死について考える03

ここ最近、宮下洋一氏の「安楽死を遂げるまで」を少しずつ読み進めている。

自己決定権の話題。安楽死が認められる条件の一つに「自分で決断する」という項目がある。まさに、自己決定権。本人が安楽死が望み決断すれば、周囲が抱く様々な感情は横に置き、本人を尊重するべきとされる。安楽死を望む多くの場合が、様々に耐え難き苦痛を背負っていることを思えば、周囲がどうのこうのいうべきではない、と。

しかし、このジャーナリストの宮下氏が抱く感情に、本当にそれだけで良いのか、と違和感を提示する。日本は家族や周囲の意思を尊重する側面が強く働く文化ではないか、と。そのなかで、育ってきた我々からすると、その自己決定権だけで安楽死が進むことに違和感を覚える。自己決定権は、キリスト教文化の神との契約にその原意を見る。だから、言ってることは分かるけど、身体の芯から納得できるかといえば、そうではない、と。

自死・自殺の問題に長いこと携わっているが、最近思うのは、自殺対策基本法は、自死遺族の声や思いが反映・尊重されて出来上がった法律といえる。国の法律にまでなったのだから、すごいとしか言いようがないし、それまでの過程の大変さも見聞きした。だから、決して否定しているわけではないのだけど、自死遺族の声が強すぎると、「自殺、絶対ダメ」になってしまう。もちろん、自殺が減るにこしたことはないんだけど、「絶対ダメ」の結論ありきだと、いままさに死にたいほどに苦しんでいるその人の思いは投げやりに、置き去りにされている感じがする。自殺の良し悪しではなくて、苦しでいる人の、その想いを見つめることが重要だと感じる。

そう思うと、余計難しい問題だなと感じる。自己決定権のこと。安楽死の自己決定権が尊重されることに違和感を覚える一方で、自殺の遺族の声ばかりが強調されることに限界も感じる。そのなかで、いま思うことは、当事者や周囲に、その苦悩を生まない社会システムや社会の在り方から、言及していきたいなと感じる。

人の想いに良し悪しはない。ただ、そういった様々な想いや考えを尊重できない社会の在り方は嫌だなと思う。多様性みたいな議論になるんだろうけど、言葉でわかったようなことをせずに、本当にそういった社会になるには、何ができるのかを微力ながらも考え続けていきたい。

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