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「トラディツォナール」パンケーキ ~ルーマニア・シビウ

 赤茶けた煉瓦の塀は、所々が剥がれ落ちて粉を吹き、荒れた肌を晒している。石畳に染み付いた、あたかも木洩れ日でできた影のようなグレーの斑模様が、「時代」をいっそう漂わせるようだ。
ルーマニア中部・トランシルヴァニア地方の町、シビウ。
 朝八時になろうかという頃、散歩へと宿から出てそぞろに歩いてみると、町はしんとして、犬の散歩をする人の靴音が響き渡るほどだ。日本じゃ「見えざる力」に背中を押されたウンザリ顔の人々が、電車の中でひしめいている時間であり、その感覚でいえば、早朝五時か六時ともいえる静けさである。ガッコや会社の始業は一体何時がフツーなのだろうか、八時代から営業していると分かるのは銀行ぐらいであり、なんだか飛び抜けて例外な施設、のように思われてくる。
  通りに沿った家々や商店はほぼ密着して並んでいるが、てっぺんが水平なビルが入り込んでいるわけでもなく、無秩序的な感はない。どころか、寄り集まっているからよけいに――噛めば噛むほどその旨みが滲み出るスルメのように、時の流れとともに醸成した汁を濃く湛えており、その匂い・地に据わったひとつの「世界」を、町全体でもって異文化からやって来た人間に知らしめているようだ。
  ぐにゃりとした柔らかさ、とでもいうのか、フリーハンドで描いたような緩い輪郭の建物たち――それぞれがこれみよがしとオデコをおろす、その屋根の表面にビッシリと張り付く瓦とは日本のものに比べれば小さいのか、近眼の私がパッと見ると、籐製の籠の目のようだ。或いは燕の巣。所々がカサブタのように剥げ、時の流れに自然に任せたまま放ったらかしているのは、これも味わいのウチ、と開き直っているのか。
  どこか、絵本の世界にでも立っているような気がしてくる。たいてい二階建てのようだが個性を尊重されて、ケースの中の色鉛筆みたいにノッポもあればチビもある。加えて坂道だから、ジッと天を見ていると、乱高下する空の高さに「あれ?」と、感覚が斜めになってくるようで少々フラついてしまう。
  そのなかで唯一震えも揺れもない、ものさしでシャッと引いたような線にあるのは教会であり、だからこそ「神聖な場所」であることを浮き立たせているようだ。
  一二世紀、シビウはドイツ人入植者たちによって作り上げられた町で、商業で栄え、1571年から1711年までは、ハンガリー人が支配層である「トランシルヴァニア公国」において重要な地点であったという。トランシルヴァニア公国はのちにハプスブルク家の統治する「ハプスブルク帝国」の支配下となり、さらに第一次大戦後、ハプスブルク家がオーストリア皇帝とハンガリー国王を兼ねる「オーストリア・ハンガリー帝国」が解体されると、シビウは「ルーマニア王国」(1878年にオスマン帝国より独立)に併合される。(のち、ルーマニア王国は王政が廃止されて「ルーマニア人民共和国」となり(1947年)、「ルーマニア社会主義共和国」と改称(1965年)。1989年の革命を経て、現在の「ルーマニア共和国」となる。)
シビウにおける現在の人口は約十七万人。民族構成はルーマニア人が95%を占め、ハンガリー人(2%)ドイツ人(1.5%)と続く。(wikipediaより)
「ドイツ色が強い町並み」らしい。…と、「ドイツ色」たるものが、行ったことが無いからすんなり「そうね」とは出てこないんだけれども、「中世っぽい」とか「歴史的」等の言葉を並べたくなるこの感じが、だろうか。コクのある味わい――それも、無理に保存している感がないから嫌味がない。ツーリスティックな気取りがない。
