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『性別移行とはいかなるものか』

ダンスを始めた時、写真を撮ると、びっくりするくらい嬉しそうな顔をしているのに、自分でも驚いていた。最近、サーと呼びかけられるなど男扱いされると、同様のすごく嬉しそうな顔をしていて、自分でも、ちょっと引いてしまう。

本当は、かなり男性的になりたくて、それは宣言しているのに、抵抗がありすぎて。しかし、Kと書いてケイと読むのは、まだ女性的なので、一部で読み方の変更を始めていて、でも、まだ迷っている。

多くの人が誤解しているが、トランジション(日本語の用語では性別移行)というのは、本人にとっても、してはいけないと思っていたことをすることなので、とても負荷が高く、おっかなびっくりになるもの、だ。そのため、少しずつ少しずつ負荷を上げて、少しずつ移行していく。

また、多くの場合、すぐにはうまい具合に調整出来ないので、やり過ぎたりして、白い目で見られたりする。女性らしくする方が高度なので、特にトランス女性は、否定的な反応をされる経験が多くなる。それにより傷ついて、しかし改善して、皆んな徐々に馴染んでいっている。

以上のことを知っていると、「そんなの女でない」みたいな言い方が、とても傷つくものであると分かる。ここまでのことは、既に出版した『性同一性障害のエスノグラフィ』にインタビューデータを用いながら書いてある。

また、生まれた時、女で、多くの女らしさを押し付けられて摂食障害の激しかった私には、シスにもトランスにも、同じように「女らしさ」が押し付けられていると、よく分かる。そのためシス女性は、まだ上手く馴染めていないトランス女性に対して、同族嫌悪を持つのだ、と見立てている。

つまり、トランス女性に対して、そんな程度の至らない女らしさの表出の仕方で、女だと言うなんて許せない、みたいな気持ちになるのでは、ということ。しかし、それは自分が女らしさを押し付けられてきて辛かったことの裏返しであり、フェミニストなら尚更である。そうは言っても、もう一方で、女らしさには楽しめる部分があるのも同じ。

そうであるのだから、シスとトランスの女性は、女性として共闘した方がよい。不本意な女らしさの押し付けに対して。「女らしい必要があるのは女だからだ」というトートロジーに同じように苦しんでいるのだから。

トランス女性のこの点での葛藤は大きい。トートロジーに従わないと、やっぱり女じゃないと言われる可能性があるから。そんなの女じゃないと言われた時に、シス女性はある程度開き直れても、トランス女性には、開き直るのが極めて難しい。

私はマスキュリンな方向に移行すると、自分が闘ってきた男らしさに向かうので拒否感が大きいのに、それでも男性的でありたいと思うので、葛藤が凄まじい。トランス女性も、それとは逆向きか、似たような葛藤を持っているんじゃないかと思う。そういう点こそ、AMABの研究者に分析的に書いてほしいところ。

私は、世代的に、女性学/男性学の次の世代だけれども、マスキュリニティについても、これからは積極的に書いていこうと思う。これまでの研究に敬意を払い、次の世代のジェンダー研究として。


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