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10年経っても色あせないもの

いつもの当たり前を

鍋でお米を焚くようになった。娘がごはんを食べるようになった。「おいしいじゃん!」と。手間はかけた分、美味しさアップだね。

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きっかけは「やんじーとアグネス」の話。

山口 幸雄さん(やんじー)&
山口 由里さん(アグネス)

災害救援ネットワーク北海道代表。災害ボランティア40年。毎朝、あやの森からLive配信。東日本大震災から10年「あの時と今、これからは?」というテーマで話されていました。

まだいなかった娘。あの日のこと、どう伝えようか。それで電気を使わず過ごした3.11。いつもの「当たり前」をすこし「見直す」時間。この日から娘が「おにぎり」好きになったのはうれしい。

『地球交響曲』龍村仁監督トークライブ

Liveでお二人の話を聞きながら。ふと思い立ってDVDを探す。「どこだどこだ」「あった!あった!」監督のトークライブの映像。

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『地球交響曲』シリーズ・龍村仁監督トークライブ
@国分寺市立いずみホール

見たら色んな思いがこみ上げました。これ自体が映画のようで。いのちのこと、対立するような価値観の中で、人類・科学、進歩の方向性、出会い、より良い未来、共に生きる、新しい道、お金のこと、心とビジョン... 10年経っても色あせないもの がありました。監督が話されていること、まとめてみます。

はじまり

ロケでの過酷な温度差。例えば、アラスカやナミビア、マイナス40度の所からプラス50度の所へ行くようなときに体の内側で起こる循環システム

アフガニスタンの砂漠で、文明国から来た人がやっちゃうあるある。暑いから水かぶってぶっ倒れちゃう。皮膚呼吸の話。

地球(ガイア)が長い歳月をかけて作った生命体。その中にある「循環の中の通り道」として環境変化に対して順応できる能力。それが自然治癒力

暑い所で厚い毛布みたいな洋服着てる。熱い紅茶飲む。一見常識から外れるけど、現地の人が暮らしの中で得てきた英知。

旅の本質。異国で異質な対象者として視線を受ける。そういう中で自分がビビッドになっていく。そこに本当の旅がある。

編集作業。若いときと今の違い。なんで若い時は太って、今は痩せたのかって話。

全作に通じる「ガイアシンフォニー」という映画の作られ方。シナリオを最初に書かない。制約の中で揃った素材から構造を考える。

監督がインタビュアーとなり僕に質問。” なぜこの時期に全作上映したの?" 素直にいきさつを話す。それを受け「ガイアシンフォニー」という映画の本質的な話に展開。

数々の著名な出演者。どんな偉人、すごい人も、全部普通の人だからね。我々と全く同じ人間

すごい人のことば。それはみんなが知ってること。ここにいる全員がすでに知っている。生きているということの中で知っている。でも忘れちゃってる。

すごい人の言葉に説得力があるのは、それを言うときの言い方。個人の経験が誰もが知っていることに開かれ到達していく、その普遍的なことを分かち合いたいという思いが通じ合うとき、いい表情でしゃべる。

「ガイアシンフォニー」という作品は楽しい楽しくないというような一方通行のメディアじゃない。皆さんの中にあるものが映画との対話の中でつながって、表に出てくる。映画を見るということを通して自分自身もこの映画を作っていく。双方向の創造行為。見てる皆さんがクリエイターという風になっていくことを願って作っている映画。

人間が生きている限り、自分は自分でずっと続きながらも、毎日毎日、一瞬一瞬、全部違っているというのも、人類という種の基本的な本質。同じ作品を見て違った印象をもったり、新たなことが見えたり。そこには、その方と映画の間でクリエーションがあったということ。だから映画は作るものではなく、なっていくもの

作品は形としては作って終わり。だけど映画そのものは皆さんとの関係の中で見られてそこで生じてそこで消えていく。だから、消えていい。忘れていい。だけど、それがずっと持続して続いていくというような。そうできているかどうかは別にして、そう願って作っている。

「震災の前と震災の後で何かが変わりましたか」
映画制作としては全く何も変わってない。実は同じことで全部やってるだけの話なわけで。人類は命のつながりの中で生かされている。このことを知ってるんだけど、すっかり忘れていくというのが人間。生かされているという感覚が蘇ってほしいという願いをもって、作り続けているのは変わらない。

生かされているというようなことを理屈で知ったってしょうがねえんだわ。これは本当に。この回路は、全身体性の英知というか、知性というか。あの五感を研ぎ澄まして、その先で開いていく第六感的直観力と言うんでしょうか。そういうものが、しょっちゅう崩れますから。それが蘇るというような。その体感みたいなことの蘇りを願うという思いで作っている。

いくらあがいても避けられないもの、寿命。健康に生きようが、ある年齢までくれば必ずは迎えるという意味において、死というものは避けられるものじゃない。大きな宇宙的英知のおかげで、そういうのができたんだということは科学的には理解できる。だから、話として死っていうのについても、あがいてってもしょうがない。むしろ潔く明け渡していくというような感じで生き続けていくっていうことが重要というのは、ずっと同じ、一番から七番までのいろんなことの中にあった。

変えられないことを変えようとしてあがくということは、なんか違うというと同時に、変えられることがあるのに変えようとしないという、これは勇気の問題。この2つを見分ける賢さ

原子力とい宇宙創生のエネルギー。その成り立ちの話。

なぜっていう疑問を常に持つということ。なんで私たちはこの世に生きてるの。なぜこれはこういう風になってるの。原子って何なんだって。そういうことを知りたくなる。そして科学的にわかってくる。

宇宙環境、生命体、放射能、大気圏、科学、物理学者、ノーベル賞、原子力発電の問題との関係性。

尊敬する科学者フリーマンダイソン。彼の定義「科学で一番大切なことは1つの事象が科学的に分かった時、その背後に科学的に分かってないことが何万倍ってあることが分ってくることが、科学の本当の姿。素晴らしさ。」

科学的に分かってきた時からが問題。進歩の方向性をちゃんと見極められるような、人間として進化していく必要がある。その時、霊性ということがすごい重要になる。

宇宙根源のエネルギーである原子力を、たった身近な電気エネルギーを作るために「大丈夫だから、制御できるから」ってやってる人間のこの本質的なパラドックスが問題。

津波の悲劇、悲しみ。やっぱり僕が一番辛いのは、人類という種の一番の辛さというのは、なんていうかな。本当の意味で愛しているものの死を自分の身体で代わってあげられないということ。

今日という一瞬が重要なのであって、明日どうなるか分からないということが本当は自然界の摂理なんだけど、それでも明日は今日と同じ明日があってほしいと願うのもまた人類の大きな特徴。

あんまりあの、下手なことは言えないけど、たまたま生を持続できた私たちは何をするべきか。ということを考えた時、何をするべきかなんてっていうことをね、こう人に偉そうに言えるものじゃないんだよ。だけど、絶対自分のそばにある。自分の生き方の中にある。

俺たちの次、今7歳の娘。未来の人類のため、未来のすべての命のために今自分が、自分の、小さい自分の近いテリトリーの中で、そのためにできること。より良い未来に進化していくために今何ができるか。

克服できるというか、むしろしていかなきゃいけないこと。私たち日本人が僕はエリートとかそういう意味ではなくて、何か重要な役目を担っているような気がする。

日本的精神性。この霊性の原風景。

要するに相反する二律対立する、矛盾するようないろんなことを、相手は敵だから敵を排除して、善の方向を選び取るというそういう価値観とはちょっと違って、できれば相対立するものがどうやって共に生きる、新しいなんかを見つけられるか。その方向性に向かって自分たちができることをやる。

日本人の持っている無意識のメンタリティー

日本人の、日本列島の地球上の位置と構造。

先住の民としておいでになった方達。その方たちの自然に対するそのお祈りの仕方とか自然の扱い方ということで言えば、全く日本の神道の原理にあるようなのと同じ。

縄文海進。豊葦原の国。農耕の民と狩猟採集の民が一緒になって生きる。矛盾しているように見える、対立するような価値観を共に生きるような、生きざるを得なかった。

危機に直面した時に、今までの自分ということじゃない自分にシフトとしていくような「自己治癒力」「自発的治癒力」その力を地球(ガイア)は与えている。しかも、その中に知性も含まれているということ。

お祈りは必要。祈りというのは、やむを得ず出てくるもんだから。

知性を持って客観的に世界を理解するという能力、それと祈るしかないということ。それらを自分に与えられた力の1つとしてちゃんと持つということ。

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会場からの質問

現代社会で霊性を磨くヒントがあれば教えてください。

まずは自分の中にあるということをちゃんとあの確信、自信を持つこと。ハウトゥーは求めなくていいと思います。

一概には言えないけど神社。アイルランド人のジャーナリストがいみじくも言ったことば「日本人にとって神社とはあの野性的な直感力を復活して、それであの霊性、霊的な元気を回復する場所だ。」

俺なんかは自転車に乗っている時だよ。毎日40年間、都内のブンブン車通っている所を自転車で通っていて、その時が一番、自分が生かされている感覚を受けとる。

感覚が敏感になってきた時、信号待ちでパッと止まった瞬間、えってこう下見たら、こんなコンクリートのさ、隙間から、あの小さな、野の花がパッとこう出てきててさ、この辺でずっと風に揺れてる。

自分が気持ちいいなと思うことやればいい。ただし、気持ちいいというのは単なる快楽ではないんですよ。多少のなんていうの、ストレス。多少のストレスを受けないと、本当の意味の気持ちいいっていうのにはならないね。今急にまた思い出した、七番のグレッグ・レモンが言ってた。「適度なストレスは人を健康にし、過度なストレスは人を病気にする。」

映画の音楽をどう選んでいるのか。

音楽は映画作りの先生なんです。クラシックも含めてですけどね。音楽は選ぶのではないんですわ。出会うんです。それも偶然。たくさんの音楽知ってて、それで選んでるわけじゃねえんだよ。本当にね、選ぶという感覚ではなくて出会うっていう感覚なんですよ。

たまたま出会った音楽があって、その音楽かなと思ってパンと合わせてみたら、もう見事にシンクロするんだよね。最初からこう付けてそれに合わせて編集したみたいに。あのシンクロするっていうのは、ビッタンコ合うという意味じゃないんだよ。シンクロっていうのはズレるっていうことですから。

「世界は音なり=ナーダブラフナー」っていう、インドの言葉がありますけどね。ああいうことも多分そういう感覚の中でね、この世界の物質的な部分を構造化している、後ろに見えない糸としてこうつないでいる何かというのはね、「The 音楽的」としか言いようがないものなんじゃないのかな、という気がします。最終的には不協和音的なものも含んで新たなるハーモニーを生み出していく。

次回作について。

お金がなければこの映画できないのよ。本当に。最初にそれ言っちゃったらね、みんなしらけると思って。これは簡単なことで、物質的なエネルギーなんです。人間だってさ、いろんなこと言ってても物質的な意味のエネルギーってなかったら生きてられないわけですから。食べるとか。貯めるとか。
ただそれは自分が貯めるんではなくて、通ってくれて初めてエネルギーになるのであって、貯めるということが間違いなの。多分。自分だけ太って。必要な分だけ通ってくれればいいわけでしょ。通りよくするっていう、それがもう生きるってことの、あれだと思うしね。

