少女の手_願い_サムネ

”痛みを感じること”の先にあるもの|ウタトコト④

「ウタトコト」とは?=歌×言
歌とエッセイを組み合わせて、1つの作品のように発表しています。

このページの最後には、”今日の歌”の動画があります。まず聞いてみたい!という方は遠慮なく文章を飛ばして、音楽を聴いてみてください!

こんにちは!シンガーソングライターの嘉村こずえです。

ウタトコト連載「自分と世界を抱きしめる」の第4回です!
前回(自分という自然に出会うー23歳、鴨川で泣いた日。)までは自己紹介も兼ねて、3回連続自分の生い立ちストーリーと共に綴ってきましたが、第4回からはそれぞれのテーマで読み切りのエッセイと歌をお届けしていきたいと思います。

第4回のテーマは、”痛みを感じること”の先にあるものです。

私たちの”痛み”、どこで線をひく?

私は、痛みに弱いです。
自分の感じる痛みにも、人が感じる痛みにも。
結構、この「痛み」の扱い方、向き合い方に苦労してきました。

・・・・・・

宮沢賢治の言葉で、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というのがあります。
神か仏かと思うような、毅然として、慈愛に溢れる態度。この言葉を堂々と世に放つあたり、さすが歴史に名を残す作家です・・。

宮沢さんの言葉、立派に聞こえはしても、現代のサバイバル社会の中で、「そこまで外の世界の幸せを考える余裕ないわ」というのが多くの人の本音だと思います。(なんなら自分が調子悪い時は、他人が羨ましかったり嫉妬もしたり…しますよね)

でも逆に、自分一人だけが幸せなら、それで本当に満たされるのか?そう問われれば、ほとんどの人がNOと答えるはずです。
そもそも自分一人だけで完結する幸せなんて限られているし、もし自分の家族、友人、身の回りの人たちが何か不幸を抱えていたら、自分のことのように悲しさ、苦しさを感じたりすることもあります。

つまり私たちは、その間を生きているんだと思います。
自分にとって近い存在、心を通わせる存在であるほど、喜怒哀楽も共にする。でも自分に直接関係がなかったり、関心が薄い対象であるほど、他人ごとになっていく。
ただ、その境界線はとっても曖昧で、全然面識のない遠く離れた存在でも、ネットやドキュメンタリーなど、何かのきっかけでその人のストーリーに触れると急に身近に感じて、その人の為に祈ったりもする。

私たちはいったい、「自分ごと」として受け止める「誰か(何か)の痛み」を、どこで区切っているのでしょうか。

抱えきれないから

世の中には、絶えずたくさんの問題が起こっています。
戦争、紛争、テロ、貧困、環境問題、人権問題・・・
そのたび、「この痛みを人ごとにしないで」「自分ごとでとらえて、未来に責任をもって取り組もう」と、私たちにメッセージが発せられます。

だけど、そんなメッセージを聞く度、私は悲しくなるんです。
ただ、責任感に訴えるような、道徳的に啓発するだけのメッセージ、それじゃもう、人の心は動かないだろうと思うから。

ほとんどの大人は知ってしまっているんじゃないでしょうか。
その痛みにまともに共感してしまえば、ほとんど絶望するしかないようなことがたくさん起こっていること。
その痛みに対して行動を起こせば、今自分の暮らしている日常や、享受している幸せが揺らいでしまうかもしれないこと。
もっと目の前の、自分が責任を負ってる範囲での、防がなきゃいけない不幸、守りたい幸せがあって、それで精いっぱいだとゆうこと。
だから、その外側にある「痛み」には、シャットダウンするしかないこと。

だから悲しいニュースに触れても、せいぜい一時心を痛めるぐらいで、また”自分の生活圏”の中だけに意識を置く日々に戻っていきます。

嘆きは”希望”の裏がえし

この連載の第1回で書きましたが、私は子どもの頃が一番、世界に境界線を引くことなく心を開いていました。そしてその分、自分より遥か遠い存在の「痛み」までも、沢山感じていました。
遠い国で紛争や飢餓で苦しむ人たちのことが、ただの情報じゃなく、実際に生身の人間として想像できたし、その人たちのことを思うと、胸が締め付けられる思いだった。

でも、大人になるにつれて、どんどん、どんどん、
何も感じなくなっていった。
色々な問題があまりに複雑で、どうにもならないんじゃないかと思えるほど大きい問題だと知った。
自分のエゴも知った。身の丈も知った。
まともに向き合っていたら、耐えられないから思考停止した。。

そう、私にとって、誰かの痛みを感じなくなることは、
世界に対して、自分に対しての諦めだったのです。



「誰の痛みに寄り添うか、だれの幸せを願うのか?」
それってそもそも、難しく考えたり義務感からではなく、
自分が大切に思う相手に、自分の心のままに従えばいいと思うのです。

でも、その「感じる心」すらも、
麻痺させられるような世の中かもしれないと、思います。

そして、みんなが色んな痛みをスルーしていく。
その先にあるのは、世界の「分断」だと思います。

私は、それがさみしかった。
だから、「痛みをちゃんと感じる、嘆く。」
そこからもう一度してみようと思ったのです。

日々をごきげんに過ごすこと、自分を幸せにすることって本当に大切だと思う。
だけど、ちゃんと痛みを感じたり、それに対して嘆くことも同じくらい大切だと思うのです。
なぜなら、それは、希望を捨てない態度だとおもうから。
この世界にある、痛みを感じること、嘆くことは、つながりあうことのはじまりだと思うからです。

◆今日の歌 「少女の手」-組曲negaiより-


別に、特に世の中の為になるようなこともできてなくて、インテリアや本や、友達と飲みに行くのが好き、家ではよくお笑いyoutube動画を見てる、ごく普通の小市民の私です。

だけど、私なりに表現を通して「世界の痛みに向き合おう」、そんな意思をもって3年前に作ったのが、今日の曲です。

今日アップしたこの曲は、最後すごく中途半端に終わるのですが、実はこの曲は、「negai」というタイトルの組曲の一部として作った曲です。この組曲は3パートで構成されていて、その序曲にあたる曲です。
序曲であるこの「少女の手」は、世界の痛みへの嘆きを歌っているのですが、続く2曲目、3曲目と表現の内容が変わり、組曲全体を通して、人の持つ”願い”の可能性だったり、世界への希望につながるような作品になっています。

ミュージカルの音楽のような壮大なイメージで作ったのですが、ライブで3曲通しでやると、心身のエネルギーを使い果たすような作品です。
ライブでは数回しか披露していませんが「本当にこの曲に出会えてよかった」と涙を流してくれる方もいて、大事にしていきたいと思う曲。

今日はその一部分になりますが、ぜひ聞いてもらえたらうれしいです!

「少女の手」-組曲『negai』- 詩・曲 嘉村こずえ

*組曲「negai」の2番目の曲は、2年前に音源をリリースしています。
ダウンロードできるので、よかったら聴いてみてください!
組曲「negai」より『願い』

最後までご覧いただきありがとうございました。
それではまた次回!

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