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自己紹介という名の野球人生

初めまして
林 一茂(はやし かずしげ)と言います
父、人目の息子ということで
一茂と名付けられました

決して長嶋一茂さんからは来ておりません
野球に熱い一族では元々ございません

昭和63年生まれ
大野雄大、坂本勇人、田中将大、前田健太、
柳田悠岐、斎藤佑樹などと同世代になります


2022年より京都で少年野球の監督をしております

何かしらで僕のことに興味を持ってくださり
ここにたどり着いてくださったことと思います

誠にありがとうございます☺️

自己紹介をさせていただきます
というよりは僕が
どのような野球人生を歩んできたか
深すぎず、浅すぎずでダラダラ書きしるします

長い!と感じた方は、そっと閉じてください🤗
貴重なお時間取ってしまい、すみませんでした💦
先にお詫び申し上げておきます🙏

ではよろしくお願いします


野球人生を振り返る


野球現役生活15年(1997~2012)
※現役生活=NPBを目指していた期間

9歳〜12歳 洛北ヒーロー
13歳〜15歳 西賀茂中学校野球部
16歳〜18歳 京都外大西高校
19歳〜20歳 駒澤大学中退→Ritsベースボールクラブ(現ミキハウス)
21歳〜22歳 大阪ゴールドビリケーンズ
23歳〜24歳 香川オリーブガイナーズ
24歳 現役引退


野球を始めるまで 8歳〜9歳


元々小学2年まで野球が大嫌いな小学生でした
理由は「ドラゴンボールをプロ野球中継で潰されたから」

三浦和良選手のような
Jリーガーになることを夢見てました
しかし、小学校2年の頃に
生まれて初めて行ったJリーグ生観戦により
サッカー熱が一気に冷めました
理由は「試合があまりにもつまらなかったから」

小学3年の頃
ドッジボールが強いという理由で
友人から野球チームへの勧誘を受け、渋々参加

超スパルタ指導(俗にゆう体罰)を
目の当たりにし
「入団しないと、監督に僕は殴られるのではないか」
という謎の恐怖が芽生え、強制的にチーム入団


少年野球 9歳〜12歳


所属していた少年野球チームの監督は
前述のとおり、とてもとても厳しい監督だった

自主練習を怠ると、すぐに見抜かれ愛のムチ

試合中、投手でストライクが入らなくなると
タイムをかけて呼び出され、皆の前で愛のムチ
(今では考えられない世界)

練習は平日(水金)21時ごろまで
(今では考えられない世界)
日曜は基本的に試合

自分たちの代にてキャプテンを経験
地域では敵なし、市内大会もいくつか優勝を経験
全京都大会はベスト16
(当時は参加300チーム越え)

6年7人、5年2人、4年1人
計10人しかいないチーム
(スパルタで有名なせいで人が集まらない)

練習量や、今思うと
理にかなっていた指導のおかげで
チーム全体のレベルが高かった(少数精鋭)
恐怖に怯え、子供なりにツラい思いをしたが
継続することでしか成長できない
ことを痛みと共に知る

この経験が僕の野球人生の
考え方の基本となる
当時の指導者の皆さん
特に監督にはほんとに感謝しかない
(僕は指導者として体罰はしませんけどね🤣)


中学野球 13歳〜15歳


中学は地元の中学野球部に入部
3回戦いけるかどうかほどのレベル

それもそのはず
指導者は基本不在、理不尽な上下関係
(自分達の代までバット握らしてもらえない)
グランドといえば両翼50メートルあるかないか
それをサッカー部と陸上部でたまに共有する
(塁間をなんとか確保できるかくらい)

ハングリーな環境のもと、それでも腐ることなく
(ちょっと腐った時期もあったかな😅)
少年野球で野球の厳しさを学んでいたおかげ
自分なりに野球を研究(読書など)

自分達の天下(代)がくるまで
同級生みんなでひたすら我慢

そして見事エースとして京都府制覇!(学校初!)
特待生(学費免除)で京都外大西高校に進学!

「中学野球は硬式か?軟式か?」の議論があるが
このような経験をした僕からすると
環境も大事かもしれないけど
どこに行こうが最終的には自分!てことを痛感


高校野球 16歳〜18歳


いくつかの高校からオファーを頂いてたが
特待生(学費免除)で親孝行ができる
という理由で、京都外大西を選択

当時は失礼ながら、京都で高校野球といえば
自分の中では平安(現龍谷大平安)の一択で
京都外大西を知らなかった

が、結局蓋を開けてみれば
高校3年間、京都で甲子園に出た高校は
京都外大西(3回)と福知山成美(1回)のみ
(高2のセンバツは京都からは不選出)

平安は1度も甲子園に出れずじまいだったので
とても運が良かったと思う

甲子園戦績

2004年 夏 ベンチ外
1回戦 VS日本文理(新潟)
2回戦 VS横浜(神奈川)

