つい

「ついやってしまう」体験のつくりかた

もともと気になって買った本なのですが、入荷待ちしている間に「ACLチームで同じ本を読む」というお題のもと、その課題図書として感想を書く企画になりました。

本の序盤から中盤にかけてはファミリーコンピュータ時代のスーパーマリオのゲームデザインを題材に、「いかに『右に進ませて』遊び始めさせるか」という内容から始まり、後半は「より高度化していった近代ゲームがなぜユーザの心を掴むか」、といった施策について、ゲーム構成を分解して解説していきます。

序盤はスーパーマリオという世界一売れたゲームが題材ですので、度々ゲームデザインに関する書物で取り上げられる内容も多く、どこかで読み聞きしたことのある内容も多く感じました。
しかし、この本自体が『つい』読んでしまう施策に富んだ作りで、読書を体験にまで昇華させた読み心地に対して最大限配慮された素晴らしい本だと思います。
(ただ、ファミコンを最初に触り徐々に3Dに慣れ親しんできた世代と、初めて触ったゲームですでに当たり前に3DCGでプレイする世代では受け取り方が変わる部分も多いかも)


自分事に置き換えて考えてみます。
私はデジタルサイネージの制作業務に携わることが度々あり、その度に考えることも「初見ユーザにストレスなく使ってもらうにはどうすれば良いのか」です。

スマートフォンが登場して10年以上が経過し、ユーザに「こう操作すれば動いてくれそう」と思わせる『共通認識』が成熟しました。共通認識があることで操作レベルを一歩先へ進めることができるのです。
この点スマートフォンは、AppleとGoogleがそれぞれアプリのデザインガイドラインを制作しており、ガイドラインに沿った設計をすれば自然とユーザにとって使いやすいアプリになるように考えられています。

しかし、デジタルサイネージは多くの方が初見です。操作一つに対しても気を使わなければなりません。

たとえば、スワイプ操作。
iPhoneはiPhone Xからホームボタンが廃止になり、画面の下端にあるバーを上に引っ張り上げる(スワイプする)とホーム画面に戻る。という仕様に変わりました。これはユーザに対して以下の共通認識を求めます。

□ ホーム画面という隠された存在
□ スワイプの操作方法の記憶
□ 画面下端からスワイプする認識

これらの共通認識は、スキューモーフィックデザイン時代のiPhone (iOS 6以下)からスマートフォン普及と共に育まれたもので、この時代のiPhoneは現実にある製品を模倣した画面デザイン(ボタンやボリュームノブ・ツマミなど)を現実のそれらしくデザインしました。そこでユーザはタップ・スワイプ・ピンチといった操作を自然と覚えていきました。Appleのデザイン戦略から言わせると、これはユーザを『教育』してきた結果です。
Androidが先行してフラットデザインを採用し、予感させるデザインから共通認識を求めるデザインへ変化してきました。

しかし、これをデジタルサイネージへ置き換えるためには「ホーム画面という隠れた存在」は初見ユーザに理解させるにはハードルが高いかもしれませんし、スワイプ操作もサイネージのほうが画面が大きな分、途中で手が離れてしまうなどといった誤操作が増え難しいかもしれません。
操作体験は画面のサイズ感や操作姿勢、初見か常用かなどの条件によっても求めるデザインが変わり、同じタッチパネルでも安易にスマートフォンの世界を持ち込むのはユーザに理解されない危険をはらんでいます。
なのでその都度、この操作をこの場所に含むことが適切かを考え、多少の不便や見た目の悪さを強いても、目立つようにボタンを設置するなどのわかりやすい画面デザインについて一考します。


マリオとスマートフォンに共通するのは、技術によって新しい操作体系が生まれたということと、それをユーザに理解して使ってもらう必要があったということ。マリオはファミコンの処理能力が上がったことでスクロールができるようになり、スマートフォンはタッチパネルが搭載され、画面タッチが新たな操作となりました。

Nintendo 64 が登場し、マリオは3Dの世界でも『視点』というそれまでのゲームでは無意識下の存在だった『カメラの概念』をカメラマンキャラクターの存在として紹介することで自然と認識するよう作られていました。
スーパーマリオのゲームフィールド内にある鏡にはちゃんとジュゲムも写っていて、カメラの存在に改めて気付かされる演出も記憶に残っています。逆に幼心には「なぜコイツは最初しか出ないのに自己紹介するのだろう?」という疑問を持つくらい隠れた存在でしたが、今思うと重要ですね。

私はあまりゲームをしない方なのですが、感覚的に気持ち良さそうなゲームは率先してプレイするようにしています。『Rez』や『Dance Dance Revolution』(ゲームパッド操作ですが)などの音楽要素の強いゲームは特に好きでした。スマートフォンのフリック操作を覚えるのに『ミクフリック』に一時期にハマったり、本書にも登場した『風ノ旅ビト』もまた違う尺度で好きです。FFも今になって思えばグラフィックや映像が見たくて、音楽が聴きたくてプレイしていた面も大きかったのかなと思います。

操作に直結する画面デザインから、一度ゲームを離れ生活に戻ったユーザを再びゲームに呼び戻すための施策まで、ゲームには様々なタイムスケールの中で「ついやってしまう」を生み出す工夫が散りばめられているのですね。

「ついやってしまう」と言われるコンテンツを作るため、取り入れたい工夫が詰まった一冊でした。


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