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(自己紹介)仏教とは無縁だった私がブラジルのお坊さんになるまで。

はじめまして、久保光雲(くぼこううん)と申します。
私は、現在ブラジルで浄土真宗本願寺派の僧侶をしています。

下の動画のように仏教のお話(法話)をしては、それをYoutubeにアップしています。

このページでは、仏教とは無縁だった私がなぜお坊さんになったのか、少しお話したいと思います。


もともと仏教とは無縁でした

私は広島県の可部町という田舎に生まれ、のびのびと育ちました。広島は浄土真宗が盛んな地域なのですが、うちにはお仏壇もありませんでした。私はほとんど仏教に触れることなく、広島女学院というプロテスタント派のミッションスクールに通いました。

仏教については本当に知識が無く、20歳すぎまでお釈迦さまは日本人だ」と思っていたほど。

しかし芸術家を目指して京都市立芸術大学に入学した私は、ある授業で仏教と出会い、人生が180度変わったのです。

なぜ宗教と無縁だった私が、仏教を選んで、ブラジルで布教までするようになったのか?

その理由は、私が抱えていた「死を中心とした問題」が、仏教によって解決されたからです。その結果、今は「いつ死んでも大満足」といえる、満ち足りた思いに包まれて生きています。

私は絵も描くのですが、ガラリと変わった人生を表現した1枚があります。

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左上の女の子が私です。

仏教と出会う前は、世界が灰色に見えることすらありましたが、今は違います。頭の上に喜びや悩みを抱えながら、カラフルな世界を軽い足取りで進んでいます。

人生最大の不幸である「死の問題」に解決がついたことで、私の世界は色鮮やかに生まれ変わったのです。


愛情たっぷりの家庭と、人生の問題

私が抱えていた人生の問題は、両親がとても愛情深かったことで、より明らかなものになりました。

父は明るく日本人離れした性格で、「うちの娘ほど美人で品がある子はおらん。皇室に嫁に出しても恥ずかしくない」と、人前でも堂々と私のことをほめていました。とても大らかな母は「素晴らしい子を授かった。やりたいことは何でも応援しよう」といって、私が興味を持ったことはいくらでもやらせてくれました。

そのように家庭が温かく、楽しい場所であったからこそ、私にはある不安がありました。 それは、父や母といつか別れなければならないこと。家族が大好きだったからこそ、考えただけでも、あまりにも苦しく辛い問題でした。

さらに、自分が死んだらどうなるのだろう? と考えると、死んだ先がどうなっているのか全く分からず、まるで暗い穴に吸い込まれていくようでした。また、私は明るい性格のようでしたが、非常に孤独感の強い子供でありました。


1、愛する人といつか死に別れること。
2、いずれ必ず自分も死んでしまうという不安。

誰もが抱えている問題ですが、みなさんはもう解決しましたか? 私の場合はこれらの問題のせいで、人生が苦しく空しいものに思えました。

家族の豊かな愛情に恵まれ、勉強もスポーツも楽しく、お友達もたくさんいたのですが。人生の問題は、幸せな世界から色を奪い去るのに充分な力を持っていたのです。

このあたりについては『光雲な毎日』という本に詳しく書きました。

もし興味のある方は、立ち読みサイト(80ページ分)がありますので、そちらを読んでいただけるとうれしいです。
 
『光雲な毎日』立ち読みサイト
https://koun18book1.blogspot.com/2015/06/blog-post.html


では続けて、生まれてから今までの、光雲の歩みをご紹介します。

0歳~

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広島の田舎に生まれました。 山に囲まれ、川が流れるすぐそばの家でした。 土手があって、緑ゆたかな場所でした。


父方の祖父は四国生まれ。祖母は広島生まれ。 母方の祖父は北海道生まれ。祖母は秋田生まれ。 父は、10代で京都に出て、和菓子屋に丁稚奉公をしていました。


見知らぬ土地で、父はずいぶん苦労しました。 父の就職した和菓子やさんでは、よその土地から来た人とは、 深くはつきあわないといった風潮があったようでした。 会社ではともに働いていても、プライベートで若者同士が集まる寄り合いには、 けっして呼んでもらえなかったそうです。


