多いがどれもこれも美味しそうなものばかりだ。この一週間ですっかり味覚の魅力に惑わされてばかりの自分には、耐え難い誘惑の香りが漂っている。ゴクリと唾を飲みこむと、台所からパタパタと忙しない足音が響いてくる。

「ハイハイハイハイ、ご飯にしましょうねぇ。
京輔、いっぱいおたべ」

にこにことした"母親"が、箸を持ってきてくれる。

「……母さん、手伝うって言ったのに…」
「いいんだよ、母さんはまだまだ元気なんだから」
「……」

本当なら、何を言われても率先して手伝いをすべきなんだろう。しかし今まで実家で手伝いをしても"とろくさい、邪魔だ、仕事が増える"と言われた言葉が頭から離れなくて、なかなか椅子から立ち上がれない。
申し訳なさで俯いていた。

「……京輔、何か悩みでもあるのかい?」

ハッとして前を向くと、心配そうにこちらを見る母親の姿があった。
大丈夫だと言おうとする前に、肩をぽんぽんと叩かれた。

「もしかして小説のことで悩んでるの?」
「なんにも気にしなくていいのよ、確かに人は選ぶかもしれないけど」
「お母さん、京輔はすごいって分かってるんだから」
「さ、ほら、冷めないうちにたべなさい」

返事をしようとしたら、ぽたぽたと頬に何かが流れる感触がした。
この言葉は、確かに"京輔"に向けられたものだ、こんな暗く薄汚れた自分ではない。だからこそ、彼の身体を通して自分に染み込んでしまったのだろうか。
もし、昔からこのような身体が、環境が、当たり前だったなら、自分はこんなにも落ちぶれずにいたのだろうか……そんな風に考えてしまう。その人の人生を変えられるのは本人のみであることなど、とうに知れ渡っていることだというのに。
結局は無い物ねだりだ。自分は瓜生にも、瓜生の家族にすらも甘えてしまっている。こんな日陰がお似合いの男が、浅ましくも、柔らかな光の当たる場所にいることを心地よく思っているのだ。

必死に涙を拭って、泣きそうなことを忘れようと美味しそうな匂いの料理を口に突っ込み始める。最初、一瞬味が分からなかったが、すぐに暖かな家庭の味がいっぱいに広がる。どれもこれも美味しい。

「美味しい?今日はいつもより美味しく作れたんだよ。この煮物とかね、ちょっと甘くしてみたんだけど…こっちの方が美味しいでしょう?」

と、にこやかな表情の母親が聞く。頬張ってしまったせいで声が出せず、必死にこくこくと頷いた。

「ならよかった。いつもちゃんと食べてるか心配なのよ。しっかりしてるようでたまに抜けてるから……」

確かに、と心の中で同意する。
しかし話す暇は無かった。先程言われた甘い煮物が、とてつもなく美味しいのだ。金目鯛のほくほくとした身も、こってりした柔らかい脂の角煮も、からしの効いたさっぱりした味わいのポテトサラダも、全てが、美味しい。
いつものように回りくどい表現方法が頭に浮かばぬほどに、一心不乱に頬張っていく。

自分の知らぬ幸福がここにある。
自分の家にもレストランにもない、ここにしかないものがある。
生きるとは、人として生きるとは、きっとこういうことなのだろう。

そうして空になったお皿を前に手を合わせる。
また母親がゆっくりさせようとしてくるので、皿洗いくらいはやらせてくれと申し出た。

母親は、嬉しそうに笑っていた。

──────────

「……ここは全て暖かいな」

ふかふかで太陽の香りがする暖かな羽毛布団に包まりながら呟く。

「そりゃ、あの瓜生の家だからな……。しかし心配症が過ぎるとは思うが…普通、あんなものなんだろうか…?」

何故この家では自分が欲しいものや欲しい言葉が、あんなにも容易く出てくるのだろう。もしあの夫婦の元に生まれた子どもが瓜生ではなく自分だったら……きっとあんな風には愛されなかったかもしれない。だって自分なのだから。

ああ、惨めだ。
結局、"京介"という男の矮小さが浮き彫りになった。光の元に晒された影は、より一層濃さを増すものなのだから。
この暖かな環境は本来自分が受けるべきものでは無く、愛嬌も才能もある彼が受けるべき世界からの寵愛なのだ。
言ってしまえば、自分は盗人にも等しい。その眩い寵愛を盗んでいるのだから。
息が少し苦しくなる。
確かに心地良いはずなのに。

「……大丈夫、ちゃんと返すよ。
返すから……許してくれ」

この身体も、環境も。
いずれ必ず。
そうだ、明日は更に母親の手伝いをしよう。
せめてこの世の寵愛を、無碍にしないように。
そう決心しながら、微睡みの世界に落ちていく。

その後、解除する呪文が無く
欲の囁きに身を任せることになるとは知らずに。

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