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蛎下実 小説

序章

本来なら母性を突き動かす、生きている証でもあるその泣き声は、冷たい金属の箱の中で反響していた。空腹を訴える悲痛にも聞こえる叫びは、誰の耳にも届くことは無かった。
ある、暗い瞳の少女以外は。

雨の降る5月初め、真夜中の冷えた空気の中佇む看板には、錆びた"コインロッカー"の丸い文字が見てとれる。電灯の電気の走る耳障りな音。雨に濡れたがたつくベンチに沿うように並ぶ煙草入れ。そしてコンクリートの匂い。30ほど並んだロッカーには、開いたままで空き缶やちり紙、丸められたチラシやガムの包装紙が詰め込まれたものや、「故障中」と貼り紙のされた鍵の無いものもなどもある。
頭に雨粒を被った少女は、ひたすらに居場所を求めていた。ベンチに座ろうと避難してきた彼女は、雨粒の跳ねる音が、聞き慣れぬ弱い声になっていることに気付く。
その声の元を辿ると、そこは鍵のかかっていない開いたロッカー。23番と書かれた扉を、少女はカチャリと開ける。
無力にも泣き声を反響させ足を僅かにばたつかせる、白い布に包まれた何か。少女はまさかと思いつつもロッカーから抱き上げる。
柔らかく温かいそれは、正しく産まれたばかりの赤ん坊だった。

雨と煙草、捨てられた生ごみ達の匂いを纏わせた、赤ん坊であったのだ。

少女はその赤ん坊を、とある人の元へ連れていく。そこは彼女の先生の家。
目を丸くし少女を出迎えた男性、先生は、赤ん坊と少女を受け入れた。
少女も、先生である彼も皆己可愛さの為、自分の救いの為に赤ん坊を利用した。その思惑は、たった一つの命を守る、などという慈善に埋もれるほんの小さなものにすぎなかったのだ。

……母親となった少女が、病で死ぬまでは。


第1章

「ただいま」
小声で呟く。赤ん坊は小学校の最高学年になった。
白い壁は夕陽をあまり反射せず、薄暗い廊下がいつも実(みのる)を出迎える。父親の居座るリビングをちらりと見ながら、急いで自分の部屋へと行こうとする。
廊下から2階に繋がる階段を上がろうとしたその時、何かをうちつけたような鈍い音と自分の名を罵倒と共に呼ぶ、低い父親の声。

ああ、今日は逃げられなかった。

どうでもいい些細なことで、髪の毛を掴み頭を壁に打ち付けられ、足で踏まれ許しを乞うように怒鳴る。髪が落ちていた、誰かから物を借りた、床に少し水滴がついていた、靴が綺麗に揃っていなかった、勝手に部屋に入った……といったものもあったが、何より1番多かった理由は、お前が居るから、というものだった。
だから何も考えず、ただひたすら謝る。
そして、早く終わって欲しいと願うばかりであった。

終わったら風呂を掃除し、シャワーを浴びる。流れる水に混じった薄赤、滲みる傷跡。涙さえも水が攫っていく。
最後に浴槽に浸かったのは何日前だろう。ゆっくり浸かっていると、浴槽に父親の手で沈められるからだ。一体何が気に食わないのか、実には分からない。分かるのは、母親が死んでから、父親が自分を嫌っているということだけ。

可愛げのない子どもだと、何度言われたろう。
母親の名を呼び、お前が死ねば良かったと何度言われたろう。
少年は呪いを受け継ぐ。罵声に盛った毒は毎日毎日少年の心に溜まり、張り裂けそうな痛みは少年から笑顔を奪い去ってしまった。

