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作れる正義


「顔が良くて性格が悪いひとと、顔がそこまでで性格がいい人、どっち選ぶ?」


多分人生23年間生きてきて10回は目に、耳にしたことのある質問。極端すぎるし、結局は顔が良くて性格がよければベストだよねって終わる生産性のない会話。


そもそも「性格」という言葉の明確な定義もわからないし、「性格がいい」とはどういうひとのことを指すのかも知らない。
「性格」という不完全なコンセプトに、それぞれの主観が入る「性格がいい」というカテゴリー分け。

もし「性格」という言葉が、その人がある特定の状況でどう対応するか(例:すぐカッとなる)ということを指すとしても、それはきっと状況によるだろうし、外から見ている者には分からない、その態度をとった裏のストーリーがあるかもしれない。

そんなふわっとしたコンセプトが重なり3重奏で奏でる会話は、むしろ同じ会話を共有できているのかさえ疑問に思う。



それでもどちらかを選ぶとしたら、わたしは断然前者だろう。

上記のようにケースバイケースすぎる「性格が良い、わるい」というコンセプトの不完全さを踏まえだけでも前者が優勢だと思うが、そもそも顔がいいということが最強すぎる。

わたしがいままで付き合ってきたひとは、好みの顔のひとばかりだ。(じぶんでは世間的にも「かっこいい」部類に入ると思っているけど、実際のところはどうなのかわからないからこれは置いておこう。)

だが、一度だけ自分の好みの顔とはそれなりにかけ離れた人と付き合ったことがある。

理由は中学生の恋愛みたいな理由で、友人グループ内でカップルx2が成立していた中、なんとなく気があう後輩といい感じになっちゃったから。みんなが集まった時の熟年夫婦x3みたいな安心感と、そこに第3者が混ざったときに起こるお互いのちゃかしのバランスに心地よくなってしまっていた。


お察しの通り、この一件はすぐに終わった。
原因を世間一般的にこたえるとしたら、価値観が合わなかったから。でもそれをさらに掘っていくと、単純に顔が自分の好みのでなかったことになる。それは例えばイラっとしたとき、顔が好みなのと好みでないのでは許せる範囲が極端に違うから。


もとは他人なのだから価値観がすべて合うわけがない。(特に同棲をしている状況で)自分のペースや慣れているやり方を乱されるといやな気持ちになる。とても些細なことだとしても。

それをお互いすり合わせていくのがお付き合いすることだと思うし、本来はそのプロセスをたのしむべきだ。でもそんなのはただの理想論で頭がお花畑ではないかぎり、ムカつくことはムカつく。


ここで生まれ持った顔が重大な運命をわける。顔が好みなだけで「その美しい顔で隣にいてくれてありがとう」という気持ちになり、さっきムカついていたことはとても些細なことに思えてくる。逆に顔が好みじゃないと、「その顔でこんなこともできなくて許されると思うのか」と小さなイラっが2倍3倍と肥大化する。

基本的にお別れは些細なきっかけが大喧嘩に発展しその最終案として出されるものなのだから、そもそも顔が好みな人とお付き合いし、芽が出そうな喧嘩の種を「ああ、顔が好きだな。今日もその顔の横で目覚められて幸せです」と思いながら土から掘り出せれば、お付き合いが長続きすると思ってる。


実際にこの顔があまり好みでない人の前にお付き合いしていたのは、顔も声もドがつくほどのタイプで、顔が好みでない人(何回言うんや)と同い年の彼。ほぼヒモ男だったけど、顔が好きすぎたのでそれなりに一緒にいた。

それこそ価値観とか考えが死ぬほど合わなかった(毎日ほんとうにびっくりの連続)けど、顔を含む容姿が好みすぎてたぶん喧嘩はほぼしてないと思う。


だからわたしが言いたいのは、結局世の中顔だということ。浅はかな考えだなって思う人もいるだろうけど、わたしはここまで分析してこの考えにたどり着いた。


だからと言っていいのか、最近は惜しみなく朝の準備に時間を割いている。平日はどうしても限界があるが、時間が取れる土日は2・3時間かけて朝の準備をすることもある。

以前は、朝の準備の時間(もはや昼になることもしばしば)がもったいないな、副業と自分のしたい勉強にその時間をまわすためにささっと準備しなければと思っていたけれど、化粧と髪の毛のセット、服選びに時間をかける時間は怠らないと決めた。


化粧でいうと影の使い方。
ヘアセットでいうと全体のバランス。
服選びでいうとカラーコーディネーション。

夢見る職業柄この3つの魅せ方を勉強中なので、無駄な時間と思わなくなった。そして続けているうちに、まさにこれが、人生の潤滑油(就活生かよ)だということに気づいてしまった。


もちろん恋愛においては、自分が相手が好みと思ってもらえる顔だという場合の上記の利点。

社会や人間関係においては、相手が「いいね」と思ってくれるところがあると、それと相まってプラスαにはたらくこと。(例 : お酒飲める+顔が好み // 一緒にいてたのしい+顔が好み)

そしてこれは持論だが、満員電車に乗り込むとき、おじさまたちが立つスペースを、気持ちばかりあけてくれている気がするところ。


だからわたしは結局世の中顔(を含む容姿)説を今日も全力で力説していく。顔が良くて性格が悪いひとと、顔がそこまでで性格がいい人、どっち選ぶ?って聞かれて「性格がいい」という定義のない理想を幻想するぐらいなら、「私は顔で選びます」と言った方が筋が通ってるんじゃないかな。



なお、全くを持ってじぶんの顔がいいと言いたいわけではない。自分が生まれ持った素材を化粧、髪型、洋服でより華やかに、努力を怠らないで自分に合った魅せ方を模索して、人生得なほうに転ばせようよということ。


かわいい・かっこいいは「作れる正義」。

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