自分の半生をまとめました後編(就職~フリー・現在)
好きな分野であるオーディオのデザイナーへ
当時3年の春休み前、大学の自分の科では進路を決めるため企業に一週間ほど研修へ行くのが通常となってました。4年生になる前にほとんどの人が就職先が決まっちゃうんです。
だいたい大手の車メーカーや家電メーカーには成績上位者が行くことになるので、成績としては中の下の私はほとんど諦めてたのですが、学生を募集してる企業の中に私の好きなオーディオメーカーのA社がありました。
※懐かし~い入社前のカタログですが、モデルは設楽りさ子(三浦カズの奥さん)ですw(画像:Aucfreeより)
あと日程的に行ける会社で他に希望者がいなかった長野県のプリンターメーカーE(というとあそこしかありませんがw)も行きましたが、ここからは声がかからず、東京のA社にお世話になることになりました。まあ好きな分野でもあるので願ったり叶ったりでした。
自分のデザインが形として世に出る仕事
1989年4月にA社に入社。デザイン室に配属となり、インハウスのインダストリアル・デザイナー(工業デザイナー、プロダクトデザイナーとも言う)としての第一歩となりました。
仕事の内容は、自社の製品のデザイン。主に外観ですが、スタイリングから色、質感。どんな素材を使うのか、どんな仕上げにするのか。どんなふうに使うのか…。
もちろん中身のメカや部品もありますので、コストに合わせて大きさや形を設計者と折衝を重ねつつ決めて行きます。あと営業サイドの意見や要望も入れつつ最終的に世に出る(発売される)、自分のやったデザインが形として残る仕事です。
まあモデルチェンジのペースも早いので市場から消えるのも早いですけど^^;
あともちろん国内だけじゃなくて海外にも広く販売してましたから、海外でしか売られない商品もいくつも担当しました。
海外モデルは「外版」といって、国内では考えられないくらいの派手な形であるとか大胆なカラーリングが特徴だったり、決して自分では買わないけど現地の人に受け入れられるデザインも必要になってきます。
これによりデザイナーとしての幅が大分広がりましたね。
Gマーク受賞!デザイン誌にも掲載
今もありますが、「グッドデザイン賞」を3回受賞することができました。最初のは入社2年目に取り組んだヘッドフォン(HP-X1000)で、大きな自信にもなりましたね。
自宅のターンテーブルと共に(自分で写真撮りました)
当時は3DのCADも普及してなく、二次元で図面書いてました。生産する前に型のチェックに行くのですが、マスターを見て「ここはもうちょっとこう削って」とか微妙に修正を入れてもらうのですが、多分左右で微妙に形違ってたような(;´Д`)
今となっては信じられませんが。
あとはカードラジオ(CR-DS805)。Gマークを取ったモデルを頂点としたラインナップをすべて任せられたり、ヨーロッパでもヒットしたマイクロコンポ(XR-MD700)など、コンパクトなオーディオ製品を得意としてました。
自宅のMac G4 Cube(古っ)と共に
これはヨーロッパ版。プロに撮ってもらったやつ
97年にはデザイン誌「AXIS」にプロトタイプ特集で記事が載ったこともあります。(表紙は今も活躍するデザイナー吉岡徳仁さん)
アドバンスデザイン(先行開発デザイン)として作ったモックアップ。100枚MDチェンジャー。(当時はMD全盛でした)
奥様はライバル会社
94年、社内でデザイナーとして結果も出し乗りに乗っていた6年目、学生時代から付き合ってきた彼女と結婚します。
実は彼女はライバル会社Vのデザイナーという同業者(!)まあ話題にはなりましたが特に問題なく結婚できました。
結婚式の二次会パーティーはライブハウスを貸し切っての新郎オンステージw。当時やってた社内バンド2つ(ドラムス)に当時ハマっててしょっちゅうライブに出てたレゲエバンド(トロンボーン)で出ずっぱり。
途中普通のパーティーらしいビンゴなんかもやりましたが、バカですねぇwホントとことん楽しませてもらいました。
で、新婚旅行はレゲエにちなみジャマイカへ。初めての海外旅行でした。
ジャマイカへはこの3年後も、今度はバンドの仲間と行き本場で演奏もしました。トップの砂浜でトロンボーンを持つ男の画像はその時のです。←ウソ)