よく省エネとかなんとか言ってますけどね。最初に自分が省エネ人間になるってのすごい重要なことですよ、そう心掛ける。最小限のネルギーで最大のあの能力が発揮できるような身体性というものについてちょっと意識を持つと、多分それはものすごく敏感な、自然とのつながりをちゃんと無意識のうちに作ってくれると思いますから。

カオスの縁っていって、それから本当の意味の混沌で、もう終わっちゃうのか。あるいはその混沌から新たなる進化を遂げて次が生まれるのか。これがまだ分からないから、可能な限り俺はその1つ1つの出会っていく現象とかに、自分で勝手な固定観念で整理しないで全部で受け入れられるだけ受け入れながら、その次のステップが生まれてくれることを願いつつ、というのが今の状態で。具体的にはなんていうかな。そのいわゆる『八番』と言われるような、あの目途が全然立っていません。

やっぱり人の心です。ビジョンというのはそういうものでしょ。ビジョンってのは心です。何を思うか。何を願うか。で、このことがリアルになりますということは、そんな簡単に言い切れることじゃないのを承知の上で、そのビジョンがなければ何事もない。

どんなに嵐の中で、どんなに前が見えない、目的地が分からなくても、目的地が見えるという、そのことへの必ず見えてくるであろうということへの自分自身とかもっと大きな大いなるものの信頼とかそういうことは僕は見失わないように、毎日子どものご飯作ったり、学校の先生に「すいません。宿題忘れてできませんでした」みたいなことを言ったりとかをやっております。それが今日の、今の日常であります。

またどっかでやってたら見てくださいね。それでまた誰かを誘ってください。1人でも2人でもたくさんの人が見てくれるようにと願っております。どうぞよろしく。今日は本当にありがとう。

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このあと『第八番』が、そして今『第九番』が完成しました。7月11日まで限定ロードショー中です(@東京都写真美術館)

一生懸命まとめましたが、もう全然。伝えきれません。事務所から了承を得て動画をアップ。映像粗いですが、音声だからこそ、またその雰囲気から「受け取れるもの」があると思います。

以下有料です。頂いたお金は経費に充てつつ、上映会?なにをするか、なにができるか分かりませんが、流れるエネルギーとして通りよく活かせたらと思います。文字起こし(31667文字)あり。「ふぅ~...」どうぞご覧ください。

『地球交響曲』シリーズ 龍村仁監督TALK LIVE 2011.9.11


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ロケ現場・体内循環システム・自然治癒力・旅の本質・映画の作られ方

山本:それでは監督、お呼びしたいと思います。龍村監督ご入場です。よろしくお願いします。
(一同拍手)
龍村:こんばんは。龍村仁です。今日はありがとう。本当にどうもありがとう。
(一同拍手)
恥ずかしいよね。
(会場・笑)
自分の姿を自分で客観的に見るということはね、あんまりないわけでね。あのもちろん年を取っているという自覚はしてますけどね。やっぱり七番って言うのはね、やっぱりあれなんですよ。始める前とこれ終わった時で10キロ痩せたので。だからまあ別に痩せたから苦労したって言いたいわけじゃないんだけど、年齢のせいだということもありますけどね。だけど、やっぱり一遍に10キロ痩せるというのはかなりね、あれだったからね。終わった時ね。みんなが心配してさ、あんだけ急激に2年ぐらいであるいは編集入ってからですからね。まあ1年ぐらいでそんなに痩せるっていうのはやっぱり「どっかが悪いんじゃねーか」っていうね。なるじゃないですか。で、あの俺自身はね、ある程度分かってたの。というのは、あのもうちょっと若い時だと編集やるとね、太るんですよ。どうしてかというと頭ばかり使うじゃん。

あのロケっていうのは実は体使うんですよね。というか五感全部開放して第六感的なもので撮る。しかも、ワイルドな所へ行くわけですから。それこそ食べ物から何からいろんなもう自分の思い通りにならないこと全部受け入れながらやっているうちに、その地域、アラスカならアラスカ、ナミビアの50度の砂漠なら砂漠という所で、その体のほうがそれに順応していくという形をとるんで。これは本当はあの自然治癒力。誰でもあんだよ。これは。マイナス40度の所から1カ月でプラス50度の所に行って、人間はこういう温暖湿潤な気候にいるから耐えられないかと思ったらとんでもない。

我々日本人でもそういうとこ両方に順応する能力は今でも絶対あるの。ただし、それが発揮できないのはなぜかっていうと「嫌だ嫌だ」と思っているから。ほんとバテる奴ってすぐ分かるの。年のせいじゃないの。自分が生きてきたやり方あるじゃん。特に日本のような文明国だったら、ある程度そのまあ「暑けりゃ冷房、寒けりゃ暖房」ね。「食べ物も食べたい物なんでもあるし」みたいなね。そういう感じで生きているから。その環境を守ろうとすんだよ。

で、その好き嫌いが自分の個人的な、何かだと思っているの。ところが、それは環境の中で自分が生きていく中で慣れてるだけで、自分が作っちゃってる自分のほんの狭い自分なんだよね。それが自分と全然違う環境に行ったら、「嫌だ嫌だ」になる。最初は分かりますよ。その50度の、あの暑い「ガーン」と太陽照らされたままで、日陰も何もないような所でさあ、旅しなきゃいけない時に、「嫌だ嫌だ」何とかしてあの涼しくしたいと思って、多少文明国から行ってるから、あの冷たい物をさ、車の後ろに積んでるから。そればかり飲んでみたりとかさ。あのアフガニスタンの砂漠なんか行くとね、何百キロってまっすぐなわけよ。街はオアシスがあるからいいんだけど、「ごめんね」ちょっとあんたに聞きたいことがあって。あの。

山本:いや、進めてください。

龍村:あんたに残ってもらってんだけど。

山本:全然。全然。

龍村:この話言っちゃうと。こういう感じになるから。ごめんね。どこ行くか、分からないから。
(会場・笑)
まっすぐ行くじゃない。で、逃げようがないわけ。逃げようがないのに、なんとかして逃げようとして、一生懸命そのなんていうかなあ、窓に紙貼ってみたりさ、その、いろんなあがきしてるわけね。これ「嫌だ嫌だ」の、あれなのよ。逃れようがないんだよ。で、「ふっ」と窓の外見りゃさ、あの僕なんかより小さい15、6歳の少年がさ、たった一人でラクダに乗ってさ、悠々と砂漠を行ってるわけですよ。で、彼らの顔見たらさ、我々とほとんど同じ顔してるの。アフガニスタンにいるハザラ族という人たちは、全く我々という遺伝子同じですから。モンゴロイドですから。いろんな人いますけども。その少年が平気で行っててさ、俺たちが嫌で。

ようやくオアシスの中に着くじゃないですか。オアシス着いたら、水があるわけ。水があると、もうあの嬉しがってそれで井戸の水の所飛んでいってさ、上から「ジャーッ」と、あの水、冷たい水かぶってるわけ。現地の人でそんなことやってる人、一人もいないんだから。オアシス着いたからって水かぶったりしてる人全然いないんだよ。なのに、それやっちゃう。途端に倒れちゃって。で、どうして倒れたかというと「空気がない。空気がない。息が苦しい」って。結論だけ言うと、そういう暑さの中で、もちろん限界はあるよ。あるけど、自分の内側の体のシステムを合わせるために内側はそういう必死でそうしようとしてるわけ。生命体は。だから、ある程度まで順応できる能力を普段の自分を考えたらないように思うけど、生命体としての人間はそれを持っているわけですよ。持っているのに、それを「嫌だ嫌だ」って、ある程度の文明的なガードでお金かかるんだよ、みんな。お金かかることでガードして。で、ようやく着いて、それで暑いから冷たいもんかぶる。
なんで「空気がない」っていう風になっちゃったかというと、これは後で医者んとこ連れていって分かったんだけど、「文明国から来た人がよくなる」って言ってましたけど。

人間呼吸してんの、こことここだけでやってると思ってるじゃん。皮膚で呼吸しているのすごいあるのよ。皮膚の、呼吸の機能なんていうのは内側の循環システムと、ものすごく関係しているわけですよ。で、それは必死でなんとかして、この暑さでも耐えられるような循環の仕組みに自分の体をシフトさせようと、本当は自然はしてるのに、それを冷たい物飲んだり、それで最後に入って水かぶってバーッと冷たくしちゃったから。もう内側のシステムが混乱しちゃって、どうしていいか分からなくなって皮膚呼吸をしている毛穴が開きっぱなしになっちゃう。そうすると、呼吸ができないという感覚になって、倒れちゃうというようなことね。だから、何からこの話になった?
(会場・笑)

ふふふ。要するに、あのー、今の言いたいことはですね、あれです。そういう風にその我々の循環の能力というものの中に地球(ガイア)が38億年という歳月をかけて単細胞のバクテリアから少しずついろんな絶滅を繰り返しながらも新たに進化をして、我々のような超複雑な、あの生命体を作ったけれども、この内側のシステムというのは外の環境との「循環の中の通り道」として、必ず環境は変わってくると、それに対してできるだけ可能な限り、あのシステムを変えてそれに順応できる能力というのを備えている。それが自然治癒力ということなんですよね。で、それを自分が作ってしまった自分自身、あるいは与えられた今の環境から自分だと思い込んでいて、そのことから変わることが「嫌だ嫌だ」って思っていると、そういう羽目になっていくと。

で、俺なんかはね、やっぱり好奇心のせいもあるかな。着いて、その現地の人がやってないことはやらない方がいいってのはあるわけよ。逆のことがあって、現地の人がやっていることはやれるかどうかは別にして、なんせあの絶対長い英知の中で、得ていることなんだから。だってさ、暑い所で厚い毛布みたいな洋服着てんだから、みんな。おかしいよね。暑いんだったらもうちょっと涼しくすればいいと思うけどさ。

これ逆なんですよ。50度で36度5分でしょ。36度5分のほうが低いんだよ。低いということは、この低さを保つわけ。そのために、逆に、あの厚い布で50度遮断しているというさ、そういうことがあるし。で、そういう人たちが茶店に行くとだね、もうヒゲ生やしてみんな銃持ってるからね。あの頃まだあれだった。私が入った時はロシアが入ってくる前で、だからしたがって、いわゆる、ロシアが入ってきて、その後共産圏的な国にしようとした所から抵抗運動としてゲリラ戦が始まって、アルカイダなんか発生してきて、で、今の状態があるんですよ。

