登山の宗教性について

日本人が登山と宗教という組み合わせと聞いて思いつくのは山岳仏教や修験道、自然信仰のようなものだと思う。でも僕がここで言いたいのは少し違う。修験や自然信仰においては、登山という行為、あるいは儀式を宗教の中に内包している形だ。だが僕が言いたいのは、登山そのものが宗教の性質があるということだ。逆に登山そのものが宗教的であるからこそ、人が作った宗教のためのツールとして使われるようになったと言えるのではないだろうか。

登山のどのあたりが宗教じみているかというと、登山者は登山は「良いこと」だという盲目的な思いを抱いている点だ。

そもそも山に登る必要性ついて合理的に説明することは難しい。山を全く登らない人に登山の面白さを説明するとき難しいと思っている人は少なく無いはずだ。

登山の理由についての説明はいくつかあるが、たとえば身体を鍛えるというのがある。しかしこれは何も山に入らずとも他にも方法はいくらでもある。良い景色を見るというのもありがちだが、必ずしも山だけが良い景色じゃないし、自分で登らずとも絶景に至る山もある。達成感に至ってはありとあらゆるスポーツや趣味で得られそうな感覚だ。

なのに山登りにこだわる理由は登山がある種宗教的な盲信、本人がそれが信仰とすら気づいていないほどの強烈な信仰心、登山に対する善の心がある。「山に登る人に悪い人はいない)とすら思うほどである。

ここで宗教の定義を確認しよう。広辞苑によると「神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事」とある。まさに山こそが超越的で神聖なものであり、そして登山行為そのものも神聖視されていると言える。この神聖さというのは絶対的な善の感情であり、心の支えなのだ。

登山は宗教同様に人の心の支えになり得るものであるが、登山のみならず大体の趣味というものは心の支えになり得る。例えばアイドル趣味などはまさにその名の通り偶像崇拝そのものだ。漫画やアニメなどもそうで、宗教をアナロジーに出されることもしばしばある。

しかし僕は明確な違いがあると思う。そこはやはり人が作ったコンテンツであるというところだ。もちろん三大宗教なんかも人が作ったものであるが、もはやその存在は人の手を離れて久しいので比べ物にはならない。人が作ったコンテンツでは人の欲望を刺激し快楽を引き出せるよう意図的に設計されている。それは宗教というより薬物であり、信仰というより、中毒だ。

一方、登山は自然を前提として成り立っており、その周りに人がいる。もちろん登山道は人が作ったものであるが、登山道自体が何か人の欲望を刺激しているわけではない。登山には他人の意思は介入していない。

登山をしたいという気持ちは単なる欲望では説明がつかない。もちろんSNS時代では承認欲求から登る人もいるだろう。しかし本来そういうものではない。とはいえ山スキーはどうやらスポーツ的な快楽、そういうものも含まれていると僕は思っているが、僕はスキーをしないのであくまで偏見である。

登山と他の趣味が違うという点はまだある。それはいかなる場合でも登山は感情をポジティブにする点だ。これは僕(信者)の意見であるのでかなり偏っているが。人が作ったコンテンツ系の趣味(作品鑑賞系)だとかならず期待が生まれ、期待とギャップがあったときにそのコンテンツ作成に関わった人に対してなんらかの感情が生まれる。ときに感謝、ときに憎しみであり善悪入り乱れる。

翻って、登山にはそれはない。ただただポジティブな感情しか生まれない。なぜなら相手は自然だからであり、自然に対して怒りを持ってもしょうがないからだ。むしろその自然と対峙することを糧とすることを厭わないのが登山者である。登山を信仰して登っていればつまらない山などなく、全ての登山に意味があり、全て善の感情を抱くものなのである。

そして登山は宗教のように宗派みたいなのも存在する。登山道を歩くのが良いとされて登山道を外れるのは悪とされていたり、クライミングでも岩を傷つけるのは良しとされず悪とされたりなど。登山道整備の話や、山での焚き火や、そういった自然に対してどれだけ人の手を加えるかとか、人の力だけで登れるのかとかそういう話題が出ると議論は白熱する。そして人それぞれが心に教義を持っているような気がする。

ここまで書いておいてなんだが、これらはスポーツ全般に言えるような気がしてきた。気がしてきたが、少し違う気もする。それはなぜかというと、登山は修験道や山岳仏教的な宗教の修行ツールとして採用されている点である。近代スポーツとはそこが違う。

なんでその違いがあるかというと、やはりルールなど人為的なものが少なく、自然と対峙する行為だからであろう。ルールはあるが、議論の余地が常にある。正解は自然が決めている。そこが宗教っぽいと思う。自然と対峙するからこそ、そこに神性、善性がある。だからその神性を仏教や修験道はそのまま取り入れたのだと思う。

つまり登る人は皆「登山という宗教」の信者だと思うのだ。

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