でもこの時実は直前に山登りへ行ってコケて膝を骨折してたんですけど、左足をギプスで固定した状態だったのでかなり歩きにくかったなぁ。今度は健康体でまた行きたいです。
ちなみに音楽関係の履歴はこちら→http://rhythmhacker.net/profile/
会社は消滅、独立へ。
A社は私の入社前、一時経営的に危ない時期もあったのですが、90年初頭に安い海外で生産し国内で安く売る手法で復活し、一時絶好調でした。
ところが他社もその手法で追い付いてきて、そのうちA社の売れ行きも悪くなって来ます。安くてすぐ壊れるなどと言われイメージも悪くなってきます。
で、とうとう業績を取り戻すことができずに破綻。親会社のS社に吸収され社員はバラバラに。まあリストラですね。Sへ行くか辞めるか。
私はもう辞めたい、オーディオは好きだけど他の分野のデザインも色々やってみたいと思っていたので、増額された退職金を受け取り退職しました。2002年7月。13年とちょっとの会社員生活でした。
で、フリーのデザイナーになったわけですが、特に何かアテがあったわけではありません。
でも辞めた後でもA社(まだブランドは残っていた)から仕事をもらったり、その取引先の関係で学生時代に研修で行った長野のE社の仕事をしたり、他にもうまい具合に仕事が舞い込んできて結構忙しい日々を送ってました。
あと私の妻の高校の時の友達が浜松の楽器メーカー(R社)に勤めてて、旦那さんがデザイン関係の部署だと。で、同窓会に行ったらぜひ作品を見せてくれと言われたので送ったら、外部のデザイナーとしてやりませんかということになったり。
まあいわゆるデザインの外注先になったわけで、最初はスポットとして一件一件契約してやってましたが、そのうち年間契約もしてくれるようになり、しばらくは最も重要なクライアントの一つとなりました。
やっぱり音楽関係のデザイン
楽器メーカーですので、音楽をやる時に使う電子機器のデザインが多かったです。
私は色々バンドやってて多い時は8つくらい同時期にやってたのですが、練習でスタジオとか行くと私のデザインした物を使ってる人多いんですよね。
特にポータブルのデジタルレコーダー(R-09)はプロでも使ってる人多くて、雑誌やウェブで扱われたり、mixiにコミュニティがあったり、
この機種の発売をきっかけに他メーカーもこの手のレコーダーを出すようになりました。
EDIROL R-09
私の憧れ、トロンボーンの向井滋春さんが使ってるのを知り感激したこともあります。
画像:http://jazzpro.jp/より
当時やっていたビッグバンドのコンサートに向井さんにゲストで来てもらったりしてましたので実際に見たのですが、
あ、向井さんはなんか不思議な縁があり、94年、結婚して最初に住んだアパートのすぐそばに向井さんも住んでたり(一度路上ですれ違った)、その時はバンドで共演するなんて思ってもみなかったです。^^;
今も第一線で活躍する日本を代表するジャズトロンボニストです。もちろん私のトロンボーンのケースは向井さんのサイン入り。
ネットビジネスとの出会い
そのR社も景気が悪くなっていき徐々にデザインの仕事も少なくなり、とうとう数年前に途絶えました。
その間他に仕事を見つける、営業するなりして取ってくるべく動かなきゃいけなかったのですが、パソコンで仕事をしてるうち、ネットで稼げるということがわかってきて、あれこれ情報を探るようになりました。
まあデザインの仕事も良いのですが、なにせやはり労働収入。やればやっただけ稼げるのは当たり前ですが、もっと大金を稼ごうと思ったら体が保たんな~と思ってたのです。
その点ネットでだったら不労収入も得られる?休んでる間でも稼いでくれる仕組みを作っちゃえばいいじゃん!
・・・というわけでネットビジネスの世界へ足を踏み入れてしまいました。
ノウハウコレクター誕生
最初はやはり「怪しいよな~」とか「ほんまかいな?」と思っていたネット業界ですが、稼げるのは本当らしい、というのがわかってきました。
色んな人のメルマガやブログを読み、徐々に洗脳されていった…というのが正しいのかもしれませんがw
稼いでる人は本当に大きく稼いでる。それも○千万、○億というハンパない額を稼げるんだ!スゲェ!
しかもこの人ら大して学歴がスゴいわけでもない、特別な才能があったわけでもない、どっちかというとダメ人間wだったとか、そんなら自分にだってできるかもしんないぞ?