  私としては、旅のルートにあり、地図も(ガイドブックに)あるし宿もそこそこの値段みたいだし、ということでほぼ気まぐれ的に立ち寄ったのだが――旅番組のナレーター気取りで、町のそぞろ歩きに酔うのも悪くなさそう。墨汁を零したように、角っこから蔦が絡み、伸びに伸びて壁を覆い、窓の部分だけぽっかり「ナニ?」と目を開けているような家々に向かって、「ねぇおばあちゃん」などと、おとぎ話のノリで話しかけたくなってくる。
  旅というものに、特に風情を求めてはいない私でさえこんな風だから、観光メインでこの辺を回る人にとっては放っておけない処だろう。小さくとも、外国から・多くは欧米からの旅行者がそこそこやって来る町のようで、いかにも外国人受けを狙っているカフェや土産物屋が並ぶエリアもあることはあるし、私が泊まった家族経営の小さな安宿もまた、ただ安いだけじゃなく、庭には石ころを敷き詰めてガーデニングもさりげなく、屋内には雑貨屋的なインテリアを配置するなど、町にしっくり溶け込んだ家屋でありながらも快適さ・居心地の良さを目指していることがうかがえた。おそらく宣伝には、外国の「自分の家」のような感覚でくつろいで欲しい、という文言がきっとある。

ニタついた屋根


  単なる散歩は「外出」の範疇にはみなさないのか、頭にカーラーを巻いたまま通り過ぎるおばさんに、のんびりとした街の雰囲気が伝わってくる。たまに、勢いあるツカツカ音に気付いて前を見れば、細い紐を肩から吊り下げてゴージャスにヒダをなびかせる、青いワンピース姿の女性がやってくる。こちらにとっては「結婚式用」ともみなせる服を、普段から着こなす女性をこの地で目にするのは珍しくなく(日本でもたまにコスプレ嬢に会うけれども)、「こんな派手な服は外に着て出られない」というセリフなんて存在しないだろうきっと。
  そうやってフラフラ、よそ見しぃしぃ小一時間ほど歩いたのは、「朝飯探し」が目的でもあったからだが、全くもって、どこもかしこも「開店前」。出直して来いと言われているような、妙に響き渡る鳥たちのさえずりを背に、じゃあ宿に一旦戻って無料のコーヒーでも――という時に、見ぃつけた。
   というよりやっと、気付いたのである。
「ソコ」は、宿から町の中心部へ向かう、という時に必ず歩いていた通りに在った。しかし看板などの目印となる自己主張もなく、「絵画な景色」にすっかりと収まり込んだその前を毎回通り過ぎるだけであったのだが、見慣れてきたからだろうか。……なぜだか浮いていないかココ、と、ふと違和感が生じ、立ち止まった。
  ――ガラス戸である。ソコだけ「透き通っている」。ギィィ…っと軋む音を思う、木製の門や重そうなドアが並んでいるような中で、ナンか軽いというか、そぐわないことないか。
「何かある」と、ピンときた。…っていうか、開け放たれており、その中を覗いてみると、ガラスのテーブルが大小二つあり、パイプの椅子も数個。
「店」みたいだ。…食堂、だろうか。
誰かいる。肩から腰までが一本の大樹のような、頼りがいありそうな背中――が、こちらの気配を察したのか、ちょろっと翻った。
おばあさんだ。頭に三角巾をすっかりと頭に覆い、眉間にしわを寄せている。ほんの少し覗かせた白髪の生え際、その下の目は「どうしたの?」とでも言いたげにクリクリと瞬いて、…イヤ、あの…、と、なんとなく、こちらが狼狽えてしまう。
  おばあさんが向かっていた壁際は、キッチンスペースだ。角っこには2ドア式の冷蔵庫があり、その横には引き出しと開きがついたステンレスの調理台、そしてさらに隣には下にオーブンが備わった三口のガスコンロがある。頭上の開き棚といい、ステンレス台以外は殆どが木目調であり、「店の厨房」というよりは「ウチの台所」のインテリアだ。しかもコンロの隅にある「流し」が、簡易洗面台的というか、あまりにこじんまりして使い難そう――ホントに店だよね、と、テーブルのセッティングや、支払い用レジの存在を改めて見直してしまう。