しかし、父は朗らかで明るく、そんなことも笑い話で語ってくれました。うちでもよく、ドラ焼きやドーナツ、カステラを焼いてくれて。 できたて、ホヤホヤで、それはそれはおいしかったです。 父が、「お父さんがつくったと言うなよ」 と恥ずかしそうに言っていた顔が、今でも浮かびます。


わが父は、わたしに大きな影響を与えた人です。 面白くて、人を笑わせることばかり考えていました。


日本人には珍らしく、子どもに対する愛情を人前でも 表現していました。 「うちの子ほど美人で品があって頭がええ子はおらん。 皇室に出しても恥ずかしくない。」 とつねづね言っていました。 それを本気で信じて育ちました。


父の愛情はわたしの財産です。 心から感謝しています。


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母はとてもやさしく、寛大でした。 よく私の服を作ったり、刺繍をしてくれたりしました。


姉といっしょにのびのび育ててもらいました。 4つ上のおっとりした姉は、小さいときは、私のわがままに手を焼いていたようです。


しかし、私がわがままをやめた10才くらいになってからは、 とても仲良し姉妹となりました。


今でも大の親友で、おしゃれできれいな、自慢のお姉ちゃんです。


幼稚園

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幼稚園は、浄土真宗のお寺の幼稚園でした。


年中組から入ったのでなかなかなじめず、 はじめての年は、毎日泣いて帰りました。


お弁当だけはおいしくて、のこさず帰りました。


お茶の時間が本堂であり、それが大好きでした。角ゼリーがおやつに出て、うれしくて、口に入れてとけないように家までなめてました。 この時の楽しい記憶が、茶道を続けるきっかけになり、 師範を取るまですすんだのだと思います。


年長さんになって、先生はとても私に目をかけ、かわいがってくれました。 そのころから、幼稚園が楽しくなりました。


気がつけば、体もだれよりも大きく、 怖がることは何もないことに気がつきました。


絵をほめられて、絵描きになろうと思いだしたのも このころからでした。 今でも先生を思い出します。 イワサキ先生、大好きでした。


小学校

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風邪などの病気のときは、かならずこの黒い着物を着ていました。


小学校では、背も高くて、体力があり、スポーツもできる方でした。


仲良し4人グループの友だちができて、 4人で笑ったりふざけたり、楽しい小学校生活をおくりました。


中学校~高校時代

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中学校にはお受験をして入りました。


わたしがあまりにも先生に反抗して勉強しなくなったので、 母が進学塾に入れたのがきっかけでした。


広島女学院という中高一貫のミッションスクールに入りました。


医者の娘、社長の娘etc…お金持ちの娘さんが多く、 お嬢さま学校で、わたし1人だけ浮いていましたが。


そこで初めて、宗教との深い関わりをもちました。 毎日の礼拝・讃美歌・ステンドグラス・パイプオルガン、 そして、美しい聖書の言葉。 何もかも新鮮でした。


人間とは何なのか。 何のために生きてきたのか、ということに、 深くふれる機会をもらいました。


神の子羊でありたいと思い、毎朝毎晩いのり、 神の愛を実行しようと努めました。


しかし、人を愛そうとすればするほど、 自己欺瞞・偽善の心に悩まされました。


予備校時代

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この写真は予備校でデッサンをしている時のものです。


進路は美術の大学に行きたいと思い、 高校1年の途中から、美術専門の予備校に通いました。


それまで女子高で育ってきたので、 他の高校生や浪人生といっしょにデッサンしたり、 デザインの勉強をすることは、とても刺激的なことでした。


毎日遅くまでデッサンをして過ごしました。 ヴィーナスやマルス、カラカラ帝などの彫刻、静物デッサンを、 何度も繰り返しました。


立体作品では、粘土を使ったりました。


この頃も1番好きだったのは色彩で、 ポスターカラーの構成や水彩絵の具を使うのが得意でした。


大学時代

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京都市立芸術大学に入学しました。


本当は武蔵野美術大学に入りたいと思っていました。 東京に出る友人も多かったですし、 自分も東京に出たいと思っていました。


しかし、親の仕事も不景気になってきて、 公立に行ってくれ、と言われ、京芸に入ることになったのです。


関西弁になじめず、みんな吉本の人みたいで、ふしぎでした。 広島弁をからかわれたりして、 1年生のときはすっかり心を閉ざして過ごしました。


最初の1年は、私はここに来たくなかった、という思いがありました。

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(写真左:自分で作った作品をデッサン。キリコダリが好きで、虚無的な作品をつくるのが好きでした。 右:1年のときに「夢殿」というテーマで作品を作りました)