今日9.11ですけどね。あの歴史ってそういう流れがあるんだけど。まあ簡単に言うと、そういう所の人たちですから。みんな、それこそ本当にヒゲが生えてて銃を持って、それでもう怖い顔して「他所から変な奴が来た。」滅多に茶店、そういう所来ないからね。東洋人みたいな。我々。店舗から「じー」っと、怖い感じなのよ。ところがその連中が何やっているかというと、その茶店でさ、ものすごい熱い紅茶を沸かして、砂糖、コップの半分くらい入れて、「ドーッ」とお湯注いで紅茶を暑いのに熱い紅茶飲んでるわけよ。
だから、これもまた我々の常識から外れるんだけど、でもこれやってんだから、絶対なんかあるなあと思って俺もそういうとこ入って、みんなこう「じーっ」と見てるんですよ、こっちのこと。

だいたい他所(よそ)の国に行ってね、安心しながら見物できるということ自体が旅の本質と違うんだよ。異質なものが入ってきたら、必ずこいつらは変だって「ガーッ」とこう見せられますね。その視線を受けながら、自分がビビッドになっていくというのが本当の旅で。こっちは今まで通りの安全性確保しながらさ、「おー珍しい風景だったとかさ、おー大変な出来事だな」とかって見物していること自体がもう何が違うんですけど。文明のせいでもありますけど。

いずれにしたって、そういう状況下で。俺も、だから、わけ分かんないけど、この人たちが暑い時に熱い紅茶飲んでるじゃないと。これはやっぱりなんかあるんだと思って、一緒に座って、みんな銃構えながら、「じーっ」とヒゲ生やして怖いんだよ、みんな、顔。
飲んだ。飲んだらね。何が体に起こったか。
そんだけ長い間旅をしてきたんで、俺はもう汗かき切っちゃって、中に水分はもう汗かくような水分ないと思ってたの。ところがその時もう一杯熱い甘い紅茶を飲んだら、なんとまた汗が「バーっ」と出てきたわけよ。これは体感ですけど、その汗をかいた瞬間から、なんだか分からないけど全然暑くなくなっちゃったわけ。自分の体の中で多分それが最後の引き金で、そのアフガニスタンの50度の砂漠のあの日、あの気候に対して、俺の体の中のシステムが順応できるというさ。そういう形になったんだと思う。そうすると体感として、あんまり暑くないというのか。暑いよ。ふっ。暑いけど、でも耐えられなくてこれで死んじゃうんじゃないか、熱中症になっちゃうんじゃないかっていうような感じじゃなくなったいうのがあるんですよ。だから、人間の内側のシステムというのはそういう風に外側の条件との間ですごく順応しやすいという。ようやくなぜこの話にいったか思い出した。今。

山本:ふふふ。

龍村:あのー編集中に、なんで若い時太って、今痩せたかって話だね。ふふふ。
(会場・笑)
さっきのこと。それでロケっていうのはそういう状態なんです。あの過酷なとこ。体の循環がすごくよくなって、非常にいろんなもの食べますけど、太んないというあの循環の良さ。ところが編集ってやつは、最もある言い方をすれば、現代的作業なわけ。身体性を完全になくす。すなわち、今日出てきたああいう80時間あったんですよ、七番の素材が。80時間の素材で、しかもシナリオを最初に書かないということは、その場所その場所で、どういう風に構造化できるかということを考えないで、お金の問題とロケの期間の問題等とお天気の問題とかで、たまたま揃った素材が80時間あって、その80時間の中から初めて映画の構造を考え出すという。そういうやり方でこの映画は全部できてるんですよ。だからしたがって、あの編集室は実はもう俺がこもったら、ずっと体動かさないで、あそこにずっといるわけね。そうすると、若い時の体、良かったよ、戻れて。。  

若い時の体というのは頭ばっかり使って、ここにばっかりエネルギー使って体を動かさないとお腹減らすんだよ。お腹減らして血を下に下げようとするの。他の臓器が働くように、なんてか普通だったら食べたくなくなるのが、なんだか分からないけど、物を食ってないとバランスが保てないような状態になって、そこらに置いてあるおかきなんだっていうのをバグバグバクバク食いながら、やめないでこうやるからさ。しかも、0コンマ何秒くらいの差で、すごいあの実は違うんでね。この話行くとまた変なとこ行っちゃうから。
(会場・笑)
だからしたがって、太ってたわけ。動かないで、あの頭からの血を腹の方へ流すために、食いたくもないのに食い続けるという、あの体の循、あれをやることによって太っちゃうっていうのがあったんです。で、今回の七番は10キロ痩せた。これはあの何を意味しているか。

1つはねやっぱりすごいストレスがあったってことですけどね。まあこのストレスの話はいいですけど。要は年齢的なものがあるんだな。もうまったく食べる気がしなくなった。頭だけ使って、全く食べる気がしなくなったので、したがって「はた」と気が付いたら、10キロぐらい痩せていたと。皆さんは年齢になって太りすぎだから断食しましょうとかさ。やってますけど、そんなことしなくたってさ。体は勝手に10キロぐらい痩せさせてくれるの。だけど、それはやっぱりね、前から10キロ痩せてるってことはねかなりなんかヤバいと思うじゃん。周りも心配してくれて。で、終わった時に人間ドックに、もう何年ぶりかで入ったんですよね。俺はねどっか悪いとこ出てほしいって願ってた。
(会場・笑)
そういったら、みんな優しくしてくれるしさ。もうちょっと、もうちょっとその大切にしてくれるんじゃないかと思ってたんだけど、全然悪いところ出てこないんだ。逆にさ、血液のほらあるじゃん。血液の中の成分の検査とかあるじゃん。ああいうのがよくサラサラとかドロドロとか言うじゃん。あのあの辺でいうとサラサラになっていってる。ほいで、いろんなチェックするんだけど、あの俺の体はね実は大変な状態いっぱいあるんですよ。自分が知らないうちに肺結核して、ここに穴が空いてて、で、自分で自然に治して俺も知らんかって、今頃になってここに穴が空いてるから肺がんじゃないかと言って、あのお医者さん心配するんだけど、実は石灰化してて。だから結核を自分で治したというのは、これ後からこの話になると思う。そういうのはあるわけね。その気が付かないで治してる。俺今考えるとすぐ分かる。1週間で治していると思う。そういう状態から。全部ストレスですけど。まあというようなこととかねあって。まあ歯が歯が、もう今日も俺もヤバイなって。しゃべっているうちに歯が上の入れ歯が外れてたら、ほんまあほんまあになっちゃう。
(会場・笑)
あのリンゴの木村さんみたいな顔になっちゃう。
(会場・笑)
それが今の本当の俺の姿。入れ歯が入ってから多少ねあれかもしれんけど、そういうようなこともあったりして、ですけど、何を言いたいかっていうと、この年の、この年の循環の仕方というのがあり、入れ歯になったら、入れ歯っていうのはこれは昔の人だったら、71もうすぐ72とかなっちゃったら、もう長老もいいところで、もうこのお仕事終わりで早くねまた地球の一部分に戻って帰ってきてくださいっていう年齢なのに、なぜか人工的な歯とかそういうものがあって、この体がまだもうちょっと道具として使えるなら、なんか次のことがあるかもしれないしみたいな。でもその必要なことはこの体での新たな循環のバランスを俺自身がちゃんと見つけてその生き方をやらない限り、絶対この体はもう用済みで戻っていく。それはあってもいいとは思ってますけどね。思ってますけど、まあそういうことがあって。というので、ごめんね、こんな話をして、ここまで待たして申し訳ございません。

山本:大丈夫です。

「ガイアシンフォニー」という映画の本質・双方向の創造行為

龍村:それで俺自身は彼に聞きたいわけ。えー、一番から七番までやったんですよね。ねえすごいよね。

山本:いきなり振られたんですけど。びっくりしました。

龍村:なん、こうなっちゃうんだよ。あなた自分は司会で、俺がしゃべれると思ってるでしょ。
(会場・笑)
そうじゃないんだよ。俺はインタビュアーとして、君に聞きたいから。
(会場・笑)
山本:ははは。

龍村:一体この時期に。

山本:はい。

龍村:多分大変だと思うんですよ。あの全体的にはムード的にはねこういう映画を上映会やるとかですね。それが大変だと思うし、実際にも苦労したと思うんですけど、なんでこの時期に一番から七番目で全部やってくれようと。やりたいと思ったんですか。
(会場・笑)

山本:あの震災直後、多分誰もがなんかしなきゃっていう、そのなんかもやっとした焦燥感に駆られた方がほとんどだと思うんですけど。そうすると、すぐ実行に移す人とあのそうじゃない人と、なんかいろいろ考える人と出てくると思うんですが、あの移すメンバー同士でじゃあ形にしようっていうその支援活動の企画が2つできたんですね。
そうすると、具体的に形になっていけばなっていくほど、いわゆるちっちゃいベンチャー企業みたいになっていくんですよ。そのベンチャー企業の利益は全部支援に回そうという。そういう形に育ってきた時に、お金はないけどやれることで関わっている人と、関わっていることで自分の会社のプロモーションになる人といろんな意図の人がいて、で、なんとなくその2つとも頓挫しちゃったんですよね。
で、終わっちゃったもんで、なんかもう憤りみたいなものがもう生まれて、こんなことをしようと思ってね何日も打ち合わせしたわけじゃないんだっていうところで、メールを見たら、龍村仁事務所からチャリティー上映会をすれば、通常このレンタルフィルムがとってもやりやすい形で(上映会できる)提案があったんですよね。
じゃあ1本だけバーンって花火を上げんのはなんかできちゃいそうな気がしたんですけど、続けないと意味がないだろうなっていうところと、連作ということで7個あるっていう。7個が多いか少ないかも分かんなかったですね。その時の判断はもうよくできてなかったです。ただもうやっちゃおうという。で、企画を立てて「手伝ってー!」という形で、とにかく一緒にやってくれる人を募って。

多分自分たちだけでその会をやって集客できて支援金が集まったらいいかっていうと、そういうことをしたかったわけじゃなくて。誰でも関わりたい人が関われる。大きな器を作ってたって表現をずっと上映会でしてきたんですけど。誰でも入れる箱で、まあお金がある人は映画見て支援金払えばいいし、お金本当にないけど何かやりたいという人はちょっとあの受付やってくれたり、誘導やってくれたり告知をしてくれたりポスティングしてくれたり。もういろんなことで関われるんですね。上映会一つとっても。映画の上映会をしたかったわけじゃなくて箱を作りたかったんですよね。続けていけるような。
で、1回その箱の中で出会ったら、みんなでもちょっとやろうとか。また規模が違う形でできるんじゃないかとか。そのやっていく持続性みたいなもの自分だけ以上なものが生まれそうな気がしたなと。

あと、マンションの隣に住んでる人の顔を全然知らなかったりするような時代というか。あの本当に知らない人だらけの街に住んでいるわけで。あのイメージ上、昔はもうちょっと人の顔のやりとりというか、あったような気がするんですよね。それが希薄化しているような気もしてたので、たまたま私国分寺なんで。
国分寺で、もうちょっといろんな人が集まって、あの映画いつも来てるあの人だね「よう!」みたいなのがもっともっと乱発してきたら、なんかない方がいいんですけど、何かあった時にやりとりしやすいような気がするというか。そういう場作りみたいなのがしたかったんですよね。というちょっと長かったですけど。

龍村:いやいや全然。あの2つまだ質問があるんだ。ふふふ。えっとね、1 つは俺にちょっと分からないことを1つ言いたいんだけど、最初の営みの時にベンチャー企業みたいになってしまってって言ったけど、そのベンチャー企業にみたいっていうのはどういう意味?