  いま逃げるのもヘンだし、とりあえず「初めまして」とだいぶん口慣れてきたルーマニア語を呟きながら屋内へと踏み入れた。何を売っているんですかココ、と。
  と、その太い腕、大きな指の先にある、搗きたての餅のような「玉」に釘付けになった。
  野球ボールよりはやや大きい、白い粉のまぶった丸い――「生地」らしいものが、赤いプラスチックのトレイに十個か十二個か納まっている。赤ちゃんの膨らんだ頬のような、いかにもヤワヤワな感触が、ただ見ているだけなのに不思議とリアルに伝わってくる。
裾を出した半袖シャツとズボンの上から、白地に赤縞のエプロン姿。「味噌作り」…なんてやんないだろうし「餅搗き」もしないだろうけど、三角巾を締めたその出で立ちに、町内の婦人会でイソイソ出かけてゆく田舎の叔母の姿が思い出される。が、婦人会でもなく、いまここにはおばあさん一人きりのようで、その腕は生地を扱っている只中である。店番というわけでもなく、ここのメインのなる職人のようだ。
  …パンの生地、だろうか。
 ――「プラティーナ」と言った。
フツウの単語覚えはいまひとつだが、食いモンに関しては、脳細胞の隅っこ、どこかしらにひっかかっているモンである。ガイドブックだったかエッセイだったかで、読んだことのある単語の響きだ。
「ルーマニア版・パンケーキ」。
 本格的な「地もの」を発見したのかもしれないと、朝限定で提供される無料の「挽きたてコーヒー」などどこぞに飛んでしまい、浮き立った。もちろん、ひとつ欲しい。
――見せてほしい。
 
  一旦、台に散っていた小麦粉を綺麗に拭きとり、表面のステンレスを光らせたら、生地を一つ、トレイからムニュっと掴んで前へ持ってくる。捏ねて捏ねて、「発酵」させたことが伺える弾力だ。その端を口にくわえ、ビヨーンと引き伸ばす心地に酔ってみたい。
台の上、小さな容器に入った「サラダ油」に手を浸し、そのテカった手で生地を潰すよう、円形のCDサイズに広げてゆく。くっつき防止の為の、手粉ならぬ「手油」である。
  そうしてテカりの移った生地の上に、「具」を載せる。
「数種あるヨ」――と見せてくれた「具」とは、「チーズ」「じゃがいも」「スメタナ(サワークリーム)」等々…。そしてデザート的に、「リンゴの甘煮」が、種類別に容器に入っている。
「バルザ」を選択した。バルザとはキャベツの意味だ。
「具はキャベツ」とだけ耳にしたならばフツー、キャベツには悪いが正直「華」がないというか、「キャベツぅ?」とトーン低く吐き出すだけで、まず自ら進んで選ぶことはないと思う。だがここ・ルーマニアでのキャベツ料理は結構侮れないのである。
  食事どきに、総菜屋(スーパーの)で出来合いを買い込むことが結構あるが、上手そうな色の肉煮込みの「ついで」とばかりに、炒めてあったり、漬け汁に浸かってしんなりしている「キャベツおかず」をよく買うんだけれども、たいていハズレがなく、ともすればメインよりも印象に残るほどに味が良いのである。だからきっと、コレを選んでおいたらば、おそらく無難には満足できるだろう。なますのように細切りになっているそれは、やはり見た目は地味なんだけど、作り手がこのおばあさんであろうからして「熟練の」味であることもなんとなく期待されたわけだ。
  しんなりとしたその汁気をギューッと絞り、たっぷりと、広げた円盤の上に載せる。…タップリすぎやしないか。食う側としてはモチロン、具とは多ければ多いほどに喜ばしいんだけれども、果たして包めるのだろうか――と見ていると、これが丸く収まるもんなのである。生地の端っこ部分、僅かに残されているノリしろを摘まんでクイッと円の中心部分まで引っ張たら、生地が動かないよう抑えているもう一方の手に、その(摘まんだ)部分を渡す。
