『どうして私が美術科に⁉︎』第39話を読んで。−間違った旅路の果てに正しさを祈りながら−

※もちろん、まんがタイムきららMAX2019年の5月号のどうびじゅ最終話のネタバレが含まれます。


Are you OK?

 









どうびじゅの連載が終わりました。

それは圧倒的な現実であり、どうしようもない事実です。
しかし受け入れることなんて、どれだけ時間があっても無理なことです。
ただ、それは『どうびじゅが終わって欲しくない』という感情とは、僕としてはちょっと違うものなのです。
そもそも物語は終わりがあるからこそ成立し、そして評価されるものです。
人間が命を授かったらいつか必ずどこかでそれが途絶えるのと同じく、物語もいつか絶対に途絶えます。それが義務なのです。

ですが僕は今のこの現実に異を唱え続けます。
それはどうびじゅが今月で最終話になるという事が『嫌だ』という僕の『感情』の話ではなく、
どうびじゅという作品はここで終わって『良い』作品ではない。という『真実』の話です。
作品に『描ける限界』がある場合、作品はその限界まで存続する、あるいは知らしめるのが正しい姿です。
今までの39話という決して短くも長くもない時間で、どうして私が美術科に⁉︎という漫画が持つエネルギーもしくは可能性の全てを出せていると、僕は思えません。
それは相崎先生の腕が悪いとかそういうことではなく、最終話からそのまま引用しますが、
『時間っていくらあっても足りません』
ということなんです。

そもそも、どうびじゅが面白い漫画であるということはどうびじゅを読んだことのある人間にしか絶対にわかりません
この世界には、今、どうびじゅを読んだことのない人間があまりにも多すぎるのです。
これは人類の損失であり、厄災です。
今まで短くない期間を生きてきて、そして少なくない数の漫画、小説、アニメ、映画に触れてきた僕は、その二十数年の月日全てに誓ってでもそう主張します。
そのために、なによりも今、この連載を終わらせるべきではなかったし、少なくとも、相崎先生が描きたい世界の全貌を世界に知らしめることができる大きさまでコンテンツとして育てるべきでした。

とは言っても、圧倒的な現実としてもう連載は終わってしまいました。
だからこれから先は雑誌の後ろ盾がない過酷な状況で、僕らはただの有象無象のファンとしての矮小で儚い力だけを持って『今より少しでも広い世界に』この作品を伝えていけたら、いいと思います。
僕らは強くはないかもしれませんが、決して弱いわけではありません。
過激にならず、押し付けにもせず、今よりもほんの少しだけ、たった一人にでも、新たにこの物語が好きだと言ってくれる人が増えるように、そしてそれが誰かの笑顔に繋がって欲しいと祈って、そして行動していっていただけたら、1ファンとして僕は幸福に思います。
だからこそ、この圧倒的な力を有する3巻が発売された時が、勝負なのです。いやマジで。
要するに、面白い漫画は出来るだけ多くの人が読んだ方が幸せだよね。そのために何かをしたいと思う人がそれぞれ思い思いの自由な方法で行動しようね。ってそれだけの話です。
具体例を出すとすれば、イラストや漫画、小説を書ける人が二次創作をする。友達や知り合いに面白いから読んでと漫画を貸し与えてみる。ツイッターで感想を呟く。アマゾンで星をつけてレビューする。ハードルが高い人はもっと小さいものだと定期的に読み返してその作品の面白さを忘れないようにする。これだけでもファンの行動として100点満点です。
これはなにもどうびじゅだけに限った話ではありません。まだ連載してる作品ならアンケート出すとかも立派な行動です。……アンケートハガキを出してこなきゃ漫画を終わらせてもいいと思ってる編集の傲慢さはちょっと首をひねりたいところではありますが。

ちょっと話がズレますが、漫画というものは一年間に1万冊以上発売されていると言われています。日で割ると約30冊。新刊だけでです。誰もが知っているあのタイトルだって『あ、いつのまに新刊出てたんだ』というレベルです。そんな現代で『面白いものは売れる』は幻想でしかないです。店頭に並べるだけでろくな宣伝も口コミもない漫画なんか早々に打ち切られるに決まってます。そもそもその本屋がどんどん潰れてます。どうか好きな漫画の話は積極的にしていきましょう。あなたのツイートや行動はその漫画の未来を照らす灯りになりえるのです。