ある人は言うだろう。
"何故、そんな怖い人の元から逃げようとしないのか?"
答えはいたって簡単、逃げる足も居場所も他に無いのだ。
父親は他人にはいい人を振る舞い、「実くんは幸せね、あんなに気が利くいいお父さんを持って」と近所の人に言われたこともある。
言葉につまったあの時、自分の小さな手を握る大きな手が、周りの人に悟られぬよう自分の手の甲を締め付けた。あの感触もまた、少年の心を蝕んでいる。
彼は家事も出来るだけ手伝い父親を労わるようにしたが、父親は我が子のような存在として普遍的な扱いはしなかった。
既に親子の関係は修復不可能なほどになっていた。さらに実が愛されようと恐怖感を抑えてまで関わるものだから、なおさら父親はうっとおしがった。
興味関心なく、さらには何故最愛の女性が死にこいつが生きているのだと、自分の母親を奪ったとまで考えるようになった父親にとってそれは、苛立ちと虚無感を与えるのに十分な存在であった。
少年はこの頃から1ミリたりとも変わっておらず、人間の発達に必要なものがない中で乞食となった。
折られた逃げる足を引き摺り、縋り、もはや暴力や罵倒すらもこの子どもにとっては必要だった。
真に恐ろしかったのは、虚無と同等に扱われることだった。

蛎下 実はそれでも人間だった。
イドとエゴを有し、感情を捨てきることの出来ない人間だった。それ故に、父親には自分がいないといけないと、歪んだ認知を貪り生きていた。
いや、それもまたヒトとしては当然のことであり、実際父親は少年を手放さなかった。それは周りの目を気にしてか、実の思惑通りだったのか定かでは無いが。

もはや諦めていたのだ。父親に逆らうことも、現状を変えることも。痛みと孤独をただひたすらに我慢し、父親にぐにゃりとした色の愛情、のようなものを向けていた。

しかし、その痛みから解放されたい自分が居るのもまた、事実だったというのに。

少年は、父親に気に入られようとした。家事も勉強も、出来るだけ父親に褒められようと努力をした。しかしそれ故に、ほんの少しのことでまた殴られる。少年は器用な訳でもなく、要領が良い訳でもない、至って普通の子どもであったからだ。父親の中の自分にどうやって価値を見出すか、だけを考えて生きていた。学校での記憶など、今の蛎下実にはほぼ無いだろう。
可愛げのある子どもとは、一体どのような存在なのか?クラスメイトの皆は家族に愛され、幸せそうだ。自分とどこが違うのか?そんなことばかりをぐるぐると考え生きていた。
中学に行ってもこの様子は変わらず、全く力の無かった少年は力をつけようと空手部に入り、勉強は既に諦めた。父親に食事を出してもらえない時、たまに同僚や先輩が気遣っていた。それは父親を打ち倒す為の力では無い。父親に認められたいが為の力だった。だから徐々に体力がついてきても、抵抗など出来なかった。少年の身体は、既に父親への恐怖をふんだんに刷り込まれていたからだ。
結局、中学生になっても何も変わらなかった。

変わったのは、中学3年生のある夜だった。


第2章

蛎下実は、既に限界だった。
暴力と罵倒の毒が、脳から足にまで回っていた。
毎日が痛くて痛くてたまらない、その上この世界はなんと暗く、悲しく、寂しいのか。毎日擦り切れた頭で、それでも考えるのは父親の事ばかり。それしか、ないのだ。
世間体を気にする父親に従い、クラスメイトからはなかなか話さない地味な人、という立ち位置を貫いていた。
すぐに家に帰らなければ、遅くなるとまた帰った時に酷い仕打ちが待っている。そもそも寄り道は"悪い子"のすることだ。分かってはいたが、ひとつの雑誌に目が止まる。

今思えばこれは、神様からの贈り物か、もしくは悪魔の囁きだったのだろう。

可愛らしい女性の写った普遍的な雑誌。特にタイプな訳でもないのに、何故か見てみたくなった。おそらくその女性に違和感を持ったからだろう、手に取りまじまじと見てみると、隣には「女装」の文字があった。
理解した瞬間驚いた。女装というともっと、いわゆる笑いを取るような見た目のイメージしか無かったからだ。女性に劣らない、いわゆる女装男性の写真や、メイク方法などが乗っていた。どうやら特集だったようだ。

