車輪になった男


    夢かと思ったら、そうではなかった。ジムか、ジルか、名前を思い出せない男は、本当に車輪になってしまった。
 車輪は回る。一秒ごとに一回転する。大地を踏みつけながら進むから、車輪になった男は大変だ。間断なく顔が土にたたきつけられるため、悲鳴をあげるいとまもない。
 止めてくれ、と叫んでも無駄だ。車輪は回る。ジョンか、ジェームズか、名前を思い出せない男の顔が擦り切れていく。唇が消え、鼻が欠け、口がなくなる。もう声を発することができない。
 存在の芯も擦り切れる。男が名前を思い出すことはない。思い出しても意味がない。たとえ揺るぎなく名が定まったとしても、男にはもう世界がない。

(『だれのものでもない赤い点鬼簿』より)


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ミーコ姫

倉阪鬼一郎散文詩集

まぼろしの三詩集『ふるふると顫えながら開く黒い本』『だれのものでもない赤い点鬼簿』『何も描かれない白い地図帳』から。
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