湿度高めの感情をそのまま綴ってみる
特に何を考えるわけでもなくこの文章を書き始めた。
理由がなければ書いてはいけないという決まりはないことはわかっているのだが、このようにして書いている途中に我に帰り、冷めてしまうことは多々ある。
今回も冷めて途中で文章を全て消して世の中にお見せせずに終わるパターンな気もしているが、気にせず続けていく。
この文章は深夜に書いており、天候は雨。
東京から離れ北の地の地元に帰ってきて早3週間経つが、気温だけではなくどことなく心も冷たくなっているのかもしれない。
冷酷になったとかそういうのではなく、満たされていないというのが正しいのかもしれない。
実家にいると両親がいるため、高校生の頃から寮生活だった僕にとってはここ10年で一番両親に愛情を注いでもらっているのかもしれない。
そんなの知らんわ。と思っているそこのあなた。
僕も今、なぜこうやって文章を書いているのか分からないのでどうか何も考えないでいてほしい。
心の冷たさというのは、満たされていないからということであって。
岩手に帰ってくるまで、毎日友人に会っていた僕は今引きこもりのような生活をしている。
ただのコミュニーケーション不足なのかもしれないが、今の生活はすごく何かが欠けている。
思考を使わない会話、仕事に関する会話、愛を伝える会話、人に向き合う会話、好きなことを話す会話。
いろいろあるけれど、毎日この会話はできていない。
今まで色んなことを話すことで人との信頼を得てきたのだと最近になってわかった。
すごく小さいことでもコミュニケーショを取り続けるということはすごく大切だ。
離れて見たらわかる。というやつだ。
この感覚は、初めてモネの油絵を見た感覚に似ている。
モネに限ったわけではないのだが、しっかりと油絵を見たのが初めてだったため印象に残っている。
1ヶ月前までは人との会話は特に気にしていなかったけれど、人と話さなくなって、人は人のために生きて生かされているのかもしれないと思うようになった。
離れて見たから分かったけれど、大切なものは一度引いて見ないとわからないことの方が多い。
なんだってそうだ。
組織だって、アイディアだって、人間関係だって、なんでもそうだ。
離れて何かを見るということはすごく大切だ。俯瞰して考えるとかともいうが、物理的に距離を置くことによって本当にわかる気がしている。
僕は俯瞰して何かをするというのが得意ではないからかもしれないが、物理的な距離を取ることでそのものの価値を理解できることが多い。
無理に因数分解なんてするのではなく、すごくシンプルに見えたものをそのまま頭に取り入れるみたいな感じだ。
押してダメなら引いてみろも一緒。
正解だと思っているものがそうでなかったり、その逆も然り。
世の中は意地悪であるけれど、きっとこの雨はこの気持ちに気づかせてくれるために必要だったのかもしれない。
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