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余はいかにして本好きとなりしか

 僕は本が好きです、はい。
 本の装丁やデザイン、本のある空間、本を読むこと、本に関わるそのどれもが好きだ。
 それもあって本のイベントや読書会、トークショーがあると聞けばマギー審司ばりに耳を「デッカくなっちゃった!」して、指向性マイクのごとく情報を得たり、それらに参加したりするし、そういった催しの運営をする側になることもある。

 しかしだ、僕を知っている人からすれば意外に思われるかもしれないが、僕が本という存在を純粋に好きと言えるようになったのは実は大学生になってから。そして、習慣的に本を読むようになったのも20歳になってからなのです(今30歳だから読書歴は10年になりました)。

 20歳になるまで本をまったく読んでこなかったかというとそうではなくて。
 実家にはそれなりに本があったし、小学校の図書館でも「シャーロック・ホームズ」シリーズなんかをよく借りたりしていた。読書感想文や感想画だってちゃんとこなしていた。

 ただ、一つ難点があった。

 僕は文章が読めなかった。音読はできるが、その音読した内容が頭に入ってこなかった。注意深く読んでいけば少しずつ内容が頭に入ってくるのだが、隣合う行や列の位置が分からなくなったり、少しでも違うことを考えるとあっという間に内容が消え去ることがあった。だから圧倒的に読むスピードは遅かったし、小学生〜中学生のあいだに自力で一冊読了したことなんて数える程度だと思う。当時は読み聞かせのように、他人が読んでくれた方が楽だった。

 引っかかった言葉、たまにある挿絵を頼りに、ほとんど想像で話をふくらませて、勝手に解釈しながらページをめくっていった。その点、漫画や図鑑は絵や写真のおかげでなんとなく分かるのでずいぶん楽だった。そしてその世界に没頭することができた(こちらは没頭するから読むのが遅くなることも)。

 そんなもんだから、高校時代は試験で苦労することが多かった。試験といえばどれも苦痛だが、長文読解が必ず出る現代文や英語の試験はほんとうにきつかった。文章を読んで、問題文の言っていることも忖度して、制限時間内に解答をしなければならない。ただでさえ文章を読むことが遅いうえに内容も頭に入りづらい。頭がパンクしそうになって余計情報が入らない、時間が迫り焦る…の繰り返し。勘で解いていったこと数知れず。よくある〇〇模試の国語や英語、あれは200点満点だが100点やっと届けばいい方だった。そういえば、出題内容を読み解くのが数学だぁ! だから数学は国語なんだぁ! とか言われていた数学さんは40点量産したなぁ(たまに赤点とるし)。それは関係あるのかないのか。

 まあいずれにせよ、文章を読むことと、同時に脳内にその内容通りのイメージを浮かびあがらせることがどうしても結びつかなかった。というか、頭の中で視覚的な像が見えないと話の流れをつかむことができなかった。だから積極的に本を読もうなんて気になれなかった。文章という存在、その文字(言葉)の連なり、そこに空気のように流れている文脈というものがうまくとらえられない。今思うと「空気」が読めないのもそのためだったかもしれない。

 そんな男がいかにして文章増し増しゲロゲロ〜な本でも積極的に読めるようになったのか。そして本好きへと変身を遂げたのか。

 思い当たるきっかけはいくつかある。一つに浪人時代にゆっくりと現代文を読むことができたこと。そして、その内容のおもしろさに気付いたこと。そして、必ず講師の解説があったこと。たとえば受験で頻出と言われている鷲田清一や山崎正和のお話(ここでは「文章」と表現するより「お話」の方がしっくりくる)は「なるへそ〜そんな考えもあるんか」と驚きに満ちていた。新しい世界がひらけた感覚があった。

 同じようにして小説世界にもだんだんと魅了されてきた。恋愛ものなんかは読んでいてキュンキュンした。
この浪人を過ごしていた時期からちょっと物書きをしてみたいと思うようにもなった。ほとんど文章なんて書けなかったけれど。

 また、本好きになるきっかけとして大学時代は外すことができない。
 東京の某大学の文学部哲学科に入ったことはなにより一番大きいと思う。思考と言葉を徹底的に鍛える環境、東京という文化の成熟した地、あらゆる知識・教養・カルチャーに精通した同級生たち。片田舎から出てきた身、自分にはなにもかも足りなかった。それまでの20年間に得てきた体験、とくに文化的な体験と教養のレベルがまったく違う。そして価値観や考え方の多様さにも圧倒された。

 周りに追いつこうとして気になった本を読みまくった。意味は分からずとも。そして、授業に出ては徹底的に頭に汗をかいた。そして授業中によく寝た。

 しかし、そんな日々を繰り返していくうちに、いつの間にか本が読めるようになっていた。それに気付いたときの嬉しさたるや。慣れなのかなんなのか、よく分からないが草むらに道ができたような感覚。そして、あたかも絵の描き方が分かったのと同じ感覚を受けた。

 小説を読んでいても感動できるようになったし、本が読めるようになってから相関するようにして、映画を観ること、音楽を聴くことがより楽しくなり感動するようになっていた。いいたとえが思いつかないのだけれど、グザヴィエ・ドランの映画『Mommy/マミー』で「Wonderwall」が流れたときのスクリーンが広がる感じ。あの世界がぐっと押し広がっていく感じ。

 なにより、単なる文字の羅列でしかなかったものの中へ、自分の体験を流し込むことができるようになったことが嬉しかった。そこから一気に言葉や概念が「分かる」ようになってきた。そして「うわああ」「なんだか分からないことだらけだけど、すげー」と感動するの繰り返し。

 そうして自分の中に言葉が充満してきたころ、少しずつ自分も文章を記すようになっていった。それをやればやる分だけ「もっと頭よくなりたい、もっといろいろ感受できる人間になりたい」と思い本を読んでいくのループ。

 その結果として、今の本好きな僕がここにいる。

 まあ、本が読めるようになったとはいえ、もともと文章ダメだった人間なので、いわゆる読書家の人たちのような本の読み方はできない。読むスピードは今でも遅いし、1年のあいだに読む量もたかがしれている。たまに文字列がゲシュタルト崩壊して、頭が処理できなくなる。疲れているときなんかはとくにだ。

 でも、自分の世界が押し広がったという快感、そして単純な文字列のなかに見えない物語が流れてるという感動、これを味わった以上、本からは逃れられない。好きだから本から得られた感動を誰かに伝えたい、共有したい。

 本、そして文章を楽しむことができなかった子どもの僕へ。
 見えることだけがすべてじゃない、見えないことの中にも世界や物語は存在している。それを感じとるにはちょっと訓練が必要だったけれど。それに気付ける日が必ずくるからそれまでの辛抱だ。そして、それに気付けるってことはとてもハッピーなことなんだ、ということにも気付いてくれ。それが他者への想像力につながるから。

 まあ、でもあれだけ本も文章も苦手だったのに、仕事で文章書いたりキャッチフレーズ考えたり、ここでこんなこと書いているなんてなんとも不思議な因果ですね。

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