2年生になって専攻にうつり、 アットホームで台所もあり、ともに食べ暮らすような陶芸科に入りました。


先生にも先輩にもかわいがってもらい、 とっても楽しい毎日がはじまりました。


粘土をこねているだけで気持ちよく、 轆轤(ろくろ)をひくのは楽しかったです。


昼間はがんばって作り、夜はみんなのうちに訪ねていって飲み会があり、 ゆかいな日々が続きました。

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(これは、奈良にある「登り窯(のぼりがま)」での実習です)


しかし、作品に対する先生の指導もきびしく、 作っても作ってもダメ出しをされました。


そのことから、自分が芸術家になれるのか、 さらには何のために生きているのかを深く考えるようになりました。

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(芸術大学で作った陶器作品)


「優れた作品を創り出すには、精神的な信念が必要ではないか・・・」と考えはじめました。


そんな時、仏教芸術史演習という授業に参加したのでした。


関西にある寺院の国宝を見て歩く、という授業で、 仏像をたくさん見ることができました。


私はたちまち仏像の美しさに魅了されました。

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法華寺・十一面観音像

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興福寺北円堂・(左)無著像(右)世親像

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(左)興福寺・阿修羅像(右)東大寺・月光菩薩像

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三十三間堂・千手観音立像


仏像がこんなに美しいのは、仏教がすばらしいからだ!  そう確信して、仏教を学ぶようになりました。その授業で助手をされていた先生が、浄土真宗の僧侶でもあり、お話を聞く機会に恵まれました。

初めて他力信心の世界を知り、 このために私は生まれてきたのだ、と思いました。このあたりの詳しい話はまた、話させていただきます。

結果として浄土真宗の教えに救われた私は、子供の時から抱えていた問題を解決してもらいました。

これを浄土真宗では「他力信心をいただく」といって、死後に対する不安が解決されます。

このあたりは『光雲な毎日』に書きました。また以下のYoutube動画でもお話しています↓)。


大学時代に仏教美術を勉強したことが、僧侶になる大きなきっかけとなりました。


自分の中の絵と出会う

芸術大学を卒業した後は、高校の美術講師を勤めました。 そして結婚・出産・子育てと忙しい日々を過ごし、 気がつけば絵を描かなくなってから12年の月日が流れていました。


仏教と出会ってからは、仏教を勉強することと、布教をすることに夢中でした。


芸術は・・・私以外にもできる人がいる。 でも、この布教は私にしかできない、と思っていました。


しかし10年たって、生活の中でいろいろな葛藤を感じるようになりました。


母親となる前の私。 何も身につけていない、ハダカの私は、何がしたかったのだろうか? と、 立ちどまるようになりました。


「私は何がしたいのか?」


そんなある日、友人が 「絵を描いてみたくなった」といって適当に絵の具を買ってきて、好きに絵を描きはじめた姿を見ました。


その時、それを見ていて、ふと「私も描いてみようかな」と思いました。


試しに描いてみると、絵筆を持った手が勝手に動き、 まるで体の中から湧き上がるように絵が出てきました。


体の中には絵がたくさん詰まっていました。 うれしさ、かなしさ、楽しさ、喜び、悩み、おどろき、・・・ そういうものたちが、絵にしてもらうのをうずうずしながら待っていたのです。


「絵が描きたかったんだ。私には本当に絵を描くことが必要だったんだ」


と、泣きたくなりました。


「絵は誰にでも描ける」 ということを見つけた瞬間でもありました。


大学時代のように誰かに見せるため、ではない。 自分一人のために描いたらいいのだ、と思いました。


そうやって絵が描けるようになってから、絵が楽しくて楽しくて、 来る日も来る日も絵を描き続けました。


あの日から10年以上がたち、現在も日々絵を描いています。


絵を描くという行為は、 生きていく上で、私にとってなくてはならないものです。白いキャンバスは全てを受けとめてくれます。

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(注文された絵を描いているところ。絵を描くことは喜びそのものです)


絵を描くようになってから

絵が描くようになってから、自分の絵を初めて額に入れて感動したり、 お友達から「絵はがきがほしい」「画集がほしい」と 言われるようになりました。


知り合いに画集を作ってもらい、美容室やカフェに置いてもらいました。


これは色んな人に読まれたようです。

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(この画集をきっかけに、色んな人から声をかけてもらいました)



