見出し画像

何者かになりたくて仕方なかった自分がなれたもの


ずっと何者かになりたかった。何者かにならないといけないと思っていた。

それで焦って、苦しかった。

色んなことに手を出してみては、本当にそれをやりたくてやっている人達には敵わず、次々に使えない武器を増やしていくようだった。

そんな僕が、今のところでなれたと思えたものについての話。


***


cotreeという会社のコーチングサービスを受けた。

そのコーチングはアセスメントコーチングといって、事前に受けた性格分析テストの結果を元に、自分の特性を理解していくという内容のものだった。

これまでそういった類のテストを受けていてすでに分かっていたことなのだが、諸々の性格特性を表す線グラフは、ほとんど凹凸のないつまらない結果になっていた。

それを見て、やっぱり自分は何者でもないよな、と思ったし「自分はこういった者なんですと語れるものが、そういったスキルがないんですよね」とコーチの方にも話をした記憶がある。

だけど、その時にコーチの方に言われた、


「親になって、家族を作っている、ってそれだけで立派なスキルですよ」



という言葉が、今の自分を、そしてこれからの自分を、体の奥の方からすっと支えてくれる気がしてならないでいる。


***


とても恥ずかしいことだと自覚をしているが、僕は好きだと思った相手と恋人になり、結婚をし、子どもを持つことで自分が親になることは、自分にとって当然のことだと思っていた。

だから妻と出会って、結婚することになった時には、これから妻は妊娠をし、自分はその子の親になるのだと当たり前に思っていた。

まず違ったのは、第一子を流産したことだった。

早期でのことだったので、妻への負担も少なかったのだが、いきなりの想定外だった。恥ずかしながらも、子供ができて、無事に生まれることが当たり前ではないことをここで知ることになった。

そして、子供が無事に生まれてからも想定とは全く違っていて、それは子育てが思ったより大変だとか、お金がかかるなとか、妻との関係も変わってくるなとか、色々あるけど、最も想定外だったのは、前回も書いたように、日々自分でも知らなかった気持ちや感情が次々と生まれてくることだ。

もう見限っていたはずの自分にあらためて出来ることがあったり、それでもやはり出来ないことがあったり、それらを通してあまりに無力過ぎるその命と向き合うことで、新しく芽生えてくる気持ちや感情がたくさんあった。

決してあたり前ではない、そうした日々の瞬間瞬間を乗り越えていくことで成長するその姿が自信を与えてくれている。

逆に逃れようのない責任も感じるが、それは今まで取っては捨てるを繰り返して来た武器とは違う、どんなことをしたって離さない、死んでも守りたい存在に対して自ら負った責任だ。


間違いなく、僕は「親」というものになっていた。


「親になって、家族を作っている、ってそれだけで立派なスキルですよ」


だからきっと僕はこの言葉に救われるのだ。


そして、

「あなたは何者?」

と誰かに聞かれたら、胸を張って「この子の父親です」と今は言える。


親になったり、家族をつくることが良いよ、救われるよと言いたいわけじゃない。

僕が言いたいのは、誰かのために当たり前に負ったその責任や、そこで生まれた気持ちや感情は語るに値する、きっと価値があるものだということなのだと思う。そしてそれは自分を何者かだと十分に語り得るものなのだと。


そんなことにふと気付けるかどうかが、とても自分にとって意味のあることのように思えたので、書いてみました。


読んでくださって、ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?