山本:例えばあの利益を出さなきゃいけないっていう、ちっちゃい事業みたいな形になるわけで。その利益分を支援物資に替えて送る。もしくはお金そのものを送る。とにかくお金を生み出そうということになったことと、その活動自体が必要な活動。
例えば、物資が必要だったらあのちょっと断捨離ブームだったりもしてたので、家で使ってない、まあ家具とかタンスとかイスとか小物とかなんでもいいんですけど、それを買い替えるタイミングの人とか引っ越しのタイミングの人からも皆からかき集めようっていう。
で、かき集めたら倉庫が必要だと。倉庫のレンタル料を誰が払うかとか。じゃあそれを集まって仕分けして必要な人に送る。その必要な人は誰なのか。その時の送料は何なのかってその具体的なビジネス管理をしていくってことですよね。それがちっちゃなビシネスていうか、ベンチャー化してきた。要はリサイクルショップみたいな形だったので、それがベンチャーという単語を使った意味合いですね。

龍村:それでどういう理由で分裂した?

山本:関わっている人の、あの形にしていくとお金が必要になってくるので、お金が必要になってくるとその人があの横柄になっていきまして、そうすると。

龍村:金出してやるということで横柄になってくるっていう。そういう意味ですか?

山本:金出してやってるってことは発言権が発言力が大きくなるということで。発言力が大きくなるってことは、本当にこうできることを空いた時間でちょっとマンパワーを出しますって言う人がそんな命令口調で言われたくもないわけで。やっぱりみんなで一緒にやっていくというような場としてはちょっと意味が変わってきたというか。

龍村:ふーん。ふーん。それともう1つはその地球交響曲(ガイアシンフォニー)を上映してと思ってくれたってことは地球交響曲(ガイアシンフォニー)を前に見たことがあったということですか?

山本:もちろんです。

龍村:で、その辺をちょっと聞かしてもらいたいんですけど、うーん、なぜ地球交響曲(ガイアシンフォニー)だったんですか? 他の映画でもよかったと思うんですけど。

山本:えー、地球交響曲(ガイアシンフォニー)。。私大学生の時に、星野道夫さんが好きだったんですけども。

龍村:うん?

山本:星野道夫さん。

龍村:はい。はい。はい。

山本:大学時代に。ちょうど96年ですね。あの時に亡くなられて、それでその時に映画の存在を知って。

龍村:うん。

山本:で。

龍村:渋谷で見た?

山本:はい? はい。

龍村:渋谷で見てくれた? ロードショーの時に。

山本:やー見てないです。

龍村:それじゃないのね。

山本:全然。ははは。

龍村:はいはい。それで?

山本:ふふふ。で、まあその後リアルタイムというよりかはあのやっぱり五番六番七番あたりはホント最近だなっていう感じがするんですけど、三番四番、一、二、三、四は結構すごい昔の映画、ドキュメンタリー映画っていう認識だったんですね。

龍村:うん。

山本:で、大きなきっかけはまあ確実に自分自身の病気がありまして。28の時に悪性腫瘍がありますよという話の過程で1年とか1年半とか療養とか闘病生活をしている時に、非常に見たかった作品が地球交響曲(ガイアシンフォニー)だったんですね。地球交響曲(ガイアシンフォニー)の、ね、あのーよさっていうかねー、あのー押し付けがましくないんですよ。

龍村:うん。

山本:あの自分が考え方が偏ってたり、なんかこうやり、やろうと思ってた方向に向かってなかったりブレてたりすることがもうしょっちゅうあるわけで私なんかは。まあ未熟なんで。そうすると、あの作品見てると、ふーっとそのリバランスされるというか。

龍村:うん。

山本:あの思い出すんですね。もともとこうあるべきだったんだとか。こうしたかったんだっていうのを、こう再確認したり。

龍村:うん。

山本:逆にあの取り戻したりするような機会が、あの作品見てる間っていうのはすごくそういう機会が多くて。

龍村:うん。

山本:あーもちろん。体はね、抗がん剤打って痛いわ。そうするとさっきの皮膚呼吸じゃないですけど、あれなんですね。あの痛み止めをシールで貼って、すうって痛みがなくなった経験で。

龍村:うん。

山本:皮膚呼吸されているなっていう実体験でしたなというのをさっきお話伺いながら思ったんですけど。

龍村:うん。

山本:まあとにかく痛み、体の痛みと心の痛みが常にあるとブレブレなんですよね。考え方が。もういいやー!みたいになってしまう。そういう時も調子いい時に全部見るとしんどかったんで、何番の何章だけとか。ちょっとずつやってたりBGMの代わりに何かこうBGMを聞いていたりとか。その感覚というか。

龍村:ようやくこの話が聞けた。よかったなーと思うけどね。ははは。

山本:ははは。

龍村:あのやっぱりね、あの僕自身はまあ一応、前のそのあの腹立ったぐらいの経験。あの要するにベンチャー企業のどうのこうので。その後地球(ガイア)をやってくれるということ、やってくれた時に、その今あなたはその映画はどうでもいいという。
どうでもいいとは言わなかったけど映画で何かできると思ってくれた。その1番原点のもモチベーションの中に地球交響曲(ガイアシンフォニー)という、そういう自分の辛い時に見て何らか分からないけど自分自身の中にあるものとの関係で、という思いがあってそれが一つのモティベーションになって、アクセスされた時にチャリティー上映というのがあってっていうところからなったと思うんですけど。やはりあの根源のモチベーションがね。やっぱり映画を見て、その三番のなんか感動というようなことがあったということは、実はその個人的なことのように見えるけど、あの地球交響曲(ガイアシンフォニー)っていう映画の本質的なところなんですよ。

僕自身は、彼もちょっとさっきも楽屋で言ったけど、この映画がいろんな人がいろいろ言ってますし、一見みたらね、ダライラマ法王が出ているとか。まあ特別な人がいっぱい出てるみたいで、この人たちは私とは全然違う人という風に見えるかもしれないけど、一見見たらね。映画って。だけど、はっきり言って全部普通の人だからね。我々と全く同じ人間ですから。みんな。

で、この人たちがこういう風なあのことがしゃべれるというね。だからもっと言うと楽観的なことを彼らがまあなんとなく楽観的な感じがあるじゃないですか。その。彼らはなんかあの、のほほんと楽観的なのかとってそうじゃなくて、付き合ってきて一番分かることはみんなやっぱりそれなり自分のあの確かにわがままな人多いですよ。ゴーイングマイウェイの人多いです。最初。ゴーウィングマイウェイでガチャガチャ、いろんな苦労はしてるんだけど。そこの乗り越えていく時に、実はあることに気が付いてという人が多くて。で、この人たちが全部言ってることが、特別の人が特別の人として言えたんだということじゃないってことは確信をもって言える

何を言いたかっていうとみんな知ってることです。ここにいる全員が彼らが言ってることをすでに知っている。生きているということの中で知っている。むしろ人間として生まれたということの中で知っていること。で、だけど、そのことをそういう風に意識してなかったり、あるいは自分なりのあの意識化をまあ特別してなかったりというようなところで、あるところが彼らが何かニコニコ笑いながらこれ表情もすごく重要なんだよ。

あの皆さんこの言ってることがすごいと思ったら、おばあちゃん言っていることなんかもう長い、あの人類の歴史の中でほとんどの人がみんないろんな人が言ってることと同じことだから。なのに、それが説得力があるのは彼らがそれを言う時の言い方なの。言い方っていうのはすごい。なんかこのことを分かってくれてるんだね。分かってくれてるなら、もっと分かち合いたいね。自分のこういう経験がこういう風にあるよって、自分特殊の経験の中から誰でもが知っていることのところに到達していくっていう。その回路が開いてくるあの喜び、すなわち自分の個別の非常に個人的な体験を。俺だってそうだけど、ああいう風に自分が出ちゃうと。自分の個人的なこと言ってるのは恥ずかしいって。そういう人達も多いんだけど。でもその中の普遍的なことを分かち合いたいという思いがすごく強くなってきた時に、分かち合っているということが感じられるという時に、彼らはどんどん表情がよくなってきて、それでいい表情でしゃべるから皆さんが「ああ、地球交響曲(ガイアシンフォニー)の出演者ってみんないい顔してますね」って言うけど、ダライラマ法王だって不機嫌な時は不機嫌な顔しますから。
(会場・笑)
あんだけニコニコ。どんな状況でもニコニコ笑う人でも、そういうことはある。人間だったら当たり前。で、僕が何を言いたいかというと、そのことを映画と皆さんとの間で、これは一方通行のメディアじゃないんですよ。地球交響曲(ガイアシンフォニー)っていうのは。

私が特殊なことに気が付いて、そのことを皆さんが知らないから教えましょうとか、知らせましょうとか。あるいは私のことを分かってくださいっていう、そういうなんか個人的なことよりも何かこの辺はすでに皆さんが知っておられることで、皆さんの中で意識化されなかったり感動として蘇ってなかったようなことが映画を見るということにおいて、対話する感じの中皆さん方の中からクリエイトされていくこと。あの表に出てくること。

だからしたがって、地球交響曲(ガイアシンフォニー)っていう映画というのは実はあの普通の、楽しいとか楽しくないとかというような意味というよりも、見てる皆さんが映画を見るということを通して自分自身もこの映画を作っていく。クリエイトしていく。クリエイターという風になっていくようなことを願って作っている映画なんです。したがって、もし感動があるとすれば、それは皆さんの中にあるものが映画との対話の中でつながって、こう、クリエーションとしてあの双方向の関係ね。双方向の創造行為。クリエーション。これが命の営み。あらゆる命の営みは一方通行ではありません。
表面的には、あの食べ物の栄養を食べ物が与えてくれて、私たちがいただいてっていうことだけど、またそこから私たちが食べ物に返していくようなこととか。ものすごい長いつながりの中で循環しているわけだから。双方向なのね。

で、たまたま、あなたがさっき言ったことですね。押し付けがましくないって言ったよね。で、それは、そのとてもあの嬉しい表現なんですよ。だから、それは言いたいことはあります。何を言いたいんですかって、もう全部聞かれるから。そしたら、こうこうこういうことを言いたいんですとかさ。言いますけど。その時ぐらいさ、なんかこれ、こういう風に言った時にさ、何かが違って言ったってしょうがねえよって、こんなことは。そんなことより、そのことをすべての人たち人間である限り、知ってること。みんなが知っていることが、みんなの中でその映画との対話の中で生まれてほしいと願って作っている映画ですから。

だからしたがって、双方向のクリエーションが映画によって生まれたかどうかっていうことの方が重要であって、私が何が言いたい、言いたいかなんて言われたって、そんなたいした男じゃないんだし、ということもあって、そういう感じがあるんですよね。だから、そこがあの、ね、押し付けがまし(くな)いという風に言ってくれたようなこともあると思うし、もう20年、この一、二、三、四、五、六、七って作ってきて、もう皆さんが異口同音にいうことは1回目見た時と2回目見た時で全然印象が違うとかね。また新たなことが見えたとかさ。いろんなこと。当たり前の話だよ。