絵を注文されるようになる

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(京都の美容室・アンシャンテさんのオーダーで描いた絵)


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(左・大阪の香里ヶ丘保育園さんからのオーダー)
(中・福岡の公認会計士・山﨑隆弘さんからのオーダー)
(右・大阪の病院・あかねレディースクリニックさんからのオーダー)


この頃になると、絵はがきや画集を見た人から 「絵(原画)を売ってほしい」と言われることが多くなりました。


ギャラリー(個展)をするようになる

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そして、初めてギャラリー(絵の個展)をしました。


いきつけの自然食カフェ・マチャプチャレに絵を飾ることになり、 京都の老舗額縁店・大地堂の漆山さんがわざわざ絵を飾るのを手伝いに来てくださいました。


マチャプチャレでは2年もの間、絵を飾っていただきました。


その期間中に、ニューヨークから来たテレビ局の女性が、 絵を見て泣いてしまったとカフェのママから聞きました。彼女が泊まっているホテルから電話がかかってきたので、絵の感想を聞いてみたら「絵に感動した、もっとあなたの絵が見たい」と言ってくれました。


わたしは2012年の夏から1年間、アメリカに滞在していたのですが、 行く前から「彼女に会いたい、アメリカでも個展をしたい」と思っていました。 この「アメリカで個展をする」という夢は、 2013年の4月にかなえることができました。


絵が本の表紙になる

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(上段左から 『こころの天気を感じてごらん』 『離婚後の共同子育て』『アートとしての教育』 『人間中心の教育』
下段左から『創造性について』 『グロリアと三人のセラピストとともに生きて』 『グルと弟子の心理学』 『離婚の苦悩から子どもを救い出すために』


描いた絵が100枚をこえた頃、 絵をホームページに掲載するようになりました。 すると、「絵を本の表紙に使わせてほしい」と連絡がありました。


東京のコスモス・ライブラリー出版社の大野純一さんからでした。 「お好きな絵を使ってください」と答え、 本の表紙に絵を使っていただけるようになりました。


びわ湖のカフェで個展をする

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この夏に、びわ湖の浜辺にあるカフェ”Rcafe”に初めて行きました。


店内に絵を飾れるスペースがあったので、店長の山田さんに個展をさせてもらえないかと聞くと、すぐにOKしてくださいました。


個展をおこなった2ヶ月半の間に、遠くは北海道、新潟、福岡から来て下さる方もあり、本当に感激しました。


小学生の男の子が絵のファンになり「絵の描き方を教えて」と言ってくれて、 後日その子のために絵画教室を開催しました。


アートセラピーをするようになる

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絵を描くようになってから、絵を描くこと自体にセラピー効果があることに気づきました。


アメリカのナタリーロジャーズが始めた、表現アートセラピーを勉強しはじめ、集まりを持つようになりました。 好きな色で自由に塗ったり、雑誌から好きな写真を切って貼ったりするのですが、 参加された方はみんな子どものように夢中になっていました。


この集まりを持つようになって、やっぱり絵って楽しいし元気をくれる、と確信するようになりました。


仙台に個展をしにいく

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2012年の3月、仙台の被災者の方に招いていただき、 絵の個展・アートセラピー・法話会(仏教のやさしいお話)をしてきました。


東日本大震災では、わたしも大きな影響を受けました。 1年たって被災地がどうなっているのか、 実際に現地の人々がどんな思いを持たれているのか。


知り合いのいない初めての仙台でしたが、 ギャラリーには思いがけず多くの方が来てくださって、 震災についてもくわしく教えてくださいました。

こちらは仙台で行ったご法話の動画です。


仙台で経験したことは、こちらのブログ記事でレポートしてあります。

『東日本大震災から1年後、仙台へ』
http://koun18jp.blogspot.com/2012/04/blog-post_8.html



仏教の勉強

そのような活動を行いながら、仏教の方も勉強を続けました。


私が得度(とくど)して僧侶になったのは2010年。 その後に仏教をもっと研究したいと思い、龍谷大学の大学院(真宗学)に入学しました。


修士課程の2年間と博士課程前期の2年間は親鸞聖人の書物を英訳されたデニス・ヒロタ(Dennis Hirota)先生に、そして研究生の3年間は龍溪章雄先生に師事しました。また那須英勝先生はアメリカ留学の折から、多くの助言とともに励ましてくださいました。
研究中に大変お世話になった武田龍精先生には、その後、拙著『光雲な毎日』の帯に推薦文をいただきました。


