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青春の時間の濃密さ 『君の名前で僕を呼んで』を観て

 先日、『君の名前で僕を呼んで』という映画を観た。
 アカデミー賞でも話題になっていた本作。声高におもしろいと言えるものではなかったけれど、静かに心に染み入る。終わったあとの余韻がずっと残り続け、帰りの景色から寝つくまで、全てのものの見え方が普段と異なるように感じる。

 美しい映画だと思った。
 甘酸っぱさと、若いから感じられる痛みと苦しみが詰まった本作。青春って客観的に物語として眺めるといいなって思った。

 自分の青春を感動的に思い起こすことは難しい。そこに「美しさ」なんてものはなくて、あるのは自惚れと痛みと恥辱と、どこまでもついてくる後悔だ。自分の青春は良かったなんてノスタルジーに浸るには、もっと歳をくって「今」ではなく「昔」ばかりに思いを馳せ生き続けるおじいさんにならないと。身も心も今とはすっかり変わってしまう年齢にならないと無理だろうと思う。

 おそらく、誰一人として“無駄な”青春は過ごしていない。
 ラブ&ポップでボーイミーツガールな青春期を過ごしていたかどうかは関係ない。『リバーズ・エッジ』のように黒々としたリアルの中を生きていたかどうかは関係ない。たぶん、自分では青春期の時間の濃密さに気づけないだけなんだと思う。下手くそな例えをすれば、周りからリア充と呼ばれている本人は、全くリア充だと感じていないように。隣の芝生は青く見えるように、他人の姿はその本人がどう感じていようと関係なしに美化される。淡々とした毎日を過ごしていたように見えて、その実はその本人にしか経験できなかった時間を生きている。その時間の中で、その本人にしかない「出会い」があったはずだ(それは恋の形をとることもあれば、友情の形をとることもあり、はたまた恩師との出会いかもしれないし、人生最悪な出会いもあったかもしれない。いずれにしても忘れられない出来事だろう)。

 今は時すでに遅しで、過去に戻ることはできないし、その頃の成長していない未熟な心持ちで感じられる出会いはできなくなっている。映画の中で主人公のお父さんが言うように「私には君たちのような経験をすることはもうできない」。

 映画の中で主人公の経験した一夏の恋(それも濃密な)を経験することはこれからはないだろうし、過去にもなかった(たぶん。それとも気付いてないのか⁉︎)。そう思って映画を思い返しているとなんだか悔しさがこみ上げてきた。彼が経験したような痛みを、あの頃の自分のように感じることはできないかもしれない。自分の痛みは世界で一番苦しいものなんだと思っていたあの頃のように。自分と他人、痛みの大小はあれど、その痛みを抱える本人にとってはとても苦しいものだと理解してしまった今では感じることのできなくなった感性。その未熟さはかえって羨ましい。

 映画が終わって席を立つと、涙を流している方々がちらほらと。あの人たちは何を思っていたんだろうか。

 観た人たちの感想が聞きたくなってくるよ。


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