はじめに　

こちらは、脚本家・今井雅子先生が書かれた「北浜東1丁目　看板の読めないBAR」のアレンジ作品です。2023年1月8日に行われた下間都代子さん主催の「朗読初め」イベントのために書き下ろされ、17人の読み手によって17通りのBARが開店しました。そして今井先生のご好意により、アレンジおよびclubhouseでの朗読が可能ということなので、甘えることにしました。

*本作は史実に基づいたフィクションです。

本編　

今井雅子作「北浜東1丁目　看板の読めないBAR」
やまねたけし作「たかみさかり」バージョン

名前を呼ばれた気がして振り返ると、そこに人の姿はなかった。だが、道端に置かれた小さな看板が目に留まった。チョークで手書きされた頭の文字のいくつかが消えている。

残されているのは、ひらがなの「か」と「り」とアルファベットのB-A-R。

消えた文字を想像してみる。なぜか「たかみさかり」が思い浮かんだ。

「たかみさかりBAR」

口にしてみて、笑みがこぼれた。そんなBARがあったら、どんなお酒を飲ませるのだろう。やはり日本盛だろうか。いや、て・っ・ぽ・う・の棒バーがおいているだけかもしれない。誘われるように地下へ続く階段を降りて行く。重みのあるドアを開けると、カウンターの向こうにマスターの顔が見えた。どこかで会ったことのあるような顔立ちに柔らかな表情を浮かべている。

「お待ちしていました」

鎧を脱がせる声だ。私はコートをマスターに預け、革張りのスツールに腰を下ろす。

「ようこそ。たかみさかりBARへ」
「ここって、たかみさかりBARなんですか⁉︎」

ついさっき看板の消えた文字を補って、私が思いついた名前。それがこの店の名前だった。そんな偶然があるのだろうか。

「ご注文ありがとうございます。はじめてよろしいでしょうか」

おや、と思った。マスターはどうやら他の客と私を勘違いしているらしい。

人違いですよと正そうとして、思いとどまった。その客は、ある程度、私と属性が共通しているのではないだろうか。年齢、性別、醸し出す雰囲気……。だとしたら、注文の好みも似通っているかもしれない。

「はじめてください」
「かしこまりました」

マスターがシェイカーを振る音を確かに聞いた。だが、カウンターに出されたグラスは空っぽだった。

「これは、なんですか」
「ご注文の『たかみさかり』です」
「力士サイズのグラスで『たかみさかり』というわけですか」
「どうぞ。味わってみてください」

自信作ですという表情を浮かべ、マスターが告げた。

なるほど。そういうことか。

私はマスターの遊びにつき合うことにした。芝居の心得なら、ある。空白は想像を膨らませる余白だ。空っぽのグラスに目をこらし、そこにある「たかみさかり」を想像する。さもあるがごとく。さもあるがごとく。

グラスを手に取り、口に近づけたそのとき、「あ……」と声が漏れた。

鼻先を香りが通り抜けたのだ。

びん付け油。

その香りに連れられて、あの日の記憶が蘇った。

高見盛は、立ち会い前に気合を入れる姿から「ロボコップ」と親しまれている力士だ。一度だけ生で見る機会があった。

——2003年7月13日、愛知県体育館。

大相撲名古屋場所八日目。その結びの一番。

東前頭三枚目・高見盛に東の横綱・朝青龍。

高見盛は昨日までで4勝3敗。朝青龍との戦績は5戦して全敗。だが三日目に西の横綱・武蔵丸から金星を取っており、また番狂わせがあるのではという期待が高まっていた。

一方で、途中休場した武蔵丸に替わって横綱の意地を見せたい朝青龍の気合いも十分だった。

永谷園に代表される懸賞旗の行列は永遠に続くようだった。

時間いっぱいになり会場が拍手に包まれる中、いつものようにそれは始まった。

握り拳を作った両腕を体の前で2回振り下ろす。脇をぎゅっと締め、同時に顔も引き締まる。豪快に撒いた塩に観客も湧いた。熱気で雲ができるのではないかとすら思われた。

以下は録画を見た私なりの観察である。

朝青龍が仕切り線に構えたのに対して、高見盛は下がって距離を取った。立ち会い後すぐ両者ともにがっぷり組もうとする。先に高見盛が左上手を取った。朝青龍は不十分な体勢のまま土俵中央で投げを打つが、高見盛は右足で踏ん張った。そのまま右の差し手を上げて攻めていく。朝青龍は一度右に引いて左上手を取ろうとするが、高見盛に差し返されてしまう。相手の上体が起きたところを一気に前に出ると、朝青龍の右足が土俵を割った。

その間、8秒弱。

体育館は、座布団投げ選手権会場へと化した。

花道を下がる彼の息は上がっていた。

直後と思われるテレビのインタビューにこう答えている。

『思い切り行かなきゃって。最初からそのつもりでした』

その後は勝ったり負けたりを繰り返しながらも9勝6敗と勝ち越し、殊勲賞に名を連ねた。

お世辞にも強いとは言えなかったが、いつでも真剣な姿に何度も勇気をもらった。

香りと記憶がよぎったのは、流れ星が通り過ぎるような一瞬のことだった。手にしたグラスからはもう、なんの香りもしなかった。空っぽになったグラスを置くと、「いかがでしたか」とマスターが聞いた。

「『たかみさかり』でした。今の私に必要な。マスター、どういう魔法を使ったんですか」
「ここは『たかみさかりBAR』ですから。あなたが、この店の名前をつけたんですよ」

マスターがにこやかに告げた。私の「これまで」も「これから」もお見通しのような目をして。

頭の文字のいくつかが読めない看板を見たとき、思い浮かんだのは「たかみさかり」だった。あの日の「たかみさかり」があったから、今の私がある。そのことを思い出すきっかけを心のどこかで求めていたのかもしれない。

「たかみさかり」の日の私と今の私はつながっている。そう思えたら、風船の端っこを持ってもらっているような安心感がある。

階段を昇り、地上に出ると、文字が消えて読めなかった看板は、看板ごと消えていた。歩き出した足取りが軽くなっている。鼻の奥に、びん付け油の香りがかすかに残っていた。

ああ、〆のお茶漬けを食べ忘れた。

おわりに

お読みいただきありがとうございました。はじめにも書いた通り、この物語は「高見盛関が朝青龍関に金星をあげた／その場所の殊勲賞を受賞した」という事実以外はすべてフィクションです。作者自身は大相撲を見に行ったことがありませんし、高見盛関も生では見たことありません。

この話は先に「たかみさかり」を考えて、それ以外は後で考えたんですが、探せば取り組み動画があるものですね。

作者なりに実況にするとこんな感じです。

高見盛は下がって距離を取った立ち会い。先に左上手を取ったのは高見盛。朝青龍は投げを打つが、高見盛踏ん張った。そのまま右の差し手を起こして攻めていく。高見盛、一気に前に出る。寄り切り！　高見盛、今場所2つ目の金星！　朝青龍は3敗目。……

この取り組みは「平成大相撲名勝負ベスト20」にランクインしました。

最後に、本編と全く関係ないんですが、画像を使わせていただいたいぜむさん、17Liveでよく行く枠にいる人でした。ライバーもされているようですね。