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書き言葉の世界の限界を探りたい

 「小学生でも分かるように言葉をつづり、文字で表現したい」
 最近、文章を書くときに戒めていること。

 文字情報の世界に身を浸していると見えない世界がある。
 普段から文章を書くことに慣れてしまうと、文章が読めない人のことをなおざりにしがちである。

 書き言葉に限界を感じるというか、書き言葉の世界が狭いものに感じる。
言葉、しかも文字としての書き言葉で伝えられること/伝えられないこと。書き言葉で体験できるものの範囲。
 その差を明確にして、どこまで文字に頼ることができるのか、文字に変わる伝達手段は何か、探求できるようになりたい。

 それを考えるきっかけになったことが大きく二つある。

 一つは、かつて読んだベルンハルト・シュリンクの『朗読者』という小説(映画にもなっており、こちらは『愛を読むひと』というタイトルになっている)。
 第二次大戦後のドイツ。少年が大人の女性と恋に落ちる。文学が好きだった少年は彼女に朗読をすることが習慣となるのだが、彼女は文盲だったーー。そのことが後に悲劇へとつながる。

 そして、もう一つはNPO職員だったときに出会った数々の人々。僕が所属していたNPOでは若者支援を軸として、発達障害や知的障害を抱える人々と毎日のように接していた。不自由なく読み書きができる人に比べ、どうしても文字を読むことや理解することに時間がかかったり、文字と情報がつながらなかったり、そもそも字がかけなかったり(本人はちゃんと字を書いているつもりなのだが、「普通の感覚」からすると誤字脱字のレベルにとどまらないなど)、日々目にする文字および文章に困難さを抱える人々がそこにはいた。

 人によっては「ディスレクシア」と呼ばれる「知的能力および一般的な理解能力などに特に異常がないにも関わらず、文字の読み書きに著しい困難を抱える」障害・症状ではないか…と思うこともあった。

 そうした経験を通して過去を振り返ってみると、小・中学生のころ案外そういうディスレクシアっぽい同級生はいたよな…と思ってしまう。なんだかんだ言って、障害の程度にはいかなくても、かつての自分も「読み」には苦労していた。文字の列を追うこと、文字を読みつつその情報通りにイメージを描くこと、この二つができなくて10代は国語の試験が大変だった。

 そういえば、生まれたばかりのころ、僕らはみんな言葉を知らなかったはずだ。成長の過程で、ただの音でしかなかった言葉が、一つの意味を持つ言葉として立ち現れる。そして、その言葉を文字として視覚的に表現することができ、他人と共有することができるという奇跡にも似た出来事。そのことに一つ一つ大きな感動を覚えてた気がする。

 もともと書き言葉(文章)が読み解けなかったころから思考を開始してもいいのかもしれない。そこをスタート地点にすると何か見えて来そうな気がした今。

 文字が苦手な人、文字が読めない人と「文字でコミュニケーションをとる」というのは暴力だろうか。
 あまりにも文字にしがみついている自分がいる。だからこそ文字や文章、もっといえば言葉の可能性を探りたいし、その限界を見極めたい。

 難しい言葉を排して、優しい言葉を連ねて丁寧に説明するということはできる。しかし、これは文字が読めることが前提、そして文章が長々としたものになりがちである。

 村上春樹のような巧みな比喩を用いて、世界観や伝えたいことを読者の頭の中のイメージとして作り変えていくこともできる。しかし、これも文章が読めることが前提。

 そういうことではなく、目にした書き言葉からもっと直接的に脳内イメージがつくられる方法はないか。

 トイレのピクトグラムのように、パッと見てなんとなくイメージがつきそうなこと。なんとなく分かること。
 この“なんとなく”という感覚を引き出すには…。

 答えが見つからないので、この文章自体にもオチをつけることができない。
 ただ、最初に宣言している「小学生でも分かるように言葉をつづり、文字で表現したい」はまったくもって守られていないですね…。なかなか難しい。

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