作法の意義

今日は満中陰のお参りだった。ちょっといざこざが発生。

80代後半、男性の満中陰。その方の奥さんは、もう20年ぐらい前にご往生。これまでは、その男性がお仏壇や仏事の世話をしてたけど、その方が亡くなり、これからは長女が担うことになったそう。

その喪主の、弟さんの嫁の両親が鳥取から来て、お参りされてた。宗派は真言宗らしい。伝統的な作法を大切にされている雰囲気。

お勤めを終えたあとに結構文句を言ってた。僕にというより、喪主に。

たしかに、造花であったり、仏壇のお飾りも慣れてないな、という感じ。そりゃ、しょうがない。ただ、大阪の他の家庭と比べても、そんなもんかなーという程度で、それほど気にならなかったのだけれど、鳥取のご両親からすると、かなり腹正しかった様子。

宗派も違えば、地域も違えば、そりゃ、作法も全然違う。もっといえば、各家庭によって、全然違う。そりゃ、宗派のスタンダードとして出されてるものを基準にあれこれ間違いを指摘するのは簡単だけど、僕はあまり意味がないと思ってる。

お飾りや作法は、あくまでも、その時代に時代に決められたもの。それよりも、なぜそういったことをするのかを考える方が大切。宗派によって様々な作法はあるのだけれど、各宗派によって大切にしていることが反映された作法になってるはず。各宗派の作法について詳しくは知らんけど、たぶん、そう。その宗派の教えで、特に大切にしていることが形式化されたものが作法。

そうである以上、もちろん作法は大切だけど、自分たちの慣習と違うからって声を上げるのは賛同できないなと感じる。少なくとも、せっかく亡き方を弔うあたたかな場や時間が、怒りに満ちた時間になったのは残念だった。

そんなことを、ちゃんとお伝えできれば良かったんだけど、その異変や怒りに気付いたのはお勤めを終えて、お茶をいただいてたとき。遅かった。お弔いの場をつくる責任者として、実力不足を痛感する。

改めて振り返ると、最初から、なんだかギクシャクしてる感じはあった。以前から関係性がよくないんだろうな。そのなかで、僕になにができたのか。

気付いてからでも良かったので、もう少し、その鳥取の方とお話しできれば、なんとなくフォローできたのかもしれない。あまり踏み込み過ぎると、余計親族関係を面倒なことにしかねないので距離が難しい。

うーん、やっぱり、僧侶が来て、若かったり、髪の毛あったりしたのも、イライラ要因の一つかもな。儀式儀礼の執行者として、その責任はしっかり反省せねば。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?