問い掛け-7<手弁当>

<手弁当>

 越した先は、窪地に置き捨てられたような薬草き屋根の一軒家。

 縁側も土間も仏間もある三間の母屋造りで、広い庭が今も印象に残っている。

 それでも、台風や大雨に遇うと決まって床下浸水に至る低地で、周囲の高台は殆んどが 瓦葺き、もしくはトタン屋根の新築ばかりが建ち並び、まるでここだけが時代に取り残されたような、そんな異空間を醸し出す古い家だった。

 朝、眼が醒めると、こころ弾む愉快な通園が待っているのだ、と思いきや。

 天井の模様がいつもと違っていると気付き,ハッとする私。 昨日までの現実とは違い、既に新たな一日が始まるのだと悟った私は再び潟愛の独り歩きを始めた。

 殆んどー日中、外で遊んでいるため、相変わらず昼を過ぎても帰ろうとしない。でも、 大人しく家で過ごしたこともある。それは雨の降ったとき。

 既にその頃から絵を描くのが大好きで、クレヨンでアニメマンガの色塗りや, 模写をし て、ああでもないこうでもないとブツブツ言っては独り楽しく紙面を彩っていた時だ。

 或る日、迷子と勘違いされ、子供のできない夫婦に親しくされ、そして数日後、唐突にも、その夫婦から

「是非、一明ちゃんをうちの養子に。」

と、改めて懇願されたとき、養母の顔は、怒り心頭に発してしまった。

 養母は、その夫婦を無視し、私の手を掴み、引き摺るようにして、その場を立ち去った。 それからの私は、何日も外に出して貰えず、凝っと我慢の日々が続いた。ところが、養母の留守中に飛び出すこともあり、その都度、養父に叱られ、焼処(やいと)の折檻を受け、あちこちが水膨れになり、今も痣として返っている。

 結局、養母は、きかん坊の私に折れてしまい、手弁当を持たせて外に出す案を考えたの だ。 毎日、園児服の姿に弁当とクレヨンの入ったバッグを肩に掛け、近所やそこかしこの農家の縁側に座り、隠居然とした故老のおじいさんやおばあさんたちと、拙ない言葉を交わして、弁当をひろげていた。又、神社の境内やバスの停留所のベンチに座って、独り楽しくバクバ クと美味しそうに食べていた記憶も浮かんで来た。

 母の面影を追い続けるのか、いつかきっと探し出せるのだと健気にも信じているのだろうか、それとも、その別離の空白を置すための独り歩きなのか・・・・。

 数奇な運命とは申せ、本当に風変わりで可笑しな私(子供)だと思う。

 このような私でも、自由奔放に放って置いて呉れたのは養母だ。やはり、達観した、醒めた人なのかも知れない。

 先の夫婦のご主人は、タンカーの船長だった。子供(私)の将来を考えると養子に遣ることの方が幸せに成れる筈だとの流言もあった。

 私が新聞配達をやり出して、中学三年になる前、 母がポツリと呟いたことがあった。 あの夫婦にー明をあずけていたら、一明をこんなにまで苦労させんでもよかったのにと。

 実はもう一組。 私が小学生の頃、養子にと、懇願される人がいた。

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続く。

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