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『トランス関連の脱病理化運動は障害者差別反対運動』

性を越境する行為を脱病理化して、トランスジェンダーの健康と権利の問題に置き換える、というのは、(1)障害差別のようなものがあるかどうかとは別の話であり、別の言い方をするなら、(2)医療者など社会側の障害差別と闘うものである。

(2)から説明する。

まず、性別を越境する行為や人を逸脱だとして病理のカテゴリーに押し込めたのは、それを逸脱だとして、社会秩序をある一定の形にしようとした、社会やその成員の側である。その一定の形の社会秩序とは、「人は生まれた時から女か男で、それは一生変わらず、死んでも変わらない」という規範に従うことで成し遂げられる、とされているもの。

そうであるので、その規範以外の多様なジェンダーのあり方(アイデンティティやら、その表現やら、生き方、ライフスタイルなど)を包摂する社会のために、脱病理化の運動というものが展開されてきた、というわけだ。

そのため、そもそも障害者差別反対運動の一翼なのである。つまり、逸脱を病理として障害のカテゴリーに押し込めようとするのを解放するのであるから、そもそも障害差別を無くす運動なのだ。

(1)について次に説明する。

しかし、その運動を展開する人や、その運動のフォロワーが、他の障害に対する何らかの差別意識を持っている、ということは、往々にしてある。例えば、発達障害だとされるニューロダイバーシティ(すでに脱病理化運動の中にある)や、アルコール依存(これはトラウマの問題として、また別の展開をしているだろう)に対する偏見を持つトランスジェンダーに関する脱病理化運動をする人などについて、Twitterなどで指摘されることも多かった。

それならば、そのような偏見は、指摘されて、それひより学び、正していけば良いのであるから、(1)と(2)を両方行うことに矛盾はないし、むしろ、相互に影響を与えつつ、共になくしていこうとするのが、合理的であろう。

(1)の問題があるのだから(2)は必要ない、ということでは、道理が通らない。そもそも脱病理化運動は、障害差別解放運動であるのだから、(1)も(2)も両方必要であり、それにより、よりインクルーシブな社会を目指すことができるのだ。


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