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【政治家になったわけ】

おはようございます!!

今日は友達限定公開。

今年も始まりましたので、これまでの政治家になるまでの歩みを思い出しつつ、つらつらと書いてみました。

抜けているところや言葉足らずなところはあるかもしれませんが、素直に思っていることを書きました。

批判もあるかもしれませんが、興味がある方は気楽に読んでいただけたら。

また、私の主観で書いてあるので事実は違うかもしれないことはご容赦ください。いつも政治の世界は反対から見ると違う事実が転がっていたりします。

私はどこにでもいる目立たない生徒でした。

それなりに勉強をし、それなりに運動部に入り、人並みの努力をして、すべてがそれなりの人生でした。

大学卒業後、パチンコ店で店員をして生活していた私にある時転機が訪れます。

大学の先輩が国会議員の秘書にならないかと誘ってくれました。なぜ突然??まあ単純に人が足りなかったのでしょうが。。

政治に興味がないかと言われ、真っ先に「ありません」と答えました。新しい世界という意味では興味がありましたが。

しかし、一度政治の世界を見てみないかと誘われ、スーツを取りに新潟まで帰ってスーツに着替え、行った東京はまさに民主党の党大会?のようなものが行われていて、パーティーが開催されていました。

23歳の若者にはその光景は本当にきらびやかに見えました。ずっと新潟で暮らしてきましたから。

テレビでしか見たことがない政治家と一緒に写真が撮れ、まるで自分が日本の中枢に入ってきたみたいでした。

パーティーに参加ただけのつもりでしたが、その後なぜか面接があり、スーツを着てきたことが評価され?参議院議員の森ゆうこ事務所に入所することになります。(私を誘ってくださったのが森先生の娘さんだったので)

パチンコ屋さんをやめるときもいろいろありましたが、それはいつかまた。

しかし、入ってみた政治の世界は東京のきらびやかさとは雲泥の差でした。

当時、参議院議員の森ゆうこ先生は師匠である渡辺秀央先生と対立関係になりつつあり、秀央会(渡辺先生の後援会)の後ろ盾で1回目を当選していた森ゆうこ先生にとってまさに正念場を迎えていました。

支援者のところにあいさつに行くたびに、居留守を使われました。せっかく見つけた支援者のお宅でミニ集会をしようとしても当日キャンセルになったこともありました。地域の集会場での集会も当日、集会所の許可が下りずにキャンセルになったこともありました。

まさに四面楚歌の状況の中で、一人ひとりと仲間を増やしていく作業でした。

多くの人とぶつかり、それでもめげずにやり切るしかありませんでした。

生まれて初めて人とぶつかってでも手に入れなければならないものがあるという経験をしました。

結果として、壮絶な選挙戦を勝ち抜き、私の秘書人生も続いていくことになります。

そんな中、消費税の問題で民主党内の離党騒ぎ等があり、「国民の生活が第一」という政党が誕生。森ゆうこ議員が衆議院選挙を前に党首に(なったと記憶しています。)

その後「未来の党」が選挙が始まってから誕生。

新潟1区から候補者を立てないわけにはいかないと、いろいろと頑張って募集をしたのですが、なかなかうまくいかず。最後は自分で責任を取る意味も込めて出馬するのですが。。

実際はこの時もまだ、自分が政治家になる決意は全く固まっていなかったのが本音です。というより秘書として、という思いが強かったように思います。

①実際に選挙に出るとき、「脱原発」とか「卒原発」という言葉をパンフレットに載せないでくれと言う私の考えは受け入れられず、党の方針に従うことに。単純な政策というより前向きか後ろ向きかという人生のスタンスにかかわる問題だと感じました。

私は原発はやめていくべきスタンスはずっと変わっていませんが、「原発をやめよう!!」と訴える意味ってあるのかなと。

なにかに反対する力はなにかに賛同する力には勝てないとずっと考えてきたので。 

別に太陽光をこのように何パーセントにして風力を何パーセントにしてここに配置して、日本の電力事情をこういう風にしましょう。と訴えればいいのでは?と思ってしまうので。(ただここの情報量は与野党で違いがあると考えますので、対案を作れ!という外からの圧力も完全に正しいとは思っていませんが)

この時から、だんだん自分の船を作ってみたくなっていきます。

②もう一つ。選挙に出てみると、自分に支援者の方がついてくれました。秘書の時はいくら頑張ってもそれが自分の支援者にはなりえません。それが自分の支援者となって応援してくれる。その期待にこたえなければならないという思いがどんどん膨らんでいきました。

①②より、自分の船で頑張りたいと思うようになります。

独立したいと森先生に行った時に言われた言葉。

井戸を掘った人を大事にしなさい。とまずおっしゃられました。確かにそうですよね。私がいるのはこれまで書いてきたような経緯なので。そこが私にとって一番大切にしなければならない、根底です。

でも、です。そのあとに続けてこういわれました。

でもそれを振り切ってでも(たとえ大事な恩人を裏切ったとしても)政治家は自分が正しいと思ったこと、日本のために、市民県民のためになると信じたことに全力を尽くしなさいと。

その言葉のおかげで今の私があります。

なにかに反対する政治スタンスはとらないつもりです。

反対よりも賛成を。反対よりも対案を。常に(案)を考え続けられる政治を。考えつづける人を応援できる政治を。がんばる人が報われる社会であるべきと思います。

もう一つ。人はいつでも変われることを言い続けたい。私はどこにでもいる平凡な子供でした。それでも何かのきっかけでひとは変われる。いつでもチャレンジできる社会を作りたいと思います。

そして私もチャレンジを続けてたいと思います。

新潟はみなとまちです。

政治家の人生は日本や新潟の歴史から見たら、ほんの一瞬の輝きでしかありません。

だからこそ、人ではなく歴史に立脚した政治を。

新潟はみなとまちとしての歴史を持ち、水との戦いを経て、その恩恵を受け、栄えてきました。

誰が政治を動かしてもその軸を変えるべきではないと思いますし、みなとまちとしてのPRもだんだん増えてきたなと思います。

私もいつまでこの世界にいれるかわかりませんが、新潟が変わらず成長していくために、私は変わり続けていきたいなと思います。

今年も一年、よろしくお願い致します。

本日はここまで。

それでは本日もよろしくお願い致します!!

#友達限定

#たまには思いを

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