 

さて、どうびじゅの行く末の話はここまでにしといて、最終話の話をしていきたいと思います。というより、さっさと本題に入るつもりだったのに思いの外前置きが長くなってしまいました。ごめんなさい。もう少し、お付き合いください。

 

 

 

どうびじゅ39話を読んで僕はある曲が頭に浮かびました。BUMP OF CHICKENのロストマンという曲です。
この曲はこのどうびじゅ最終話を評する時にとても便利なツールとなるので、今回はこの曲の歌詞を題材にしながら桃音の決意を紐解いていこうと思います。
普通の純粋な感想は今日の夜にでもなればTLに流れ始めるはずなのでそちらの方でお楽しみください。
ロストマンという言葉はざっくり言ってしまえば『迷子』という意味です。
この曲の歌詞は、BUMPの中でも非常に難解とされる歌詞なのですが、どうびじゅを読むことによって僕はストンと腑に落ちた感覚がしました。
記事のタイトルに付いている『間違った旅路の果てに正しさを祈りながら』言葉もこの曲の歌詞の一部です。どうでしょうか。最終話を読んだ人にはなんとなく納得できる言葉ではないでしょうか。
さて、最初から少しづつ整理していきましょう。

状況はどうだい 僕は僕に尋ねる
旅の始まりを 今も 思い出せるかい

ここでの旅とは、今生きている『人生』そのものを指していて、その状況はどうだい?と『自分』に尋ねています。

選んできた 道のりの 正しさを 祈った

人生は選択の毎日で形成されています。桃音は間違って美術科に入学してしまいましたが、その後黄奈子達に出会い『普通科に転科はせず美術科で頑張っていく』という決断をします。
それこそが桃音の選んだ道そのもので、それの『正しさ』を決断をした後も常に桃音は考え続けてきました。

いろんな種類の 足音 耳にしたよ
沢山のソレが 重なって また離れて

桃音の周りには美術X室のみんながいて、彼女達にもそれぞれ選んできた旅路があります。それは同じ方向を向けば近づいて重なったり平行になったり、あるいは別の決断をしたら交差したり離れていたりしていきます。
その無数の足音を常に聞いていると、それは安心になったり、あるいは離れたら不安を引き起こすこともあります。
誰かと同じ道を歩くのは非常に楽なことです。一人ではないのですから寂しくもありません。でも桃音はあれほど一緒に居たがっていた黄奈子とは別の選択をして2年生ではクラスが離れ離れになります。それも一つの桃音の選択です。

淋しさなら 忘れるさ 繰り返す事だろう
どんな風に夜を過ごしても 昇る日は 同じ

当然一緒に居たいという気持ちは淋しいから抱く感情です。でもそれを自覚しながらも桃音と黄奈子はデザインとアートという別に道を歩みます。そうしないと自分の道を進めないからです。このように人生は何かを決断するたびに、同時に色んなものを失うことになる。その繰り返しです。でもクラスが違っても、違う悩みを持っても二人の頭上には毎日同じ太陽が昇ります。それは希望か、それとも絶望なのか。

破り損なった 手作りの地図
辿った途中の 現在地
動かないコンパス 片手に乗せて
霞んだ目凝らしている

じゃあ後悔はまったく無いのかと言ったらそんなことはありません。
二人の背後には様々な選択によって失ってきた旅路があります。もしかしたら一緒に同じクラスになって笑い合う日々もあったかもしれません。そもそも、普通科に転科して悩みがない毎日を過ごしていたかもしれません。
その『あったかもしれない幸せな旅路』を綺麗さっぱり破り捨て、今自分に必要な『向かうべき場所だけを写した地図』を見つめるという『強さ』は二人にはまだないのかもしれない。だからコンパスは動かず、自分の現在地があやふやで向かうべき方角が測りきれずに霞んだ目を凝らしています。

