見出し画像

僕が山に登る理由。

登山の楽しさとは


僕の結論から言うと、人が山に登る理由は、登山は個人がプロセスやストーリーを味わって体験できるからなのだと思う。実は登山の面白さの本質は山頂の景色ではなく、終着点に至るまでのその過程にあるというわけだ。山に魅せられている人はその過程そのものに魅了されていると言っても過言ではない。

山頂そのものに価値はない


こんなことを言うと怒る人もいるかもしれないが、山頂からの景色そのものに客観的に見て価値はない。写真でも見れるしGoogleマップでも見れる。珍しくも何ともない。

なので山頂からの景色の価値は個人的な相対的な価値だ。それを人に説明するのに、「達成感」というありきたりな言葉でしか表現できないのがもどかしいと思う人もいると思う。何せ山頂までの過程があってこその山頂であり、それを見たときの感情を言葉に表すというのはなかなか難しいことだ。

モノ商品からコト消費へ


昨今はプロセスエコノミーやコト消費など、商品購入の場においても体験や経験に価値を置く消費行動が増えてきた。経済が安定し、モノが溢れている時代に生まれた現代のZ世代はとくにそういう傾向があるらしい。製品の価値にお金を払う(モノ消費)よりも、体験や経験に時間やお金を投資する(コト消費)が増えている。

登山はまさにその考えに合致する。登山用品を集めるには実は結構お金がかかるが、登山という行為自体は純粋な体験であり、モノを消費している感じがしないのが良いのだろう。キャンプなども体験型の消費であるが、やはりサイト使用料や道具や食材によってかなりエンターテイメント性に差が出るため、モノを買ってる感はある程度あると思う。

「何を目指しているの?」への答え


体験やそのプロセスを楽しむ登山であるが、体験の結果、特に何も生まないというのが、この体験の密度を高めている気がする。登った結果、何か生産的なことがあるわけでもない。多くの生活の糧が山にあった時代ならいざ知らず、現代ではその必要はないので、登山は他者から見ると無価値と言っても過言ではない。

だが、それがいい。近代以降、何をするにしても生産性を求めらるようになってきて人々の暮らしは豊かになったが、同時にストレスも生まれてきた。だから生産性がない行為、つまり過程しかなくて、その先が特に無い行為をするということは、かなりリラックスできるような気がする。たとえるなら緩衝材の「プチプチ」を無心で潰しているようなもので、全部潰してなにが残るかというと、ゴミしか残らないが、そこには確かに全てやり遂げたという、本人にしかわからない謎の達成感がある。生産性を求め続ける現代社会からの逃避行動とも言える。

つまり、登山をしない人に聞かれる「何を目指してるの?」は全くナンセンスな質問だ。何も目指さなくていいから山に登っているのだ。ずっと過程、プロセスに没頭し、その密度を高めることそのものが快楽だから、人は山に登るのだと思う。もちろんなにか社会的な成果を出したくて山に登る人もたくさんいるだろうけど、ここではそこまでは深掘りしないでおく。





この記事が参加している募集

アウトドアをたのしむ

投げ銭をしていだけると生活の足しになります!!バクシーシ!!