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若き日の思い出 黒部日電歩道    

宇奈月駅から当時の関電軌道では命の保証はしないとの乗車規約で欅平駅へと向かい欅平から350mの蜆坂を登り日電歩道を行程四時間の約5キロメートルを七時間用して歩き阿曽原温泉まで歩いた記録です
タイトルでは日電歩道という名称を使用していますがこの時代は水平歩道ではなく日電歩道と名付けられていましたので登山した際の名称として記載しています
愛用していた日本山岳会が発行した山日記には記録がにじみ確認できなかったがネガは保存していたため掲載した記事です
阿曽原温泉小屋から池ノ平を経て剱沢を詰めて剣沢小屋が目的地であった
先日来の豪雨の影響から剱岳山系の支谷の欅谷、蜆谷 志合谷 オリオ谷の阿曽原谷は地形に沿って黒部川に流れ込むため長い距離を歩かされる
懸崖では半端ではない激流が流れ落下しザックに落下してくるためその重みに耐えて狭い登山路を必死に耐えて慎重に一歩一歩足を運んだ

登山路は崩落の柵などなく懸崖を幅70センチメートル程度でありすれ違いはできない狭さで堀削した登山路の壁のみに手を添えて安心して歩ける場所であり命の綱だったが 自らの体力と長年のハードな登山経験から得た知恵と技能がたい力が的確な判断を下してしていたこともあるが・・・
この登山路は毎年転落事故が耐えることなく発生している この行程はスケートルートもなく上級者向けのコースであることを実感しつつ若き頃の七月二十五日に友と二人歩き続けた

 欅平駅

この記事を掲載した画像はこのOLYMPUS-PENで撮影していたがフイルムは水損により不鮮明であったがコントラストのある残ったネガをとり込みデタル化により現像して調整しています
このカメラも手入れして丁寧に保存したたことで残り記念のためにと掲載しました
  

支谷の内面を隔て眺め歩き続けた日電歩道

水平歩道の歴史 東洋アルミニュウムが水力発電所のダムを建設するため1920年(大正9年)その調査を目的として欅平から仙人谷まで13キロメートルの歩道を建設した土木技術者が力をあわせて人力でこのような高所で工事された歩道を目前にして歩きながら無数の手掘りの鑿の跡を見てその苦労を偲んでいました。

迂回して通過する前に撮影した渓谷に堀削された水平歩道
小雨降る水平歩道遠景 

岸壁に掘削られた水平歩道登山路の直下250メートルに黒部川の水面が確認できた 豪雪地帯であこの登山路は季節により一年間に二ヶ月のみが通行可能とのことです

眼下に黒部川の水面が確認できるが歩き慣れてくるとゆっくり景観が楽しむ事ができて ゆっくり撮影を楽しんだ 当時の日電歩道も途中には雪崩や鉄砲水を避けるための短いトンネルが数か所あり橋梁もありそれなりに整備されていたことを記憶している                 登山ガイドブックから図書館の書籍から転落事故や無謀登山者が多く対策に翻弄されているとのことであることから備えをしっかりさせていた そして常に転落の危険にさらされる注意喚起もあり緊張の連続ではあった。さらに降雨にも悩まされ入山したがこの日のように鉄砲水に悩まされ歩いているとき大変救いになった。
 最近掲載されている登山報告記事を見ると40年近く前に比較するとあまりにも恵まれた状況であることは確かめることができるが この行程はやはり登山経験と技量と知識の深く備わった熟練者向きの行程であることを確認できた。
奥穂高 北穂高 前穂高 西穂高と槍穂高縦走とルートを変えて 剱岳から立山 そして薬師岳 黒部五郎岳 槍ヶ岳そして北穂高 奥穂高 と縦走するなどハードな登山経験が約だったようだ

支谷の内側にある水平歩道は歩き安く心が癒やされた場所だった
支持
支谷の水平道路吊橋 直下は水流が音を立てて流れていた
瀧と見間違う懸崖の水流

水平歩道を抜けると切り立つ懸崖の高所から滝のように激しく流れ込み黒部川は直下250mは越えるようで水面はまったく確認できなかったが いかにして通過したのか記憶は定かではないが足を踏み締めしっかり三点支持で身体を保持して水流の重量に堪えて歩んだことを思いだした  山日記に記録していた行程記録も25000分の1の地形図も滝くぐりと降雨のため判読不明となりいずれの場所か不明となってしまっているため確認できなかったが濡損したページから判読できた

この年7月20日であっても雪渓が残っていた

 阿曽原谷にさしかかったが 見上げると直上から激流が音を立て凍結した雪渓に途切れなく流れ込み激流を眺めその光景を見ているとこれではと立ちすくんでしまいしばらく突っ立っていた しばらく観察しつ相談して水量がすくなる瞬間もあるようだ しっかり岩に靴を密着させて体を安定させて重さに堪えてすり足でゆっくり渡り切ろうと判断し予想どおり大型のキスリングザックに落下してくる激しい水流の重量に一時は黒部川に落下させられ命が尽きるのかと思いつつその思いに堪えて渡りきることができた