  それからはもう肉まんの具を包むイメージで、ぐるっと円周に沿って「摘まんでは中心に寄せて」ゆき、最終的に具を包み込んでゆく。 
どっしりと、安定感のある大きな手だ。そして一つ動作を変えるごとに、「ネ」と念を押す。――こちらとしては、隅っこから邪魔にならないよう眺めるだけのつもりだったのだが、ノリはお料理教室的に、ゆっくり、スローで手つきを見せてくれるのである。面倒見の良さがにじみ出ている顔だ。いきなり踏み込んで来たハズなのに、こちらも最初からそのつもりだったかのような気になってくる。
そうしてすっかりと包みキュッと締めたら、上から押し潰すよう再び「円盤」へとそれを広げる。直径二十センチ程度か。中の具は生地にビトッと密着し、ツブツブとした跡が表から伺えるけれども、どうにか突き破らずにいてくれている。
  で、これを焼く。既にコンロに準備してある、昭和の台所にあるような鉄製の真っ黒いフライパンに油を「ひく」――どころではない。ポトポトポ…と、実にいい音を鳴らしてボトルから注ぎ込まれた油は、波打ち、天井の照明を反射していた。
  作り手である頭巾ばあちゃんの腰回りに、…ウン、と納得してしまう。


  ――出来た。
コンガリと焼き上がった(揚がった)のを、トングでフライパンの上からぶら下げるように挟んで余分な油を滴らせ、とりあえずキッチンペーパーを敷いた皿の上へ置く。みるみる油のシミが出来てゆき、――どうか、ぐんぐんと油を吸い取っておくれ。
 ルーマニア版「パンケーキ」…?
  英語で説明するとしたら、…まぁ、「パン」(フライパン)で焼くからそれはそうなのかもしれないけれども。お好み焼きを「広島風パンケーキ」というのと同じぐらい、現物を見るとちょっと無理やりな感がなくもない。
「パンケーキ」というと、一面ムラなく焼き上がった「どら焼き」色(理想)の円盤型に、バターを載せ蜂蜜を垂らし、ナイフで三角に切りながら食べる、というアレを浮かべる(それより分厚いのが「ホットケーキ」)。その断面は細かい気泡の入ったスポンジ状であり、「ケーキ」という言葉もそう違和感がないが、この円盤の、斑に強い(黒い)焦げ色がついたヒョウ柄はどちらかというと「蜂蜜タラり」のソレよりも、インドの無発酵パン「チャパティ」に似ている。1.5センチ程度の厚みは、卵の力でフンワリ膨らませたのではなく、発酵した生地であるにしても単純に「具」を包み込んだことに因る部分が多く、「パンケーキ大」のいわゆる「お焼き」(長野名物を想像して)である。いや、「焼き」というよりは「焼き揚げ」――素直に「揚げパン」と認めてあげていいと思う。


  出来上がった円盤状を半分に折り、それに白いキッチンペーパーを巻き付けたら、半透明のビニール袋に入れる。「テーブルにいきなさい」と促されて座ると、もう一枚ペーパーを千切り、それを敷いた皿の上にビニールごと載せて、「召し上がれ」。
  …って、エラい丁寧な。持ち帰りならともかく「今、ここで食べる」と言っているだから、素肌を晒した「円盤」のまま皿に直接のせ、フォークとナイフでもつけてくれたらもういいんじゃないかと思うんだけども。それとも、サンドイッチのように、手に取って「齧り付いて」食うモンなのか。
ならば確かにビニール袋はあった方がいい。「ココ持って」のつもりの白い紙とはいえ油が既に染み渡っていて、触れる前からもう、指がヌメってくるようだ。だが、ビニールに入っているのに皿にのせ、加えて紙も敷くのって、ちょっと無駄なんじゃないか。和菓子に懐紙が敷かれるように、「皿の上に直接置くってのは、なんだか無粋」とかいう感覚があるのだろうか。経費節約しなくていいのか、ばあちゃん。
