意識について、植物状態から考える

『生存する意識』を読んだ。本稿はその読書メモである。

もしこの記事を見たあなたが、閉じ込め症候群 (Locked-in syndrome) という単語を聞いたことがなかったら、今すぐブラウザを閉じてこの本を読むことをオススメする。
いや、もしかしたら閉じ込め症候群の患者が書いた本を先に読む方が、当事者意識を以って心に訴えかけてくるものがより切に感じられるかもしれない。

閉じ込め症候群の患者が書いた本としては、例えば下記である。


意識についての哲学は、端的に言えば
「意識とは何か?」
という疑問に答えようとする試みである。
しかし、哲学者でない人がその中身を見ると、空虚な議論をしているように見えるかもしれない。
実際に議論されている例を見てみる。あなたからすればあなたが意識を持っていることは確実であるし、あなたの友人・恋人・家族が同様に意識をもっていることも同様に確実に思われるだろう。しかし、一歩立ち止まって考えてみよう。時が人間の細胞の模倣が高度に進んだ2XXX年だと仮定して、あなたの友人が人間の体を持ったロボットだとしたら、どうだろうか。ロボットといっても、「人工知能」のような「高度」なものではない(人工知能は意識を持つか、と言う疑問はそれで一大トピックであるが、ここでは深くは立ち入らない)。事前にプログラムされた命令の通りに振る舞う、単純な機械である。事前にプログラムされた命令とは、例えばこんな具合だ。
・ハンバーグを食べたら「おいしいね」と言う
・「テレビをつけて」と言う声を聞いたらテレビをつける
・時計をチラチラ見て、7:35になったら「そろそろ行かなきゃ」と言い、玄関に歩く
こんな命令が一兆個書かれているプログラムが搭載されたロボットだとしたら、どうだろうか。いや、一兆個では足りないかもしれない。千兆個、いやいや、さらにそのはるか上かもしれない。
いずれにしても、命令の量は本質的ではない。本質的なのは、
外見は意識を持っているものと全く同じように振る舞うが、その中身は単純な命令の膨大な組み合わせで動作する単純機械であるものは、意識を持っていると言えるだろうか
と言う疑問である(哲学者は、このような存在を『哲学的ゾンビ』と呼んだりする)。
多くの哲学者がこの疑問に挑んでいる。最近では脳神経科学者も加わり、活発な議論が繰り広げられている。しかし哲学者でない人からすれば、
「別に俺が『意識を持っている』ように感じられてるんだからそれでいいじゃん。哲学者も科学者も、何を無駄なことを考えてるんだ」
と思われるかもしれない。

本書は、そのような疑問に明快な答えを与える。つまり、この疑問には実際上の価値があるのだ。
先ほどの例では、意識があるものと全く同じ振る舞いをするが単純な命令群で記述された意識のないロボットのような存在を考えた。そのため、遠い未来の話に思われ、現実感がなかったかもしれない。
今度は、完全に意識があるが、植物状態と全く変わらないように見え、話しかけても触っても何も反応しないように見える、と言う人間の存在を考えてみよう。今度は現実感があるのではないだろうか。
両者は、振る舞いだけ見ても意識の有無が判別できない、という観点からは同じような存在だ。

実は、このような人間こそが本書で『グレイ・ゾーン』として挙げられている主テーマだ。原題 "INTO THE GRAY ZONE - A Neuroscientist Explores the Border Between Life and Death" 『グレイ・ゾーン - 脳神経科学者が生と死の境界を探る』からもすぐにわかる。『グレイ・ゾーン』とは、意識があるかないかの『グレイ・ゾーン』なのだ。
交通事故に遭い意識不明の重体、一命は取り止めたものの意識が回復せず植物状態を宣告された。配偶者・両親・子どもは、回復の見込みのない延命治療を継続するか中止するかの苦しい決断を迫られる。しかし、実はその患者には完全に意識があり、眼前で配偶者・両親・子供の苦悩する姿も認識していたとしたら?「俺は生きているぞ!意識があるんだ!」と叫びたいが声が出ず、手も足も眼球も動かせないだけだとしたら?そんな患者の前で延命治療の中止を決定し、死を与えようとしていたとしたら?
本書にはこのような実例が多く挙げられている。本書を読めばわかる通り、これは決して超レアケースというわけではない。むしろ、脳科学が追いついてきたためにこのようなケースを発見できるようになったというべきだろう。そうだとしたら、今まで植物状態と宣告され延命治療を中止した患者の中にも、実は完全に意識があった人がいたのではないだろうか。…………完全に意識がある人を延命治療の中止により死に追いやった数はいったい幾つなのか、などと考えるとゾッとして吐き気を催してしまう人は私だけではないはずだ。
本書では、巧みな実験により、『グレイ・ゾーン』にいる患者の一部に意識があることを立証する。その立証結果があまりに衝撃的だったため、筆者はメディアの注目を浴び、世間は『グレイ・ゾーン』の患者について真剣に考えることを余儀なくさせられたのだ。

本書のもう一つのテーマは、もちろん
「意識とは何か?」
という疑問である。
本書で筆者らは、意識がある人に特有な脳の反応パターンを見つけた。これにより、
「意識があるならば、●●の反応パターンが検出される」
ということが言える。
しかし、これは意識があることの十分条件にすぎない。このような反応パターンを示さない人に意識があるかどうか、については何も言っていない。『グレイ・ゾーン』のままの患者はまだ存在しているのだ。
脳科学が発達すれば、意識があることの必要十分条件を見つけることができるのだろうか?
この疑問は活発に議論されているところであり、回答は哲学者においても科学者においても一致を見ていない。
少なくとも筆者はYesと回答している。
私もその回答を支持する。
脳科学の発展により意識の神秘が解明されれば、もしかしたら人口アーム・義足・合成音声機を脳に直接取り付けることで、動き、しゃべることができる患者が出てくるかもしれない。事故の前と同じようにはいかないだろうが。

「意識とは何か?」
という疑問は、決して空虚な疑問ではない。意識を持っていながら外界との意思疎通の手段を失った人たちを救出する可能性を開く、実益に富んだ疑問なのだ。


補遺
文中で筆者は、脳内に大量に存在するニューロンが人間の意思決定者であると予想している。しかし、私はこれには賛成できない。ニューロンが意識の基盤であることに疑いはないが、ニューロンが意思決定者だとするのは賛成できない。仮にニューロンが意思決定者だとするならば、ニューロンを構成する物質が全て意思を持たない単純物質にも関わらずなぜ意思が生まれるのか?これを説明しないといけない。これは結局のところ無限後退に陥ってしまっている。
非意思的・非意識的なニューロンの発火パターンから意識が生まれる。この神秘を解き明かすのが脳科学の役目であると私は考える。ニューロンに意識・意思の神秘を押し付けてはいけない。

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