「これ、男の人なの?可愛い…」

そう口から零した時、暗かった瞳に微かに光が灯った。

母親はとても可愛らしい人だった。自分に足りない可愛げ、とは正しくこれだったのではないか?自分が母親になれれば、父親は自分を愛してくれるかもしれない。

その雑誌を少ない小遣いで購入し、特集部分だけを切り取り他は公園のゴミ箱に捨てた。切り取ったページを学校のノートに挟み隠し、家に帰った。
もはや父親に気に入られる手段が思い付かなかった少年にとって、この新しい世界は胸が踊った。
愛される対象に近付けばいいのだ。せめて、見た目だけでも。
玄関で靴を揃えた瞬間に、響いたのは

「今、何分だ?」

父親の、低く、今にも殺されそうな恐ろしい声、だった。

「ア……、あの」

「何分だと聞いているんだ」

「え、と……、37分────」

聞かれた時間を答えた瞬間、少年の頭に何かが飛び、ゴッ!!と鈍い音をたててぶつかる。衝撃でよろめき、痛む頭を守るように蹲る。
父親の罵詈雑言が少年に降りかかり、足で蹴られる。
飛んできたものはどうやら粘土で出来たオルゴールだ。それは少年が学校の工作で、父親に送ったものだった。あげた時の1度しか、その拙い誕生日を祝う曲は流されなかったが。
罵声の中、歪んだ音色の誕生日の歌が、ひび割れたオルゴールからゆっくり聞こえる。頭にぶつかったからか目の前がぐにゃぐにゃと回る。ああ、身体も痛い。

せっかく父親に愛される方法を見つけたのに、と思いながら意識を手放した。


第3章

気がつけば、白い天井と白い壁。見覚えがある、ここは病院だ。ぼんやりと惚けた頭でそう考える。そして次に頭に浮かんだのは、「(父さんはどう医者に説明したのだろう、合わせなければ)」ということだった。
ぼうっと天井を見つめながら、まだしっかり読んでいない、あの切り取った雑誌の特集について考えていた。おそらく、父親に見つかってはいないと思う。あんな風に綺麗に可愛くなれたら、母親に近付けるかもしれない。若く可憐で笑顔が可愛らしかった、お母さんに。
しばらくして病室の扉が開き看護師が入ってきた。体調の検査を軽く済ませ、父親を呼んでくると笑顔で話す看護師に、一瞬、背筋にぞくりと恐怖が走ったが、表に出さないよう表情筋を出来るだけ緩ませた。
父親は若い男性医師と共に入ってきた。「大丈夫か?嗚呼すまない、父さんがもっと早く気付いていたならこんな事には…だが目が覚めてくれて良かった」と心配そうな声色だ。表情筋を緩ませ、ぼうっとしながら頷くしか出来ない少年は、内心ではガタガタと恐怖にただひたすら怯えていた。同時に、この医師には助けは求められないと悟っていた。父親はそれを分かって、この医師を選んだのだろう。実際、父親は「少し内向的な息子と出来るだけ歳が近く話しやすい方に治療を依頼したい」と話していた。若い故に、経験が浅い故に、少年の恐怖に気付かない。

結局少年は大事をとって1日だけ入院することとなり、父親は家へ帰った。
少なくとも今夜は生き延びられる。ほっとすると同時に、明日帰った時を思うと憂鬱に心が噛み殺されていく。
その日は白いベッドの中で、明日どうやって父親に謝るか、どうすれば少ない痛みで済むのかを考えながら、仮初の白い平穏の中で眠りについた。

どんなに気が重くとも、やはり朝は来る。また看護師によって簡単な検査を済ませ、昨日と同じ笑顔で「お父さんは午後に迎えに来ますよ」と告げて言った。よく白衣の天使と比喩されるものだが、少年からすれば死の宣告を告げに来る悪魔の使いか何かに見えていた。
気分を紛らわせようと、部屋を出て廊下を散歩する。扉の開いた部屋の窓から光が差し、食事を終えた入院患者達が数人ほど見える廊下を進む。院内は騒がしくはないが、入院中の患者同士が喋っていたり、椅子に座りながら窓の外を見る老人など、無機質ながらも人の営みが感じられる場であった。その日は晴天だったようで、窓から入る光が蛍光灯と相まって明るく院内を照らしていた。何となく、目的も無しに廊下を進む。