2005年 夏 2回戦からレギュラーで出場
1回戦 VS菰野(三重)
2回戦 VS関西(岡山)
3回戦 VS桐光学園(神奈川)
準々決勝 VS樟南(鹿児島)
準決勝 VS宇部商業(山口)
決勝 VS駒大苫小牧(南北海道)

2006年 春 レギュラーで出場
1回戦 VS東海大相模(神奈川)

2005年 夏 高校2年

  • 京都府予選は補欠(代走1回のみの出場)

  • 甲子園2回戦からレギュラーで5試合出場(主に2番ライト)

  • 5試合中4試合でヒット(計5安打)

  • 当大会1位の4盗塁(二盗、三盗、本盗すべて記録)

決勝戦は2安打を記録
田中将大(楽天)選手と対戦

2006年 春 高校3年

  • 東海大相模と対戦(2番レフト)

  • チームで唯一のタイムリー

  • この活躍もあり、早々に大学進学先が決まる


紆余曲折はあったが
想像以上の高校野球(夢物語)を経験
野球人として、人として何皮も剥けた
高校生活だった、感謝しかない


大学野球→社会人野球 19歳~20歳


推薦で駒澤大学へ進学
大島洋平(中日)選手と同部屋で野球を学ぶ
しかし環境に適応出来ず、早々に中退してしまう
この経験は自分にとって
いまだに夢に出てくるくらいのトラウマ

プロになるという夢は閉ざされかけ
周囲の大人から見放される
どうしていいのか分からず、自己嫌悪に陥る

それでも野球を続けたい!プロになりたい!
その気持ちがチャンスを呼び
社会人クラブチームへ

入団テストを兼ねた練習試合
VS大阪ガスで2安打を放つ

その後、不動の1番打者として
社会人野球を2年間経験する
京都大会にて優秀選手賞受賞

チームには、ハイレベルな先輩方が
たくさんいらっしゃり
たくさんの事(野球や社会の事など)を
学ばせてもらった、とても可愛がってもらった

しかし週末のみの活動であったため
この環境でプロ野球選手になるのは
正直厳しいなと感じていた
なんともやりきれない状態であった

そこに独立リーグ(プロリーグ)という
新たなチャンスが舞い込んできた


独立リーグ(大阪) 21歳~22歳


2009年に関西独立リーグが発足
(大阪、神戸、明石、和歌山の4球団)

これはチャンスでしかないと感じ
トライアウトを受験(受験者数480名)

余談ですが、一次選考のアップで
キャッチボールの相手してください
と声をかけられたのが
後に日本で女性初のプロ野球選手になる
吉田えり選手

トライアウトの結果は
大阪球団からドラフト2位指名(野手1位)

村上隆行さん(ソフトバンク打撃コーチ)や
様々な元NPB選手のもとで野球を学ぶ

阪神タイガースとの練習試合なども経験し
NPBとのレベルの差を知り(良い意味で)
自分ももしかするといけるかもと感じ始める

初年度、ゴールデングラブ賞受賞

しかし2年のシーズンを経て
スポンサーの大量撤退による
経営難により球団は消滅

交流戦で僕のプレーを見て気にいってくれた
香川球団からオファーを受け、移籍を決意

大阪での2年間はかけがえのないもので
本当に大好きな球団だった


独立リーグ(香川) 23歳~24歳


オープン戦で1試合4安打の活躍などをし
1番センターとしてレギュラー奪取

ソフトバンクとの開幕戦で
二保→甲斐のバッテリーからヒットを放つなど
順調な滑り出しを見せるも
野球以外の部分に気を取られ、レギュラー剥奪

その後、自分なりに立て直してはみたが
上手くいくことの方が圧倒的に少なく
勢いを取り戻すことができないまま
24歳のシーズン終了をもって
自ら現役引退を申し出

あっけない幕切れとなった


野球人生を振り返ってみて


野球を通じて、普通味わうことのできない
たくさんの経験をさせてもらえた

特に香川での悔しい2年間があったからこそ
今の自分がいると思っている

もし仮に香川で上手くいって
NPBの世界に飛び込んでいたら
当時の僕の考え方では、絶対に通用しないし
ダメな選手で終わってたと思う

今、僕は指導者として子どもたちに
一番大切に伝えたいと思っているのは
技術よりも
ここを大事にしないと、絶対に上手くいかない

これは決して野球に限ったことだけではない
自分自身の人生においても
後悔ないように全うするためには
絶対に外せない部分で、僕自身も常に死ぬまで
心を磨き続け、学び続けないといけない

こういった事を教えてくれたのが野球
僕にとって野球は人生そのもの
野球さん、死ぬまでよろしくお願いいたします

最後まで読んでくださり
誠にありがとうございました


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