問い掛け-11<義理の姉>

<義理の姉>

 小学校は、バス通学だった。養父の信条に強いられたため、私は三十分以上も早くバスに乗り、きまって一人だけの寂しい登校をさせられた。

 初めての登校日、校門を見て立ち止まり、何故学校で勉強しなければならないのか。 別に養母に習うだけで、十分なのになぁーと、納得が行かぬまま教室に向かい、机に坐って頬杖をつき、あれこれと考えを巡らした挙げ句、無性に切なくなった。

 初めて貰った一学期の通信簿の成績がオールBだったのを今でも覚えている。

 夏休みを迎へる私は、毎日、絵を描くのを楽しみにしていたら突然、養母が、「さっき宇部から電報が来てのお、娘たちがここに遊びに来るんじゃよ。その娘は、一明 のお姉さんになる人じゃけん。Fちゃう名じゃけんねえ。」

と告げられたとき、一瞬なんのことが判らず、思考が停止し、話しの内容が掴めずにいる私は、鳩が豆鉄砲を食った顔をしていた。

 そもそも、養母に、私以外の子供が存在すること事態が、初めて知る内容だっただけに驚く暇もなく動転した。しかも娘だけでなく子供(孫)まで来るというのだ・・・・お姉さんの存在以上に輪を掛ける疑問が湧き上がった。

 後で解かったことは、このお姉さんがここに来る経緯の発端が夫の浮気が元で喧嘩となりその反撥と夫への反省を促すことも含め、子供二人と一緒に家を出る非常手段を抗じたとの事だった。勿論、頼る実家は無く、養母を頼って上京する以外になかった。

 この二人の子供は、養母の孫に当たる長男四歳と長女一歳半という。

 要するに私の姉とする人の長男は、私と二歳しか離れていない義理の甥であり、姪は、まだ赤ちゃんなのだ。 姉のことを私は「Fお姉ちゃん」と呼び、どうしてこんなに年が離れているのか、と不思議な気持ちにさせられ、なんだか、よく分からずにいた。

 その義理の姉は、当時二十五歳くらいだった。

 姉たちは、飛行機で羽田に到着し養父が迎へに出て家まで連れて来た。

 初めて逢ったとき、外見よりも、姉が養母に「ねえ、母ちゃん」と呼んでいたのが妙な感じで、自分以外に養母を「母ちゃん」と呼ぶ人がいるのだと改めてF姉ちゃんの 存在を認めざるを得ない。また、私の知らない姉と養母との絆がた確かに存在することと、別の過去が在ったのだ、と朧気ながら、養母の正体とは何んなのだろうと、少し複雑な気持ちになった。 なぜか。 甥のYはふて腐れていた。着陸前の急降下のショックが癒えないのだとF姉ちゃんが説明する。姪のMは、元気一杯に泣きわめいていた。

 唯一機嫌の悪いのは、養父だった。

「なぜ、儂がお前(養母)の子(F姉ちゃん)の為に, 羽田まで迎へに出て、家に泊まらせにゃならんのか、それもFの夫婦喧嘩のために・・ と、養父は相当なお冠で、続けて、「何日も家(うち)に居られては困るからのお。」

と釘を刺す。直接、F姉ちゃんに訴へる勇気もないのに、養母を睨んでいくだけだった。

 思うに、 養父は、近所の眼を気にする余り、一日も早く帰ってほしかったのだ。逆に私 は、ずっと居てほしかった。なぜなら、養父の癇癪が出ないと思ったからだ。少なくとも夫婦喧嘩を見ることは無いと予測できたからだ。しかし、姉たちが帰った後、どうなるだろうかと思うと、空恐ろしくなる。

 一方、義母はまるで百万の大軍を得た如く、養父を尻目に陽気に振るまった。滞在中は母娘で仲良く切り盛りし、傍らから見ていると、毎日が賑やかで楽しく、和やかだった。 シロもタマもどこかはしゃしでしたように見えた。

 上京した序でなのか、F姉ちゃんは、遊園地へ行こうと言い出し、結局養父を除く五人で行くことになり、遊園地がどんな所なのか、初めて体験でき、楽しい一日を過ごした事は今でも忘れない。家に滞在したのは一週間くらいではないだろうか。姉たちが帰った後、まるで風が止んだような静けさになり、再び暗い日々が戻った。

 養父の癇癪は日増しに酷くなり、私の目の前で、養母の先夫の名を出し、『まだ未練があるんじゃろうが』と下衆の勘繰としか言えない言葉の暴力を浴びせ、ついには、これというキッカケもなく養母を殴る蹴るで、何も出来ない私は襖の陰から凝っと泣きながら震えていた。そして、養父を心の底から憎みたいと考えつつ、もう一方では悲しみに近い。構れみの

思い、切ないものがどんどん湧き上がるばかりで胸が抉られるような痛みに堪えた。

 養母は、ときどきこんなことを云っていた。

「人や生き物を怨んだり憎んだりしてはいけない。その念は、必ず残るからじゃよ。そして自分に返って来るんじゃから。」 と、あの日、憎しみと悲しみの混じり合うなか, 小さな胸で、どう整理できたのか ・・・。今はもう、辛そうな養母の面影だけが彷彿するだけで、容赦なく寂寥の海に沈めてしまった。

 後日、 Fちゃんから連絡があったようで、夫の浮気性は全く改善の余地がなく、 もうダメなので離婚する事に決めたのだと、養母は少し悲しそうな眼で話して呉れた。

 その後、 F姉ちゃんは、裁判で二人の子供を夫に取られ、それから十二年後、大工さんと再婚し、女の子をもうけた。高校を卒業してから一度、姉の家を訪れたことがあっ た。 このとき姉は、父のことを斯 う語っていた。

「あの佐伯(養父)さんは、血も涙も無いトンデモない男じゃけんねえ。一明も、可哀想によくあんな家でずっと我慢し、暮らして来たもんよねえ。母ちゃんも、本当に不幸な人でねえ・・・・。トンデモない男と一緒になって、一生みじめなまま終るんよ・・・・。

あの佐伯(養父)さんは、自分のこと以外は何も考えん人やからねえ。一明も、あの人を 相手にしたら絶対にいかんよね。信じられるんは自分しか、おらんのじゃから。自分だけを信じて生きる以外、なにもないんじゃからねえ。」

と、養父への痛烈な批判だった。

 F姉ちゃんの弁は、間違いなく事実だった。義父は自己の都合で家庭を振り廻し、感情の赴くままに引っ越しを繰り返した。何事も己れ中心だった。そして癇癪を持つ、劣等感の強い男だった。F姉ちゃんの心境はよく分かる。実の母が離婚し、そして自分自身も、夫に裏切られ離婚する薄倖な人生を歩んでいる。しかも二人の子供を取られ、人間不信に陥り、拭われぬ重荷を背負って喘いでいたからだ。

 しかし、私はその数カ月後、そんな養父の全てを許し、丸ごと受け容れる決意をした。なぜなら、養父だけが悪いのではなかったからだ。養父をそうさせたのは、決して逃れることの出来ない薄倖な原体験と環境だと思うから・・・・。そして、佐伯家に被る数々の災難と不幸の因縁には、目には見えぬ、何か特別なものが伸し掛かっているのではないかと、そう強く感じるものがあったから・・・・。

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続く。


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