人間が生きている限り、ご本人が絶対自分が自分としてずっと続いているというのも人間だけど。同時に1回1回、毎日毎日、一瞬一瞬、全部違っているというのも、人類という種の基本的な本質ですから。違ったものと映画は変わらないんだよ。極端なことを言うとね、「監督映画作り変えましたか?」「途中でこんなシーンまた新たに挟みましたか?」っていう。そんなことできるわけないじゃない。ということは、その2回目に見た時にその方と映画との間で、その何か起こるクリエイションがそこにあったということなんです。だから映画は作るものではなく、なっていくものだ。自然とね。あの作って、終わり。あの形は作って終わりですよ。だけど映画そのものは皆さんとの関係の中で見られてそこで生じてそこで消えていく。だから、消えていい。忘れていい。だけど、それがずっと持続して続いていくというようなね。それがまあ地球交響曲(ガイアシンフォニー)っていう映画のあれなんで、僕自身はそう、そうできているかどうかは別にして、そう願ってね作っているということなんですけどね。ということをしゃべらしてくれてありがとう。ふふふ。
(会場・笑)
(一同拍手)
じゃあ、ちょっとしばらく俺がしゃべりますね。だから。
(会場・笑)
ふふふ。もちろんそこにいてくれてもいいですけど。
(会場・笑)
で、途中であの、挟みたければ。。うん。

山本:あの監督の喉が今暑い砂漠になってるんじゃないのかなと思いますが。

龍村:大丈夫大丈夫。

山本:あの潤していただいて。

「震災の前と震災の後で何かが変わりましたか」

龍村:喉より歯だよ。
(会場・笑)
歯が外れんじゃねーかと思ってさ、もう。で、あのね、彼からの質問は「震災の前と震災の後で何かが変わりましたか」っていう質問が、彼の質問として最初に与えられていましたので。えーどう答えていいのかなと思うけど、なんというかな。全く変わっていませんって言い方と、すごい変わりましたという言い方と両方があるということだと思います。

全く何も変わってないということはある言い方をするなら、七番まで7本を作ってるからね。それぞれに次は何をテーマにしてとかって思うかもしれないけど、これ、実は同じことで全部やってるだけの話なわけで。本当に。そういう意味ではあの大きく言えば、我々の時代、人類という種が根源的に持っている、これはだから誰かが悪い奴がいてそうなったっかってそういうことじゃなくて、根源的に持っている、1つの矛盾として、えーなんて言っていいのかな。その自分がその自分の力をはるかに超えている、大きな、あのシステムというか、命のつながりの中で生かしていただいている。生かされているということを、えー当然生きている限りは知ってるんだけど、すっかり忘れるというのが人間であるというね。えーそういうことが1つ。

そのことと、生かされているということを忘れていくということが人類の1つの根源的な、問題点としてありますから。常にそれを呼び、思い出すようなそういう営みってどういう時代でも人間はやっていかなきゃいけないっていうそういう思いがあって。で、あの20世紀の末から21世紀にかけてはどっちかと言えば、大いなる命に生かされている感覚というのかな。これが蘇ってほしいという願いをもって、ずっと作り続けているということですので。

この願いというのは、この生かされているというようなことを理屈で知ったってしょうがねえんだわ。これは本当に、この回路は、全身体性の英知というか、知性というか。あの五感を研ぎ澄まして、そしてその先で開いていく第六感的直観力と言うんでしょうか。そういうものが、これが全部、このしょっちゅう崩れますから。それが蘇るというような。そういう意味でこれをスピリチュアリティと呼んでもいいと。あの要するに大いなる自分をはるかに超えた地球とかあの宇宙とかの大いなる力のつながりの中で自分は生かさせていただいているという。その体感みたいなことの蘇りを願うという思いで作っているというのはずっと変わらなくて。

それはあの今回のような大きなね、震災の中でものすごく、その悲劇的な苦しみや悲しみ、それもあのいろんな形でまだまだ続きますから。こういうことを通過しないとそういうことってあの思い出さないのかと思うぐらい、あのなんか悲しいことでもあるけども、いずれにしても、そういう意味ではこういうことがあり得ることは、こういうことっていうのは大震の。昨日の新聞でも出てたよね。あのお亡くなりになった方の90%以上はあのその時の地震の津波だそうですね。あの津波によってお亡くなりになった。それで原発の問題が片っぽですごくあります。これからどうなっていくかとか、いろんな問題があるにしても、これも意見を求められてるから、一応俺の意見あとで言いますが、いずれにしても90%以上の人が、しかもさっきの、この映画の中でほら、いくらあがいても避けられないものがあるという言い方はまあ一応寿命ということで話しましたよね。

要するにえっとどういうのかな。プログラミングされた死って言い方をね科学者はします。すなわち、いくら健康に生きようが、ある年齢までくれば必ずあの死は迎えるという意味においては、死というものは避けられるものじゃないし、それが実はとても大きな宇宙的英知のおかげで、そういうのができたんだということは科学的には理解できることなんですよね。だからしたがって、話として死っていうのについても、死ということについて、こうあがいてってもしょうがないという、むしろ潔く明け渡していくというような感じで生き続けていくっていうことがまあ重要なことがあるというのは、まあ、ずっと同じ、一番から七番までのいろんなことの中にあったわけですけど、もう1つはあれなんですよね。七番の解説で俺がしゃべってたけど、あの予告編か。予告編で何か言ってたけど、あれですよね。変えられないことを変えようとして、こうあがくということは、なんか違うというと同時に、変えられることがあるのに変えようとしないというね。これは勇気の問題だから。で、この2つを見分ける賢さって言い方ですけど、やはり変えられないことを変えられると思ってあがいてパニックになるというのと、変えられるのに変えないで何か今のままでいたいといって、あとでとんでもない目にあっちゃう。あの変えられるのに変えないで、っていうのはさっきの、暑いとこで自分を守ろうとして、「嫌だ嫌だ」と思ってるうちに逆にあのひどい目に合っちゃうということと同じで、その2つを見分ける、賢さ。

この3つですけど、やはりねあの人間のもう一方の側面として、なぜっていう疑問を常に持つという事ですよ。なんで私たちはこの世に生きてるのとかですね。なぜこれはこういう風になってるのって、そういうことを知ろうとするということを人間の営みとしてはやりますよね。だから原子力の問題が、実はすごい大きな問題のように、一言で言っちまえば原子力というのは実は宇宙創生のエネルギーですよね。ビッグバンの時に、なぜかこっから先が分からないんだけど、時間も空間も何もない虚空から突然ビッグバンで、こうばーっと大爆発があって物質が生まれてっていう。それは原子みたいなもので、その原子が生まれて、いろんな原子がまた集まっては超新星の爆発を繰り返していくうちに、たくさんのいわゆる物質の一番小さい単位のいろんな原子ができてきて、で、おおよそ50億年以上、50憶年くらい前かな。太陽ができて、太陽系ができて。その周りに惑星ができて、地球が45億年くらい前にできて、そんで38億年くらい前にその地球に奇跡的な確率で最初の生命体ができてという、そういうのはまあ科学的に説明されてますけど。

いったいその原子って何なんだっていうことをやっぱりだんだん知りたくなるわけですよね。人間ってのは。そういう力がなんなんだっていう。で、そのことを知ろうとするから、いろいろ科学的に研究したり、いろいろ理論を考えたりしているうちに、だいたい原子力っていうのは一体どういうものかというのが分かってきた。

これは例えばの話、太陽のエネルギーっていってみれば、原子力ですからね。あれは核爆発ではないですけど核融合ですけど、あの太陽が放射してくれたおかげで、我々は植物から始まって生命全部ありますけど、あれ、いわば放射能っていえば放射能なわけ。原子力そのものなわけですから。そういうものが地球に届いていて、それがダイレクトに届いている間だったら、多分生命体は生まれなかったんだけど、そこから最初にバクテリアのような、あの小さな、いわゆる酸素が嫌いなあの生命体ができて。それで次に、酸素が好きな生命体ができてという形で。だんだん地球上に大気というものが出てきて、その大気が一種のバリアになって、要するに大気圏の外側は放射能でいっぱいですから。

あの宇宙飛行士はあれですよ。1日に我々が地球上で浴びる放射能の200倍を毎日浴びている。あの宇宙飛行士は。宇宙行くっていうのはそういうことなんで。ロシアの、僕もほら、地球(ガイア)でいろんな宇宙飛行士と直接会っていろんな話を聞いてますから、分かりますけどね。ロシアの宇宙飛行士なんかね。あのビールってあれ、あれなんかそういう放射能を防ぐためのねあれが全然ないから。太陽風、あの太陽があのいわゆる、あの爆発黒点が増えてきてバーと勢いよく放射、原子力が放出されるような時に太陽風の中でものすごい量でくるんですよね。そうすると避けようがないんで、実はみんな一番機械がたくさん重なっているところの影に隠れてさ、ずっとその太陽風が通り過ぎるまではじっとしているとかですね、まあそういうことがあるし。あのロシアん中で300日以上ってかすごい長い間いた宇宙飛行士なんかはですね、宇宙なんて人類が行ける所じゃないってもう明確に言いますよね。

宇宙環境というのは生物、生命体に敵対するものである。当然なんですよ。なんで生命体があの地球に生まれたかっていうと、その先ほど申し上げた、酸素を作るあれが出てきて、いわゆる大気圏という一種の膜みたいなものを作って、そこが宇宙空間にある放射能の中のかなりの部分を遮断してくれるような形ができてきたおかげで、逆に言うと、ダイレクトに生命体の遺伝子を壊したりするような放射線がある程度、妨げられるようになって地球がこうやって人類が誕生するまで来ているということがあるわけなんですけど。それをどうなってるのか、なぜなのか、知りたいということで、物理学者がいろいろ研究したり知ったりしてノーベル賞いっぱいもらってるわけじゃん。湯川さんも朝永さんもみんなあれ量子だとか原子だとかどうなっているか。中間、中性子がどうなっているかということを研究した結果として、ノーベル賞をもらってるんですから。

今の原子力発電の問題と、そういうことが無関係ということではないわけ。だんだん人間が知りたいと思い分かろうとして分かっていくと、そういうことが分かってくるじゃん。これがどうなってるか、分かってくる。分かってきた時からが問題なわけよ。フリーマン・ダイソンってね、三番に出てくる、彼は僕が一人の尊敬する科学者の一人ですが。彼はものすごくね、正しい科学の定義をしてるの。科学で一番大切なことは1つの事象が科学的に分かった時、その背後に科学的に分かってないことが何万倍ってあるだということが分ってくることが、科学の本当の姿。

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すなわち科学的に分かることによって分からなくなるという非常にあの矛盾してるけども、そのことが本当の科学の素晴らしさであり、人類がなぜ科学的にものを考えるようになったかということの、1つのあれかもしれないと。