ずぶ濡れとなり凄まじす姿で到着した阿曽原温泉小屋では雨も上がり穏やかな天候となった 宿泊した小屋の主はこの荒天に登山者が宿泊するとは・・・と驚きの表情で迎えられた。

昭和49年に建設された阿曽原温泉小屋 冬季は豪雪のため解体されて保存されている 二度目の登山の際に撮影したと記憶している 入浴したお温泉は小屋の下部に位置している

宿泊手続き後、談話で鉄砲水も多く狭い80センチメートル前後の登山路では転落事故が多いと聞いていましたので一歩一歩慎重に足をはこび倍近くの七時間要しました。と語る とても安心されたようで それでは小屋の温泉にお入り下さい。と進められ夕食前に入湯し身体を癒やして温泉です。阿曽原谷の高熱の温水温泉に一時間近く浸かり夜行列車の疲れと難路の緊張感がほぐれのんびりできた至福のひとときでした。

上部軌道のトンネル入口
  この湯溜まりは温泉でここにはいるのかと思ったが聞いてみると 阿曽原谷の高熱熱の岩盤工事が難航した貨物運搬のトロッコ軌道の隧道工事中温水をて導水管を繋げて貯めていた場所で阿曽原小屋の温泉はこの温水していると説明をうけた

翌朝 前線の影響か降雨が激しく停滞かと思案させられた 予定は仙人谷としていたが山小屋の主人と相談し今回は諦め撤退することにして日電歩道を歩き欅平へ向かいます。と語ると、無謀なことはおやめ下さいと 突然関電の上部軌道に乗車して下山するようにと進められた 上部軌道は高熱隧道があることは知ってはいたが部外者が利用できるとは信じられずお聞していた しばらくして荷物を積み込むのでトンネル内にと案内された 

狭い隧道であり小型のトロッコ電車のような列車が停車し乗車するようにすすめられた。 5キロの日電歩道をわずか10分程度で到着し蜆坂は垂直200メートルのエレベータで欅平へ到着した。工事用の軌道であり山小屋のご主人の暖かい心使いに感謝して下山した。

帰途富山駅に到着夜行列車の待ち合わせがあり まず銭湯に行き湯に浸かり、その後 夕食の鱈鍋を食べて再び富山駅の待合室に戻り日記を書き続け 読書でも過ごすかとザックの中から 当時 鋭い人間観察と細やかな心理描写で展開させ瑞々しく高度な表現のため シェイクスピアをはじめとする英国小説を愛読していたため携帯していた 文庫本の英国小説 オースティン・ジェーンの 高慢と偏見を取り出した700ページの文庫本が水を吸い込み倍近くに膨れ上がってとてもでもない重量となっていたのには驚かされた
 この思い出を書いていると オースティン・ジェーンの 高慢と偏見を再読したくなった

この山行には後日談があります。この二ヶ月後の9月23日にあきもせず欅平から再び日電歩道を歩き阿曽原温泉小屋まで歩いた。当日は晴天で秋の爽やかな空を眺めつつ日電歩道を歩き続けた。
 登山の目的は阿曽原温泉小屋から紅葉の仙人池を楽しみ剣沢を登り剣沢小屋で宿泊し剣岳を往復する計画であった。 
 宿泊を申し込んだ際 小屋の主人は驚かれてどこかでお会いした方ですね。と答えられ 豪雨の続いた二ヶ月前の今日ずぶ濡れになりお世話になりました。上部軌道にも乗せて頂きありがとうございました。
と語ると。

おいで頂きありがとうございます。と挨拶された。古き良き時代の登山者の安全に心を配られて山小屋を経営していらっしゃる人が存在した時代だった
 日電歩道は当時に比較すれば丸太の仮橋や橋梁、手すり等で歩道は補強さされてはいるが危険度の高い登山路であることに変わりはない。
 翌朝は、小雨だったが仙人池に到着した頃 雨天となっしまった しばらくヒュッテで休み剣沢をつめたが劔岳も長次郎雪渓も見えずしずしずと歩き続け剱沢小屋に到着した

難度の高い山行を企画しチャレンジし遭難事故も発生させず ゆとりを持って登山を心から楽しんだ若かりし日の思い出でですが登山の思い出は懐かしくもあり幸せな時代だったことを振り返りつつ執筆しています


愛用した日本山岳会の山日記ザックにいれて山の情報を確かめそして記録し登山を楽しみました 書庫に保存していたことを思い出し探し発見することができました今となれば貴重な手帳です  

退色した古いモノクロのネガも多く保存していますのでデジタル化して掲載すべく考えています












                        

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