  とはいえ、そんなことはホントはどうでもいいのである。――出来立てだ。食べる前からもう、熱気が肌を刺激している。それだけで贅沢であり、ウレシイ。
  半月形となったその先端から、いざ。
  ボコボコと水膨れとなり、斑模様となった表面は、出来たての「サクッ」感もありながら、噛み千切るときの「伸び」もある。油で火を通すからのこその香ばしさと、甘さがまたイイ。
炊き立てのご飯のように、この皮部分だけでも食べ進められる気がする――が、やはり。スポットを当てて味わうべきは「バルザ」だろう。中から、やや太めの千切り、その切れっぱしが、「どうも、ご指名されまして」と垂れ下っている。
  …「甘い」。
  なにか香草らしきもののみじん切りが、ちくわ天に混じる青のり程度に混じり込んではいるが、それ以外のものは見当たらない。なのに「玉ねぎの飴色炒め」?と思えるほどのその甘味は、いったいいかなるマジックを加えたのか。それとも、この青のりがポイントなのか。
  反応に気づいた頭巾ばあちゃんは、改めてそれが入ったポリ容器を持ってきて、蓋をめくり見せてくれた。たびたび気にかけて貰い、まるで自分とは小さな迷子ちゃんみたいな気がして少々恥ずかしくなるなか、フライパンに指をさしながら、何ぞやを説明してくれる(もちろんルーマニア語。私は旅用会話の本しか持っていないのだが)。その動作と、特に変わった色をしていない中身のその見た目から察するに、おそらくキャベツを塩コショウで単に炒めただけだろう(テーブルの上の塩、コショウを指差した)。
  だが「それだけで、コレ?」と、長年慣れ親しんできたキャベツの一体どこを捲ればこうなり得るのか不思議不可思議極まりないその旨み――期待以上である。おそるべしはルーマニアのキャベツ料理であり、なんと安上がりに得られる感動なのだろうかと、皮肉抜きで敬意を表する。
表面の油っ気に慄いたものの「しつこさ」はなく、出来立ての美味しさに騙されてアッサリ食べ進めてしまった。実際、「アッサリ」とはこの体を通り抜けてくれないんだろうと、口の周り、そして指の「ベッタベタ」を思えば推して知るべし。
  この指でカバンなんて触りたくないから、ナルホド、「皿の上のペーパー」というのは丁度欲しい「もう一枚」なのだ。一見、紙の過剰サービスにも思えたが、考え抜かれた「セット」だったのか。確かにテーブルの上に「どうぞご自由に」とまとめて置いて、手持無沙汰にパッパッと必要以上に抜き取られてしまうより無駄もなく、過剰どころかよっぽどいい、というモンかもしれない。
「トランシルヴァニアの、伝統的な食べ物よ。」
――とは、「空から光が降り注ぎ、大地に目を落とすと、焼け野原は一面の花畑へと姿を変えていた」とかいう捻った文章でもないから、単純に単語をピックアップしてゆけば簡単に理解できるセンテンス。
「トラディツィォナール」――なんとカッコイイ響きであることか。
  だがいかにも「職人」がつくった、という気張った感などは無く、その姿そのままに「おばあちゃんの台所仕事」。――…ってそれこそが昔からここに在ることの証明みたいなモンであり、あぁ、だから「トラディツィォナール」なのかと、説得力がドンとくる。
  九時開店だという。
  ということは、明日もまた、それより前に行くべし。散歩をやめて直行したならば、きっと、生地捏ねから見られることだろう。
…今度は、具にチーズを入れて貰ってみようか。

(訪問時2013年)

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