私は「異宗教間のコミュニケーション」をテーマに研究を続け、 2012年夏からアメリカのバークレーに留学しました。 関西国際空港から出発しました。

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(留学前の下見に行ったときの写真)


私は仏教大学院(Institute of Buddhist Studies)宗教大学院連合(Graduate Theological Union)で学びました。以下は留学中の様子を撮った動画です。


アメリカには仏教徒の方、またキリスト教をはじめ他宗教の方もたくさんおられ、彼らと色んな話ができたことは大きな収穫でした。

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(宗教大学院連合で授業をともにしたイエズス会の神父の方々)


アメリカでも法話をするようになり、海外で布教したいと考えるようになりました。 こちらはサンフランシスコで行った法話です。



また以前から「アメリカで個展をする」という夢がありましたが、 2013年の4月に叶えることができました。

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(カリフォルニアで行なった個展の様子)

下宿でたくさんの絵を描き、個展を始める時にオープニングパーティーを行いました。その時の様子を動画で記録してあります。

(動画)絵を描いている様子と個展の告知↓


(動画)個展のオープニングパーティーの様子


この個展に参加された方の感想は、以下のブログ記事にまとめました。
http://koun18jp.blogspot.com/2013/04/blog-post.html


本を出版する

日本に帰ってからしばらくの間、人生を考える時間となりました。

海外で布教がしたい・・・私が得度した西本願寺では、北米・ハワイ・南米などに布教の拠点があります。しかし、どこに決まるのだろうか? 

そんなことばかり考えていたある日、テレビ局から連絡が来て『ぶっちゃけ寺』というテレビ朝日の番組に出演させていただくことになりました。

お坊さんを招いてトークするという珍しい内容で、私も数回出させてもらい、そこでお友達になってくださるお坊さんもおられました。

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(滋賀県での個展に来てくださった杉若恵亮先生と)

そして予想外だったのですが、以前から私の絵を表紙に使ってくださっていたコスモス・ライブラリー出版社の大野純一さんがその番組を見られて「本を書いてみませんか?」と言ってくださったのです。

私は子供時代から人生の問題に悩み、浄土真宗に救われた人間です。いつかこの喜びを本にして、世のみなさまとシェアしたいと願っていました。もちろん「よろしくお願いします」と答え、本の執筆を始めました。

文章は親しみやすく、カラーで絵を入れて、4コマまんがをたくさん・・・と手を入れているうちに、作業量がどんどん増えていきました。

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「初めての方でも読みやすいように」と文章とまんがに細かくこだわった結果、校正するだけでも膨大な時間がかかり、なかなか終わりが見えない。

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(校正を入れるページが山のように出てきました)

けれども何とか完成させることができて、大学院の研究でお世話になった武田龍精先生に帯の推薦文をいただきました。

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出来上がった『光雲な毎日』

実はこの本の執筆中に、ブラジル西本願寺から声をかけていただき、赴任が決定しておりました。

私は終わらない原稿を前に「せめてブラジルに出発するまでには完成させたい」と考えていました。

ギリギリセーフで手元に届いた本を眺めたとき、何ともいえず感動したのを覚えています。

この本には立ち読みページがあり、以下URLからご覧になれます。
http://koun18book1.blogspot.com/2015/06/blog-post.html



ブラジルでの布教

海外で布教するのが夢だった私は、2015年の7月からブラジルに赴任することになりました。最初の3年半は、大都市サンパウロの別院に勤めました。

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日本ともアメリカとも違う景色を見て、私はこんな絵を描きました。