という、まさに情弱な素人状態で、じゃあやってみようかとなったわけです。
妻にも話しました。特に反対も賛成もされませんでしたが、好きなようにやらせてくれました。何も言わず見守ってくれてます^^;
アドセンスから始め、楽天やアマゾンの物販アフィリ。ヤフオクやイーベイとかのオークションもやりましたし、アマゾンを使ってのせどり、PPC、携帯アフィリ、メルマガを使っての情報商材アフィリ、アダルトアフィリ、あとYoutubeなどなど、なんとかアフィリっていうのはほとんどやってるんじゃないかなぁ。塾にもいくつも参加しました。
FXやバイナリーオプションにも手を出しました。
いや~まさしく「ノウハウコレクター」ですね。
競馬情報詐欺に引っかかったりもしました。バカですよねぇ。まあこの件については機会があればお話します。
しっかりしろオレ!一点集中だ!
MT(ムーバブルタイプ)やWordpressでバンドのホームページを作れるようになりましたが、稼げるのはまた別。
上記のように色々やってきましたがどれも中途半端なんですよね。ある程度稼げたのもありますが、最初ちょこっとやっただけで成果が出る前にやらなくなったり、中にはろくにマニュアルを読んでないものもあります。
メルマガとブログを使った情報商材アフィリの塾は、これは本当に気合を入れて取り組め、それなりに稼げた塾でしたが(月最高15万円)、無料レポートの量産ができず、そのうち体調を崩し撤退。
あれ?稼ぐシステムを構築できるんじゃなかったっけ。
全然楽にならない・・・
まあまだそこまで至ってないってことですよね。要領が悪いのか、やり方がまずかったのか。。
あまりサポートを使わず、何でも自分でやろうとしてる…ところもあります。
すぐにでも成果が欲しいのでちょっとやってダメそう、時間かかりそうとわかってくるとまた別の情報を探し始めたり・・・
一つのことを3ヶ月でも集中して正しい方法で続けてれば、稼げるはずですよね。その辛抱ができればずっと苦労することはないのに。
一つのことを集中して正しく継続する辛抱と覚悟が、今の私には必要なのかもしれません。
「現状打破」が合言葉
という感じなので、経済状態は非常にヤバい状態です。商材やツールなどに無駄にお金を使いクレジットカードはどれも限度額一杯。キャッシングにも手を出し毎月の返済もそれなりにあって毎月汲々としています。。
これはもう、すぐにでもお金になる仕事しないとマズイぞということで、ヤフオクで不用品を売って小金を作ったりしましたがそれもなくなり、警備のバイトをすることにし、とりあえずはしのぐことにしました。
まあ学生の時ちょっと経験があったのもあるのですが、最初は交通誘導の警備。そこを経て今度は施設警備(ビルなどの建物警備)を始め今に至ってます。
今行ってる(勤務してる)のは都内の美術館です。主に展示室内での看視ですが、別の美術館では車や人の誘導といったモロ警備員らしい仕事もしてました。
まあ美大出身なのでバイトしてるのが美術館というのは、かろうじてプライドを保ってる状態かなと思っていて、ずっと続けるつもりはありません。
といいつつもう7年以上経っちゃいましたが。
なんとか抜け出そうとしてますが、毎月20万ばかりの給料は入ってくるので、なんとなくズルズルと続けちゃってます。
それでもこのままでは借金は返せないし、お世話になった人らに何のお返しもできない。
それにこのままじゃ今後生きていけないとも思ってるので、警備は辞めて、ウェブに稼げる仕組みを構築し、もうこの世界には戻らないようにしたいです。
ちなみにこの見出し『「現状打破」が合言葉』とは、今行ってる警備会社のモットーの一つです。
ん~あんま笑えない。。
明るい兆しが見えてきた
以上が、生まれてから現在までの私の半生です。長くなってすみません。ここまでお付き合いいただきありがとうございます。
で、2020年、今年に入って新たに始めたものが良さそうで、手応えを感じています。
そしてこのところの新型コロナウィルス禍でいよいよ家に引きこもっての仕事にならざるを得なくなり、もう一つ確実に稼いで行ける方法も見つけました。
また追ってこのNote上で紹介して行きますね。
これからは今やってることを中心に、私がいいなと思ったこと、役に立った情報、あるいは趣味のこと、好きなモノなどについて発信していきます。
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