ところが中途半端な科学者たちは皆、分かったことによって、全部分かったような気になってそう言い募って、お前たち分かってないだろう、これはこういうことなんだよって言い出した途端にこいつらは、どうもモチベーションがあれで、本当の科学者ではないと。

本当の科学者は分かったことによって分からないことがこんなにあるんだという風に思った時、人間としてはすごい謙虚になりながら、もう一方で分からないことをやはり分かり続けたいと思うというさ、そういうの動機が出てきて、またそれを拾おうとしていくって、そのことがある。こういうことを、もしよく割り切って言う人いるじゃん。その原子力のことに気が付いたこと自体が人類滅亡の、その引き金って。それはその通りだと言えなくはないよ。だけどそしたら人類という存在が地球に生まれたこと自体がもうこれは悪だという話になるわけで。科学の進歩というのを否定しながら、もとの自然に戻ればいいということは、人類はいらんということになる。むしろ逆になる。そんなはずがないと思うかどうか。それはまあそれぞれでいいですけど。

そんなはずがないとすれば、科学的にものを理解するということを本当の意味で正しい方向にテクノロジーに今度は置き換えていきますから。正しい方向に向かっていくべき時にどういうテクノロジーを、ちゃんと作っていけばいいのかっていうことをちゃんとやれるような、だから進歩の方向性をちゃんと見極められるような、その人間として進化していくという必要がある。
その時に僕は先ほどから何度も言ってる、霊性ということがすごい重要になるわけ。自分たちが自分たちの能力で何かをコントロールして生きてるんじゃなくて、そういう自分をはるかに超えた大きなシステムの中で自分が生かしていただいているんだという、この体感をちゃんと持って、例えば原子力発電はどうなのって。見たら、なんという浅はかな、愚かな、っていうか進歩してない。もう幼稚なテクノロジーで宇宙根源の力、我々生命全体を創り生かし、生かしめてくれている根源のエネルギーである原子力を、たった身近な電気エネルギーということを作るために、「大丈夫だから、制御できるから」つってやってるという人間のこの本質的なパラドックスが問題なの。

だから、はっきり言って僕は地球上において原子力を自由に扱うというようなことは、ほとんど人類にはまだ、できる時があるのかどうかもう分からないぐらい。あのとても無理だと思います、これは。だからしたがって、原子力発電というのはそういう意味の理解、すなわち今自分たちがこの原子力がなんたるかって分かったら、こんなものを地球上の中に持ち込んで、それをコントロールして多少の利便団楽を得るというようなことがいかにさ、あの浅はかなことであるかということに気が付くような精神性というか、ね、霊性みたいなものが、目先の利便団楽のためにどっかへいってね、そういうことでやっているという。こういうことが出てくるということですから。

これからの世代が色んな意味で、その俺たちの次、僕がやっぱり今7歳の娘がいるの。71のくせして。63に生まれた子どもだからさ。もう完全にじいちゃんですけどね。もう今大変ですけど。昨日、一昨日もみんな俺が飯作ってさ、食わしたり、学校のやりとりだなんだって全部やんなきゃいけないから。うーん。まあまあ。そんなこと言ってもしょうがない。
(会場・笑)
でも、五番で生まれたのは私の娘なんですね。で、まあお母さんのほうがどんどん今さっきの話じゃないけど、もうあの震災起こった途端にもう、家ほったらかしてさ、あのボランティアで行っちゃいましたんで。ふふふ。それはいいことなんだけど、子どもは毎日学校行かなきゃいけないね。ふふ。学校から宿題や、なんだ通知がくればね、それを処理してあげなきゃ行けない。明日、あの給食のためのなんだっけ、あの、うーん、布というかあの洗濯してこい。それからあのプールは何月何日だからどうのっていう、まあそんなことばっかりやってんだから。私はどうしたらいいのと。お母さん全然いないしな。行っちゃったら、なしのつぶてだし。そういう意味ではあの大変ないろんなことを、ちゃんと試練を与えられていますけどね。ふふふ。はい。なんだ。原子力の問題か。
(会場・笑)
それで、この津波の悲劇、悲しみやっぱり僕が一番辛いのは、人類という種の一番本当の辛さというのは、なんていうかな。愛す、本当の意味で愛しているものの死を自分の身体で代わってあげられないということです。あの分かりますよね。あの、ね、できれば、この死は私が、私はもういいんだから、私が引き受けてその代わりあなたが生きてくださいっていう風に、やろうと思ってもできないということが根源的な人類の悲しみの1つですよ。

そこから逆に言うと、祈りとか霊性とか、願いというのが生まれてくるわけで。そのことを見据えないで、そのなんっていうかな。綺麗事言ったってしょうがないわけで。人類がそこに根源的な悲しみを持つ。で、動物たちが多分それ、もちろんあるんですよ。ゾウさんなんかすごいですよ。それ。ゾウなんてすごい。クジラもそうですけど。すごいんですけど、それでも潔く受け入れていくっていうのがあって。

人間だけがこの自我の形、すなわち自分が自分の努力によって生きているということも本当だから。それから自分が科学技術の進歩によって利便団楽を得て生きること自体が、明日も今日と同じ明日がちゃんと、もたされるってことを願うのは、人類という種だけのもんだと思います。僕は。今日という一瞬があの重要なのであって、明日どうなるか分からないということが本当は自然界の摂理なんだけど、それでも明日はもう今日と同じ明日があってほしいと願うのもまた人類の大きな特徴ですから。

そのことも否定できない中で今さっき申し上げたように一番の大きな悲しみは、愛する者の死を自分の死として、逆に受け入れて代わってあげるってことができないというこのことがすごい大きな問題で、今、私は、本当に津波の中でね、いろんな、もちろん肉親を亡くしたり、友人を失くしたり、もっと言うと自分の子どもたちを亡くしたりして生き延びてるお母さんたちやお父さんたちの気持ちとかさそういうことを考えると、あんまりあの、下手なことは言えないけど、そのことが、一番大きな悲しみであるということから、じゃあ、たまたま生を持続できた私たちは何をするべきか。ということを考えた時、これは何をするべきかなんてっていうことをね、こう人に偉そうに言えるものじゃないんだよ。だけど、絶対自分のそばにあるの。自分の生き方の中にあるの。自分が選択できる、まあそれぞれ100人いれば100通りの違いがありますから、それでいいんですけど。

でも未来の人類のため、未来のすべての命のために今自分が、自分の、小さい自分の近いテリトリーの中で、そのためにできること。その未来が簡単にいうと、より良い未来に進化していくために今何ができるか。

この事があればですね、僕は実はあの、これは克服できるというか、むしろしていかなきゃいけないことで、私たち日本人が1つだけ僕はエリートとかそういう意味ではなくて、何か重要な役目を担っているような気がするのは日本人の、日本的精神性、この霊性の原風景というところで、多少そういうことを僕はなんか言葉でも言いましたけども、要するに相反する二律対立するような矛盾するような、いろんなことを、相手は敵だから敵を排除して、善の方向を選び取るというそういう価値観とはちょっと違って、できれば、できれば相対立するものがどうやって共に生きる、新しいなんか道を見つけられるかってその方向性に向かって自分たちができることをやるというね。これがやっぱり、ある種日本人の持っている無意識のメンタリティーなんですよ。これは日本人が遺伝子的にエリートだったからという意味じゃない。
何でかって考えたら分かることがあって、日本人の、あの日本列島の地球上の位置の、構造。

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すなわちこれは何億年単位で動いていることですけど、ユーラシアプレートと、ユーラシアの、だからヨーロッパからアジアのユーラシア大陸を作っているプレートと、海のフィリピンプレートというか太平洋プレート、この2つがちょうどそのぶつかる辺りに日本列島がグーッとあるわけですよ。しかもその日本列島が、あの何万ちょっと5万年3万年ぐらいの単位の日本列島見りゃ分かるんだけど、1万年くらい前まではユーラシア大陸と陸続きの場所がいっぱいあったわけよ。で、その頃は氷河期の最後ですけど、陸だから、あのヨーロッパ系の、ヨーロッパ系じゃない。アジア大陸というかユーラシア大陸からいろんな人たちが入ってきてるわけ。先に。だから、何万年か旧石器時代と言われるような時にすでに、我々の祖先はこの、今の日本列島の所に生きているわけですから。

だからしたがって、我々の血の中に何パーセントかはその頃の方の遺伝子だってあるはずなんですよ。で、その頃でいうと、実は皆さんビックリするんだけど、ケルトの人なんか絶対日本にいたでしょ。っていうと、みんなアイルランド、あんな遠いところから、どうやってそんな昔に来たのと思ったら大間違いで、ケルトの人たちがアイルランドにいるっていうのは実はケルトの人たちがかなり経ってからです。経ってから、ヨーロッパにちょっとヨーロッパのヒマラヤの麓なんですよ。あの方たちが、最初のスタート。で、あのヨーロッパの方に行ってヨーロッパ大陸にかなりおいでになったんですが、アングロサクソンが上がってきて、キリストが入ってくる形で、どんどん北の外れとか西の外れに行っちゃったから、アイルランドとスコットランドなんかにケルトの人たちいますけど、実はそのあのユーラシア大陸から、もうすでに反対側に来た人たちが陸続きで日本列島の中に入っていて、先住の民としておいでになった方達がいたと思いますし。その方たちの自然に対するそのお祈りの仕方とか自然の扱い方ということで言えば、全く日本の神道の原理にあるようなのと同じなんだ。

ケルトの人たちの文化っていうのは、直接的にはもう残ってないですけど、でも文献とかに残ってるわけね。そうすると、水とか木とか火とか、木火土金水ってこの要素をちゃん扱う、その扱い方が、これが日本の神道の山奥の古い神事の形の中に全部あるんですよ。このこと言い出すと、どんどんキリがないから。

今ね、実は昨日、一昨日、あの洪水大変。あの、あの辺、また水ですよ。あのまあその辺は言い出すとどっか行っちゃうね。俺はね。ふふふ。だから、あれなんですけど。いずれにしてもね、そういう風に、その頃にすでにそういう我々の血の中の何パーセントかの人たちはいろんなところにいます。南から来た人もいるし、北から降りてきた人もいるし。で、それからだいたい温暖化する。温暖化して、あのいわゆる縄文海進と言われる時代が6000年から5000年ぐらい前ですけど、その頃に大体日本列島の形ができているんですけど、その頃は今の日本の、いわゆる大都会のある平野部分っていうのかな。これは全部海の底でしたから。気候がかなり温暖で東北地方の方が今の九州ぐらいです。九州から西くらい。だから、すごい豊か、森が。豊かで森の恵みがすごくあって、それで海が近くてお魚だなんだというの全部取れるから。実は5000年くらい前に最も日本で、日本列島の中で先進の都市、土地だったのは東北地帯なんですよ。東北地方なんですよ。

それから海が引いて、だんだん陸地が現れてそこに沼地というか、なんていうかあの真水の平野が現れて、豊葦原の国っていう古事記の中なんかで言ってる、いわゆる葦が生えているような、あの平らな真水の湿地帯がたくさん出てきて、その頃に神武天皇という人に象徴されている、あるいは、天照大神みたいな形で言われている、稲作農耕の民が、ここは海渡ってこなきゃいけないんだけど、でもは割合なんてか近い距離でそれぐらいの航海術あった。だからどんどん入って来られてというところで。