とてもキラキラとした記憶だ。
窓の開いた部屋、1番端の角部屋。ひゅうひゅうと鳴る風の音につられて、扉が開けっ放しになった病室を覗く。鳥の鳴く声、太陽の光、反射する白い壁、白い院内着。
蛎下実にとって、鮮烈な記憶である。

桃色の髪の、少女が居たのだ。

窓の外を見つめる、背中辺りまで伸びた淡い桃色の髪。染めたものだろう。
病院では、髪は染めたままで良いのだろうか?という疑問も浮かんだが、そんなことはどうでもよかった。
とても綺麗で、可愛らしいと感じたのだ。
あまりに強烈だった。
地元のゲームセンターや人目につかない場所などで、派手な露出した格好で髪を染めている者は見かけたことがある。様々な色にに染めた者もいて、少女と似たような色も居たはずだ。しかし何故だろうか、学校の帰り道にその者達を目にした時は関わりたくないという思いすら感じ、目を逸らしたこともあったというのに、今はむしろ風に揺らぐそれに目を奪われている。

彼女は少しやつれていた。栄養不足だったのだろうか?漂白し薄く透き通り、着色された、病室という空間に不釣り合いなピンク色。しかし不思議と不良の様な印象は受けない。

「…」
少女がこちらに気付く。少年は慌てるも、何故か逃げる気にはならなかった。
「…あ、あの。髪、可愛いね」
口を出ていた言葉だ。少女は僅かに驚いたようにこちらを見て、その後微笑んだ。やつれた笑みではあったが、嬉しそうだった。
名を聞くと、これまたきょとんとした様子で見つめた後、「秘密」と言われた。ころころとした鈴のような、それでいて消え入りそうな声色だった。
「いつから入院してるの?」
「…前から」
「起きていて大丈夫?体調とか…」
「いつも通り」
その他にも色々と質問をするも、全て淡々と返された気がする。しかし、髪色を褒めた時はとても嬉しそうに感謝の言葉を口にするのだった。
「ピンクが好きな色なの?」
「うん」
「そっか、似合ってるよ」
「…ありがとう」
「……」
「……」

会話はすぐ切れる。
陽の光が、桃の髪と白い肌を透かす。人工色には変わりないのだが、日光や風、自然に馴染んでいるように見えた。学校でも女子と話すことなど普段はあまりないが、この時は多少緊張しながらも話が出来た。彼女はやつれ気味で周りに家族も見当たらない、そして彼女自身の雰囲気から、何となく自分と似た匂いを感じたのかもしれない。
社会に潜む、弱者の香りを。

「…頭」
「へ?」
「頭の傷、大丈夫?」
「…あ、ああ、うん。大丈夫だよ、いつものことだから」
急に少女が少年の顔を見つめながら問いかけた。頭に巻かれた包帯が気になったようだ。彼女の枯葉色の目に見つめられ頬を染めながらも慌てて答える。

そんな途切れ途切れの気まずいようなこそばゆいような空気を味わっていると、看護師が部屋に入ってきた。
「あら、だめよ。女の子の病室に勝手に入っちゃ。
…アカリさん、お母さん来てますよ」
と少年を退け、少女に話す。
少女を気にしつつ部屋に戻ろうとする、階段口の方からヒールの音が響く。どうやら先程の少女の母親が急ぎ足で部屋に向かっているようだ。少女の名を愛おしげに、心配気味に呼ぶ声が遠くに聞こえた。

自分も、例えばあんな風に可愛くなったら、あの母親のように心配してもらえるだろうか。
そんな考えがふわりと舞う。風に揺れる桃色の髪と"アカリ"という名前と共に。
午前の淡いこの時間は、蛎下実の記憶に刻まれた。時の流れで少しずつ色褪せていくとしても、あの色と煌めいた感情は少年の心に深く焼き付いたのだ。
幼稚で、エゴイスティックの色もあれど憧れに近いその感情は

まさしく、蛎下実の最初で最後の、初恋だったのだろう。

〜続く〜

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