(動画)ブラジル赴任後、初めて大きな絵を描いている様子↓


また赴任してすぐ、夢だったブラジルでのご法話も行いました。この国での布教の第一歩だと思い、とても緊張したことを覚えています。

(動画)ブラジルに来て初めての法話↓

サンパウロに住んでいた期間、たくさんのご法話をさせてもらいました。

日本から見るとブラジルは地球の反対側ですが、こちらでも広島にルーツを持つ人々が、原爆追悼法要を行なわれるので、そのご法話の依頼をお受けすることもありました。

時には下の動画のように、遠方に出張して布教することもありました。


ブラジルへ移住する人は多く、日本からの移民は100年以上も前に始まりました。そのため現在では、世界最大の日系社会が形成されています。

日系の二世・三世までは日本語を流暢に話せる人も多いです。

ですがこの国の、家族と友人を特に重視する文化は根強く、たとえ日系の子孫であっても、出会った瞬間からアミーゴ(友達)だという雰囲気を身につけています。

そんなブラジルの陽気さを象徴するものとして、サンバを思い浮かべる人も多いと思います。サンバカーニバルは文字通り一晩中おこなわれ、踊り手も楽器隊も一人ひとりが主役となって楽しみます。

(動画)サンパウロのカーニバル↓


私はこの国の空気を肌で感じ、濃い体験をさせてもらいました。

あざやかな色彩の風景、楽観的な人々、都市をも侵食してしまいそうな植物・・・。

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その結果、私の描く絵にも変化が生まれたように感じたものです。

私は新しい感覚とともに絵を描き続けていたのですが、しばらくすると「今度、新築される寺院があるんですが、そこに絵を描いてみませんか?」というお話をいただきました。

場所はサンパウロ近郊のモジ・ダス・クルーゼス西本願寺。その主管であられる清水円了先生から声をかけていただいたのです。

制作に相当な労力が必要なことは分かっていましたが、自分の変化を知りたかった私は、喜んで引き受けることにしました。

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モチーフは極楽浄土で主役はクジャク。そう決めてから、動物園に足を運んでクジャクを観察し、日本から画材を取り寄せ、あとは巨大なふすまと壁にひたすら描く。

結果として半年以上にわたり、2つのお寺を行き来しては、作業場で寝泊りを繰り返す生活をしました。

・・・大変な仕事でしたが、おかげさまでサンパウロの新聞にも取り上げていただき、清水先生にも喜んでいただけたようでした。


寺院の絵を描き上げた私は「ブラジルでも個展を開こう」と思いました。

そうと決めてからは、個展に向けて毎日のように絵を描き、その中からお気に入りの一枚を使ってポスターを作りました。

そしてパウリスタ大通り近くの会場を借り、2018年11月末に個展を開いたのです。

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日本の反対側にあるこの国でも、絵画を楽しむ人がいるのは同じでした。

私の絵を受け入れてもらえたことは、同時に、この国で仏教を広める可能性を感じさせるものでした。


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そして3年半が過ぎ、今度はサンパウロから北西に500キロの、内陸部にあるアラサツーバ市のお寺(ノロエステ西本願寺)に赴任しました。

こちらは就任法要のときの動画です↓。

70年も前に移民の方々がご苦労されて、山から大木を切り出して運ばれ、この大きなお寺が建てられたそうです。

まさかブラジルの内陸部にこんな立派な寺院があるとは、最初に見た時は信じられませんでした。

アラサツーバ市は日系人の多い土地で、比較的に治安もよく、のんびりとした空気があります。

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護寺会メンバーのみなさんが良くしてくださるので、布教の意欲もますます湧いてきます。


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ブラジルに来てから5年近くたちました。

その間、たくさんのご法話をさせて頂きました。それらは以下のYoutubeチャンネルでご覧になれます。

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https://www.youtube.com/user/yukoyuko18gan/videos



私は日々、絵を描きつつ布教をしています。

最近はネット布教の可能性を広げようと、SNSでライブ放送も始めました。

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新型コロナウィルスの影響で、家にこもりきりになることも多いですね。今後もこういう日々が続くと思われます。

そのために、インターネットだけで法話・座談会・ご示談ができる活動をしています。

よかったら、のぞいてみてくださいね。

Twitter 久保光雲
https://twitter.com/kounkubo

Facebook 久保光雲
https://www.facebook.com/koun.kubo

YouTube 久保光雲の法話
https://www.youtube.com/user/yukoyuko18gan


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長い自己紹介を読んでくださり、ありがとうございました。

浄土真宗がプレゼントしてくれた「いつ死んでも大丈夫」という安心感は、救われてから20年以上たっても変わらず、今日も私を前へ前へと進めてくれます。

これから仏教をわかりやすく解説した記事などを投稿していく予定です。

noteはまだまだ初心者ですが、よろしくお願いいたします。


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