入ってきたんだけど、すでにそこには先住の森の民、その縄文海進の時に今度は南太平洋からどんどん、いわゆるフィリピン、あれですね、インドネシアとかあの辺からも人が入っていますから、そういう人たちが狩猟採集の民でも、海の狩猟採集の民と、それからいわゆる森というか山の狩猟採集の民が異質な文化だけど、一緒になってなんとか一緒にいるようなあれができているところに、今度は稲作の人とか来て、それでまたじゃあ追い出したのかって、追い出した側面もあるんだよ。だから、それはいろんなことあるんだけど、でも結局のところ何をやったかというと、そういう農耕の民と狩猟採集の民が一緒になって生きるような。だから違う、矛盾しているように見える、対立するような価値観を共に生きるような、生きざるを得なかったわけよ。この位置で。

で、しょっちゅうあのフィリピンプレートじゃないや、太平洋プレートと、あれの軋(きし)み合いが起こってますから、大きな地震があり、それからあれですね、雨がすごく多いというのも、これだってねすごいことですよ。
緯度だけ見れば、地球の緯度だけ見れば、同じ日本列島と同じ緯度の所にある国々のほとんどは砂漠ですから。だから、それぐらいドライアップな所の上になんで日本だけこんなに雨降るのっていう話になると、フィリピンプレートのおかげで。こんな龍みたいな形の、あの細長いのができて、その真ん中に背骨のように山があって、それでしかも、しかも乾燥したあれがあのヒマラヤに当たって、こうちょっと曲がっていわゆる日本列島の上を通り過ぎる時に山に当たって、山に当たるから水蒸気が発生して雨が降るからって言うんで、日本列島はすごい水が豊富で、なおかつ細長いからあんま雨が降ってから海出るまでの間が短いんだよね。

あの大きな川はみんなもう上流からずっと続いてきますから。水争いだ。汚れだっていっぱいありますけど。日本列島ぐらいある意味では川が水を浄化する間が短いから、すごく良い水がいつもあっていってね、まあそれが逆にすごい大雨になってとかね。そういうこともあるわけですから。

日本列島において起こっている災害の多くがですね、実はすごい恵みのあれでもあり、それの中で生き続けてくるということの中において、いろんな生きる術を得てきているのが日本文化のあり方ですから。これは実はこういう規模の地球的異変は、まあこれは変な言い方するけど、これが絶対もっと起こるよ。日本列島だけじゃなくて、多分。これがね、ものすごいあの温暖化とかいろんなことと関係してるんですけど。だからしたがって、この状態は、なんていうかな、起こるからもうダメだ。それでよくこういう奴一番俺嫌いなんだ。あの、もう何年か経ったらさ、人類が滅亡すると。その時目覚めたやつだけが円盤に救われて、地球を去っていくけど、目覚めない奴はみんな、滅亡するとかね。もうこんな考え方絶対せんほうがいいよ。我々人類という種は確かにたくさんの死や悲しみを持つかもしれないけど、それを超えていくような知性と、それと霊性。霊性と知性をちゃんと持っていて、それを正しい方向に知性も否定せず、方向に持っていく何かというのはあるはずなんです。いわゆる危機に直面した時に今までの自分ということじゃない自分に、シフトとしていくような、あの自己治癒力、自発的治癒力、その力を実は地球(ガイア)は与えている。しかも、その中に知性も含まれているわけ。知性も含まれているということ。

だから昔に戻ればいいとか、ただただそのなんかお祈りすればいいとかいうことでもなくて、お祈りは必要よ。祈りというのは、やむを得ず出てくるもんだから。絶対必要だけど、だからといって祈りさえすればということも違うわけで。知性を持って客観的に世界を理解するという能力と、それから祈るしかないという。それを、なんていうかな、単なる、こうあれじゃなく、大きな自分に与えられた力の1つとしてちゃんと持つということ。

この2つがですね、とっても重要なこととして僕はあるような気がしますので。で、僕たちはその自分の中にそれを持っているということでいうと、これから生き延びていく僕たちは、そら、寿命がどうなるか、俺だって分かんないような、あの最近はやっぱりちょっと考えるもんね。どういう死に方するかなとかね。どこで死ねばいいのかなとか思いますけど、でもまあそのやれる時にはね、やれること目一杯やりたいという風に思いますが。
ということでいうと、あっという間に9時だぞ。
(会場・笑)

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山本:いやあのー、私も進行をほっぽり出して聞いておりましたが、補足をさせていただくとですね、監督宛てに質問結構たくさんいただいたんですね、今日まで。まあ10も20もあって、その中の質問が多分監督の頭の中に入っていて、パーッと話してる中でこれはあの質問、ここはあの質問っていうのが1つ1つ答えているんですよ。
私質問を知ってるので、ああここで私生活の話入ってくるんだとか、災害も含めてとか、今の時代の生き方とかいろいろ質問あったんですけれども、1個1個質問して答えるというのをやらずに、バーっと私の質問から、その後、みんなの質問、最後スポンテニアスヒーリングって、あの七番の自発的治癒力の話に戻ったっていうすごい。この1時間半だったなと私はこう。。。

龍村:あのね、こういうことほとんど何も考えてないからできんだよ。

山本:ふふふ。ははは。ははは。

龍村:考えたら、たぶんこれちょ、ちょっと違っているかな。時々怖いのは、戻れなくなって時間が。。
(会場・笑)

山本:ははは。質問自体いろんな形で、手を替え品を替え、話題を変え入ってたんですが、今ここでこの話を聞いて「私やっぱりせっかくだから聞きたいな」という方がいたら、、、

龍村:そうだね。

山本:うん。あのぜひというか感じで聞いていただければと思いますし、もし、なければないで進めていきますが、ちょっと聞いてみたいな、なんて方いらっしゃいますか。

龍村:はい。どうぞどうぞ。

山本:はい。じゃあちょっと伺いします。

龍村:マイクを持って。みんなに聞こえたほうがいい。

会場からの質問

男性:あのお話の中で、霊性を磨いたほうがいいということがあったんですけど、この現代社会というのはやっぱり自然から切り離されて人間が。そういった霊性を磨く機会っていうのがすごい少ないと思うんですけど、何かヒントみたいのがあれば教えてください。

龍村:ははは。磨くなんて言った覚えはないんだけどな。あの持ってるということの、まずは自分の中であるということを、そのちゃんとあの確信、自信を持ってっていうことですよ。生かされているという体感のことですから。それは何をやってたって、それはそういう風になると思いますからね。そのハウトゥーはあんまり求めなくていいと思います。

で、自分がやっぱり大きな、なんというかつながり、自然の中のね、つながりの中で生かされている感覚が蘇るようなことっていうのは、いろんな日常生活の中にもあるし、俺ん中の感覚でいうと。もちろんね、神社に時々行ってみるということは、それは神社、神社、神社によっていろいろ違うし、宮司によっていろいろ違うから一概には言えないけど、明治時代に日本に来た、ある、やっぱりケルト系の、アイルランド人のジャーナリストがすごい、いみじくも言った言葉があるんですけど、「日本人にとって神社とはあの野性的な直感力を復活して、それであの霊性、霊的な元気を回復する場所だ」っていう。そういう言い方をしてました。霊的元気。まあだから神事なんかのね、あの形はちょっと違った角度である、立ち会っていると、多分、火が燃えているとか、その祝詞の声が、別に意味は分からなくてもさ、何かこうずっと風が吹いてくるとか、雷が鳴るとか、いろんなことの中でそういう感じを受けることもあると思うけど。

俺なんかは一番あれなのは自転車に乗っている時だよ。自転車。で、自転車に乗っているのも、あの変な言い方するけど。休みの日にさ、自然の中や橋にいて、いい気持ちでって、そうじゃないの。毎日40年間、都内のブンブン車通っている所を自転車で通っていて、その時一番ある言い方をすれば、自分が生かされている感覚というものを。これは内側にあるから。自分の、要するに五感と言われるものね。食感とか嗅覚とか、要するに五感のビビットになるような状況の中で第六感的なものをスッと開く

自転車で走ってて、例えば呼吸がしんどいとか、あるいはその力を入れたり止まったりとかさ、車道を走るからな俺なんか。車道を走るとさ、というよりも俺の自転車は車道しか走れない。で、あの歩道が一番危ない。で、だけど自転車だからね、センサーは自分のセンサーしかないけど、車との関係の距離感とかそういうのを感じないと危険なんですよ。40年間1回も車の事故ないですけど。そうすると後ろから来る車の気配とかさ、そういうのも敏感でなきゃいけないから、すごく敏感になるでしょ。それから、自転車の場合はエネルギーが自分ですから、ビッとギアをちょっとチェンジすればさ、スピードがあがるってもんじゃない。ギアをチェンジすれば肺がバクバクなる。そうかと思うと急に止まらなきゃいけなくて止まる。

そういうようなことを繰り返しているうちに身体的な器のなんか循環がすごく敏感になってきた時、見るとか聞くとか臭うとかそういう感が敏感になってきて、信号待ちでパッと止まった瞬間に、えってこう下見たら、こんなコンクリートのさ、隙間から、あの小さな、野の花がパッとこう出てきててさ、この辺でずっと風に揺れてる。

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その、こいつ気持ちよさそうだなあとか。そういう感じ受けるじゃん。そういうようなことでも、なんていうかね、こう、霊性の回復とかなんとかって、そんな大げさに言わなくてもさ、あの五感が敏感になると六感があの働くようになるからという意味においては、あれですよ、どこででも好きなように気持ちいいことやりゃいいんだ。

自分が気持ちいいなと思うことやればいい。ただし、気持ちいいというのは単なる快楽ではないんですよ。多少のなんていうの、ストレス。多少のストレスを受けないと、多分本当の意味の気持ちいいっていうのにはならないね。今急にまた思い出した、7番のグレッグ・レモンが言ってた。「適度なストレスは人を健康にし、過度なストレスは人を病気にする」って言ってましたけど。そういう意味ではストレスというのはね、あれですけども、適度なストレスがあるというのは霊性にとってはとても重要なんで。はい。なんていうか。答えは。

山本:ありがとうございます。さて。さて。えーないでしょうか。あ、はい。ちょっと待ってください。

女性:えーどうも。七番で、あの神聖とか日本の美しさの中で音楽がオペラはしゅ、いえあのなってたと思うんですけど、それはなんか、どういうところから閃きとか第六感的な感覚で選ばれているのか。その辺をお聞きしたい。

龍村:あのね。僕はね、地球交響曲(ガイアシンフォニー)っていう映画の先生は文学でも絵画でもなんでもなくて音楽だと思っているの。実は誰もあんまり気が付いて、そういう指摘はしてくれませんけど、音楽的な構造化。言語と。それからその絵画的な要素とかSEとか。いろんな要素がこう絡むわけですけど、全体として音楽的に構造化していくような時に地球交響曲(ガイアシンフォニー)っていう映画ができるという意味においては、私にとっては、音楽は、その映画作りの先生なんです。それはクラシックも含めてですけどね。オペラなんかも全部含めてですけど。 

