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倉阪鬼一郎散文詩集

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まぼろしの三詩集『ふるふると顫えながら開く黒い本』『だれのものでもない赤い点鬼簿』『何も描かれない白い地図帳』から。
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記事一覧

迷宮

迷宮の扉が開くのは、百年に一度だと伝えられている。
 あくまでも伝承だから、真偽のほどはわからない。そもそも、迷宮それ自体がどこにあるのか、黴臭い地図は何も伝えない。
 迷宮の扉は、古い書物の一度も開かれたことがないページに似ている。なぜかそこだけが封印されており、いまだかつてだれにも読まれたことがないのだ。
 ただし、それはうらぶれた伝承によくあるような禁断の書のたぐいではない。古い書物

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牧場

飼育されているのは、一匹の猿だ。なぜ牧場で猿が飼育されるようになったのか、経緯はひどくわかりにくい。ゆえに、だれも語ることができない。
 風采の上がらない一匹の猿は、べつに乳を出すわけではない。旨い肉になるわけでもない。ただの猿としてそこにいる。
 年取った猿はときおり青空を眺める。そのさまは何かを思い出そうとしているように見える。
 だが、猿はずっと猿だった。猿以外の何者でもなかった。猿

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踏切

その踏切は開かずの踏切ではない。
 開かずの踏切ならさして珍しくはない。警報機が頻繁に鳴り、列車が通る。昏倒しそうになるほど長いあいだ待たなければ、遮断機が上がることはない。
 しかし、その踏切は開かずの踏切ではない。なにしろ、いままでに一度も開いたことがないのだから。
 そこでは常に警報機が作動している。かなり間延びした、弔鐘のような警報が鳴りつづけている。遮断機の手前には、白い目をした人

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氷山

氷山ではときおり薔薇が咲く。赤い薔薇が咲く。
 増殖と分裂を繰り返す氷山は氷の塊だ。氷であり、氷でしかないそのつるつるした表面に、真っ赤な花弁が嘘のように浮かび出ることがある。いや、本当に嘘なのかもしれない。氷であり、氷でしかないものから薔薇など咲くはずがない。
 長く氷でありつづけたものがありもしないまぼろしを見るのは、さして珍しいことではない。それが赤い薔薇だったとしても、何の不思議が

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干潟

干潟では大規模な開発事業が企画されている。目玉になるのは、大きなこけしを立てることだ。普通に大きいだけではいけない。見るものが卒倒するほどの大きさでなければ、わざわざ造る値打ちがない。
 全国から集められたこけし職人たちは首をひねった。それほどまでに大きなこけしは、だれも造ったことがなかったからだ。
 とにかく首が造られることになったが、絵付けの段階で意見が分かれた。目の直径を何メートルに

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道路

道路の先端で縊れるのは、最高の栄誉だ。
 道路の上に道路ができ、また道路ができる。上へ上へと、新しい道が際限なく伸びていく。工事が終わることはない。必ずどこかに建設中の部分が残る。それは終わってはならない。必ず宙吊りのままでなければならない。
 だから、世界が終わらないように、ときには高いところで縊れる者が出る。だれかに命じられたのか、率先して縊れたのか、いずれにしても道路の先端で縊れるの

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砂場

砂場には老人が訪れる。齢を重ね、腰が充分に曲がらなければ、その砂場に入ることはできない。
 美しい藤棚で飾られた砂場は、棺のような矩形だ。風に揺れる藤の花をときおり見上げながら、老人たちは砂遊びをする。
 その手つきはぎこちない。まるで初めて砂場に入る子供のようだ。
 蜂が飛んでいる。かすかな羽音が響く。長い昼下がり、無言の砂場で浄土のような花が揺れる。
 まだ老人ではない遅れてきた者は、

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更地

更地には一輪だけ花が咲く。
 名もない花はこの世に存在しないと言われるが、その花には本当に名がない。通称も学名もない。なぜなら、その花は観察者が名づけようとする意志を根こそぎ奪い取ってしまうからだ。
 一瞬の放心のあと、観察者は空を見る。ただ青いだけの空を見上げる。そして、自分がいま何をしようとしたのか、名づけようとした瞬間に忘却してしまうのだ。
 更地には花が咲く。一輪だけ、本当に名がな

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画廊

画廊に飾られているのは、いまのところ額縁だけだ。大小さまざまな額縁が暗い壁に飾られている。
 順路に従い、画廊の客は額縁を観る。前に立つと、硝子が嵌められていることがわかる。そのつるつるした表面に、客の顔がぼんやりと浮かびあがる。客はそれをしばし観て、無言で立ち去っていく。
 額縁の中には、いずれ絵が飾られる。それがどんな絵なのか、客は知らない。まだ何もわからない。

枯野

枯野の果てに人影が現れることがある。ひどく弱々しい影は立ったまま彼方を見ている。ただ呆然とそこに立ちつくしているように見える。
 だが、そうではないのかもしれない。彼もしくは彼女の目には、決然たる意志の光が宿っているかもしれない。次の瞬間には、その意志に基づいて、何か決定的な動作が行われるのかもしれない。
 しかし、それはだれかがそこに置いた人形かもしれない。ただ人のふりをしていただけなの

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小川

小川が始まるところには、一本の赤い杭が立っている。
 だれがいつ立てたのかわからない。そこから小川が始まるから杭を立てたのか、あるいは杭が立ったから小川が始まったのか、それもわからない。
 いずれにしても、水が流れはじめるのは、赤い杭の先だ。杭の上手から流れることはない。
 いくつかの支流を合わせ、川はそれなりの幅になる。下流に住む人々は川に架けられた橋を渡り、長い時間をかけてここへやって

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暗渠

その川が暗渠に変えられたのがいつか、文書には記されていない。どうして地下を流れることになったのか、目的もわからない。なぜなら、暗渠の上に広がっているのは、いちめんの荒野だからだ。
 荒野の下を、暗渠は流れる。そこを流れているのは水ばかりではない。ごくまれに、薔薇も流れる。だれにも心を開かず、長い一生を黙りつづけた老婆の涙のような、一輪の薔薇が流れる。
 その薔薇は、本当は目を瞠るほど赤い。

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悪所

その橋を渡ると悪所になる。
 遠い昔から、そこは悪所として知られていた。橋向こうへ行けば、悪に染まる。ひとたび悪に染まれば、もう普通の生活に戻ることはできない。
 銭を数える代わりに、骨の数を勘定する。その手で殺した屍体にいくつ骨があったか、正確に申し立てることができるようになったら、もう一人前の悪だ。だれに憚ることなく、思うさま悪所へ通うことができる。
 悪、と染め抜いた黒い法被を着て、

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みんみんと

みんみんと蝉が泣いているから、遠くの山があんなにも青い。
 足元に帽子を置き、こうして揺れてみるとわかる。蝉の泣き声が響く世界は色彩に満ちている。空は遠く、山よりもさらに濃く、青い。
 風に吹かれて、白い帽子が転がっていく。わたしの帽子が消えていく。こうして静かに揺れているあいだに、風に吹かれて消えていく。
 わたしの帽子がだれかに拾われることはない。道のない斜面を転がっていった帽子は、や

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