それで音楽は選ぶのではないんですわ。出会うんです。それも偶然という、たくさんの音楽知っててさ、それで選んでるわけじゃねえんだよ。本当にね、なんかこのシ-クエンスという、1つのシークエンスという1つのまとまりですけど、だいたい3分とか4分くらいなんだけど、その辺でずっとこうつなぎ始めてからくる時に、出会っちゃう音楽ってのがあるわけ。それはいろんな形ですけど。あの喫茶店でお茶飲んでて聞こえてきちゃったとかさ、でもあるし。それから、ある方がCD送ってくれてて、それはその時は聞いてなかったんだけど、たまたまさ、ポンと聞いたら、こうだったとかさ、というのもあるし、ま、千差万別ですけれどもね。基本的には選ぶという感覚ではなくて出会うっていう感覚なんですよ。だから、うーん。どう言っていいのかな。

でね、ちょっと不思議なことがあって、ここで使われる音楽が何であるかが分からないままにそのシークエンスに入っていて、ずっとつないでいくわけですよ。つないでいく時につなぐということはどういうことかっていうと、あるカットが何秒でどこからどこで編集してとかさ、あのシナリオあるわけじゃないからね。それはむしろ感覚的なものとして、こうつないでいって、ある程度までつながれた時に、たまたま出会った音楽があって、その音楽かなと思ってパンと合わせてみたら、もう見事にシンクロするんだよね。最初からこう付けてそれに合わせて編集したみたいにあのシンクロするっていうのは、ビッタンコ合うという意味じゃないんだよ。シンクロっていうのはズレるっていうことですから。タイミングがちょっとずつこう外(はず)れながら、音楽も消え、言葉も消え、映像も見えてきててそういう構造化ができた時に、そのシークエンスっていうのは皆さんがあの多分印象に残るのはしゃべった言葉とかね、絵の綺麗さですけど。それ全体としてつないでいる目に見えない、糸みたいなもの。これが音楽と一緒になって現れてくる時に、多分意味やその映像の美しさだけでなく、全体が音楽的に構造化されている時に地球(ガイア)的な映画になるんだなと。

これは僕は「六番」の時にさ、「世界は音なり=ナーダブラフナー」っていう、インドの言葉がありますけどね。ああいうことも多分そういう感覚の中でね、ほんとに、この世界の物質的な部分を構造化している、後ろに見えない糸としてこうつないでいる何かというのはね、The 音楽的としか言いようがないものなんじゃないのかな、という気がします。

それは最終的には不協和音的なものも含んで新たなるハーモニーを生み出していくっていうね。で、しかも演奏が1回1回違ってくると感じが違ってくるんだけど、でも常にそのいろんな新たなるハーモニーを生み出し続けるとかですね。そういうような感じなんで。やっぱり音楽的かなと思うということでありまして、いい悪いじゃないんだよ。

で、今回の七番の大きなストレスというのはやっぱり使いたい音楽が使えなかったという部分が、使って編集しておいてビジッとできておいて、この音楽が著作権が1000万くらいかかるから使えませんみたいな話になった時、もう本当に悲しいよね。ゼロからやり直さなきゃいけないっていうね。でもそういうこともあるんですよ。やはりしたがって、必ずしもあの音楽の譜面で映画の中で一番難しいのは、僕がこの音楽しかないと思ってて、それが使えない。お金の問題で使えないというね。それはもうそういう経験、体験すごくあるんですけど。だからお金は大切よ。あはは。
(会場・笑)

山本:あはは。

龍村:お金がなければこの映画できないのよ。本当に。最初にそれ言っちゃったらね、みんなしらけると思って。これは簡単なことで、物質的なエネルギーなんです。人間だってさ、いろんなこと言ってても物質的な意味のエネルギーってなかったら生きてられないわけですから。食べるとか。貯めるとか。

ただそれは自分が貯めるんではなくて、通ってくれて初めてエネルギーになるのであって、貯めるということが間違いなの。多分。自分だけ太って。必要な分だけ通ってくれればいいわけでしょ。通りよくするっていう、それがもう生きるってことの、あれだと思うしね。

よく省エネとかなんとか言ってますけどね。最初に自分が省エネ人間になるってのすごい重要なことですよ、そう心掛ける。最小限のネルギーで最大のあの能力が発揮できるような身体性というものについてちょっと意識を持つと、多分それはものすごく敏感な、自然とのつながりをちゃんと無意識のうちに作ってくれると思いますから。てなことですみません。音楽の話で、音楽の話し出すと、また何時間でもかかっちゃうから。あはは。ありがとう。

山本:ありがとうございました。あの最後の話は、「新作は作る予定があるんですか」とか「次のテーマは何ですか」みたいなの質問が多かった話とすごく通じていたと思うんですが。。あのちょっとその前に第六番で音の話が出たというか。ロジャー・ペインだったりケリー・ヨストだったりラヴィ・シャンカールだったり、その時に虚空の音のシリーズがあったかと思うんですが。

龍村:何のシリーズ?

山本:虚空の。

龍村:はいはい。

山本:虚空の。あのー。

龍村:ノブ(KNOB)が来てる。

山本:はい。そうノブ(KNOB)さん、今日来ていただいてまして、六番でディジュリドゥってオーストラリアのアボリジニの、あの民族楽器。。

龍村:久しぶりだね。ノブ(KNOB)。なんかこうなったら一言、言わなきゃいけないんだよ。

KNOB:あ、監督お久しぶりです。皆さんどうもこんばんは。あの、はい。
(一同拍手)
僕はあの山本さんとここで六番をあの彼が行った時に、えーその彼の心に共鳴して、映画の前に音を紡がせていただきました。はい。そういうご縁で。今日はたまたま福生の方で演奏があったので、監督にお目にかかりたいと思ってうかがわせていただきました。

山本:ありがとうございます。
(一同拍手)

龍村:ノブ(KNOB)さんとの撮影もおもろかったな。全然予期せぬことばっかり起こって。

山本:あの今日の会自体も98%予期してない流れ、になっております。もう時間もあるので、最後の1つの質問で終わりとさせていただこうかなと思いますが、どうでしょうか。

龍村:要は皆さんほら次どうするんですかという話はみんなすごい聞きたいみたいなんですが、正直言ってまだ全然分かりません。っていうのは、いつでも大丈夫です。いつでも大丈夫ですが、なぜ分からないかと言うと、この時期に今この映画、最後にしらけたこと言いますね。この映画は1億数千万お金がかかる。

で、一番から七番までやってきたということは何らかの形でそのことをちゃんとでやってきたから形になってこの映画になっているんで。私が思いがあって、思いがあればこうなってっていう、思いなんで俺のもんじゃねえからいくらでもあんだ。だけど、あのそれができない状況の中で、今いろんなことが勃発してまして、それがどのようにつながってさ、次の作品になるのかまだカオス状態です。カオスというのは混沌状態のカオスの縁っていって、それから本当の意味の混沌で、もう終わっちゃうのか。あるいはその混沌から新たなる進化を遂げて次が生まれるのか。これがまだ分からないから、可能な限り俺はその1つ1つの出会っていく現象とかに、なんか自分で勝手な固定観念で整理しないで全部で受け入れられるだけ受け入れながら、その次のステップが生まれてくれることを願いつつ、というのが今の状態で。

具体的にはなんていうかな。そのいわゆる八番と言われるような、あの目途が全然立っていませんし、とりわけ特には私の事務所で私の奥さんのほうが先ほど言ったようになんだかもうボランティアにばっかり行ってしまって、でもその私の古希のお祝いの時に、これはもう笑いながら言いますが、あの私はもう地球交響曲(ガイアシンフォニー)はやりませんって言ったんですよ。皆さんの前で。その結果として、ウチの事務所の体制が再生しなきゃいけない状態の中でなかなかできなくて、経済的にはどんどんこんななっていまして、なんだかもうね、事務所まあ大丈夫ですよ。大丈夫ですけど、このまま行くとあの半年もうもたないんじゃないのみたいな感じもあったりするので、それをこう克服するということも含めて、今いろいろやっている最中なので、「八番はこうなります、いつ頃から始めます、こういうことで、出演者は誰です」みたいなことが言えない状態を、まあ楽しんでいるという言い方まではいかないけど、結局最後は楽しんでるってことなんでしょうね。その苦しみをね。ということの状態が今です。だからもうちょっと待ってください。

ただこういう会をやってくれるということとか、それがものすごい大きな、なんて言うかな、あの物資的なね、支援というのはもちろん僕があるけど、そういうこともさることながら、やっぱり人の心です。ビジョンというのはそういうものでしょ。ビジョンってのは心です。何を思うか。何を願うか。で、このことがリアルになりますということは、そんな簡単に言い切れることじゃないのを承知の上で、そのビジョンがなければ何事もない。

だからしたがって、どんなに嵐の中で、どんなに前が見えない、目的地が分からなくても、目的地が見えるという、そのことへの必ず見えてくるであろうということへの自分自身とかもっと大きな大いなるものの信頼とかそういうことは僕は見失わないように、毎日子どものご飯作ったり、学校の先生に「すいません。宿題忘れてできませんでした」みたいなことを言ったりとかをやっております。それが今日の、今の日常であります。

山本:ありがとうございました。
(一同拍手)
最後になんかしっかり締めていただきました。ははは。これで、今日の会は終わりとさせていただきたいと思います。今一度、龍村仁監督、ありがとうございました。
(一同拍手)

龍村:どうもありがとう。

山本:それでは。

龍村:またどっかでやってたら見てくださいね。それでまた誰かを誘ってください。1人でも2人でもたくさんの人が見てくれるようにと願っております。どうぞよろしく。今日は本当にありがとう。

山本:ありがとうございました。
(一同拍手)

龍村:ありがとう。ありがとう。
(一同拍手)

(終了)

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あの頃の自分へ。今キミには7歳の娘がいる。ひょうきんな奴さ。トークライブの時の監督と同じだよ。大丈夫、苦しいときも進め。あの頃の友人へ。いつもいつもありがとう。あの時間はいまも僕を支えています。

"どんなに先が見えなくても自分を信頼する" 監督の言葉は10年経った今も、共振し共鳴します。生きる力が甦ってくる。たとえ映画は古くなっても、見ることで新しく生まれ変わり、見られることで生まれ還るのかもしれない。一番からみたくなりました。

僕と誰か。他者との間。互いをなにかで隔てられるようなものがあったとしても、どこかでつながる。身近な暮らしを通じて。どんなときも、新しい道みつけながら、共にいきましょう。

2021年7月21日 山本コヲジ

全ての生命が潔く健やかに生き続けるために(第七番)
人類文明の新たなる進化に向けて(第八番)
そして
すべての生命は音から生まれ、音に還ってゆく(第九番)

『地球交響曲第九番』
東京都写真美術館(恵比寿ガーデンプレイス内)7月11日まで


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