君を失った この世界で 僕は何を求め続ける
迷子って 気付いていたって 気付かないフリをした

ここで『君』という二人称が初めて出てきます。
単純に読み取ると桃音にとっての黄奈子のような大切な誰かの存在だと思われがちですが、この『君』は『違う選択をした自分自身』を指しています。
だから別の選択を行った『そっちの状況はどうだい?』と冒頭で自分に尋ねているわけですね。
『美術科に留まることを決めた桃音』の世界では『普通科に転科した桃音』もしくは『黄奈子と一緒に同じクラスに進級する桃音』を失った世界に生きているわけです。だからこそそっちの旅路は『幸せ』なのか、そっちが『正解』なのか、気になってしょうがないのです。
自分の現在地も、自分の旅路が正しいかも何もわからないその状況は、まさに『迷子』です。でも、もう選択をやり直すことができないから『気付かないフリ』をして前に進むしか、桃音には道は残されてないのです。

状況はどうだい 居ない君に尋ねる
僕らの距離を 声は泳ぎきれるかい
忘れたのは温もりさ 少しづつ冷えてった
どんな風に夜を過ごしたら 思い出せるのかなぁ

『君』が『自分自身』を指していることはここの歌詞からも読み取れます。
別の道を選び、隣に黄奈子が居た温もりが時間とともに冷えていって忘れていってしまいます。もう二度と会えないわけでは決してありませんが、ともに生きる時間が減る選択をしたのは事実です。たとえ心が繋がっていてもそれで暖が取れるわけでは決してないのですから。それを取り戻したいと思う気持ちは、自分の選択によって排除したものであろうと、簡単に吹っ切れるものではないでしょう。

強く手を振って 君の背中に
サヨナラを 叫んだよ
そして現在地 夢の設計図
開くときは どんな顔

ここで強く叫んでいるのは冷静ではいられない、それほどのパワーを持っていないとその行動ができないことが読み取れます。
ですがそれも背中に向けて、つまり向こうからは自分が見えていないし、こちらも向こうの顔を見ることはできてません。
しかしそのおかげでここで一旦、『自分とは別の選択をした桃音』と桃音は決別を果たします。
そうすることによって今度は地図としてではなく『自分の未来の設計図』として自分の旅路を見つめようとします。
それを開くとき、桃音はどんな顔をするのでしょうか。

これが僕の望んだ世界だ そして今も歩き続ける
不器用な 旅路の果てに 正しさを祈りながら

不器用な旅路、この言葉はまさしく『どうして私が美術科に⁉︎』という物語を表す言葉として秀逸です。
そこに正しさを祈りながら5人はそれぞれの『望んだ世界』をもがきながら、悩みながら進んでいきます。

時間は あの日から 止まったままなんだ
遠ざかって 消えた背中
あぁ ロストマン 気付いたろう
僕らが 丁寧に切り取った
その絵の 名前は 思い出
強く手を振って あの日の背中に
サヨナラを 告げる現在地 動き出すコンパス
さぁ 行こうか ロストマン

決断し歩き始めたその時からずっと凍り付いていた時間がここでやっと動き出します。
他の可能性にある自分ではなく、ロストマン、つまり迷子である今ここにいる自分自身、そして自分の旅路ではなく選択そのものを見つめ始めます。
その決断ではなく『決意』によって自分を迷わせていた他の可能性の中にいる桃音の背中が消えて、そこでやっと、自分が可能性を切り取ってきた地図がいつの間にか1つの絵となり(ここめっちゃどうびじゅじゃないですか????)、それが『思い出』と呼ばれるそのものであることに気付きます。

破り損なった 手作りの地図
シルシを告げる 現在地
ここが出発点 踏み出す足は
いつだって 始めの一歩

コンパスが動いて、やっと現在地にシルシをつける。つまり自分が今どこにいるのかを知ることができました。そしてそれこそが出発点であり、踏み出す足はいつだって始めの一歩と歌われています。
ここは上履き回(少数にしか伝わらないので、呼び出し回とも記しておきます)を彷彿とさせますね。あそこで桃音は始めの一歩を踏み出したのです。

君を忘れたこの世界を 愛せたときは会いに行くよ 

他の可能性を捨てた今いる世界を心から愛せたとき、それは今はまだ来ていない未来の話ですが、そうすることによって初めて『背中』を見るだけではなく、他の可能性の自分と『向き合える』んだ。という決意をここの部分は表していると思います。

間違った 旅路の果てに
正しさを 祈りながら

どうびじゅ39話で桃音は自分の選んだ道を『間違いの正解』と表現します。本当に、本当に、本当に、ほんとーーーーーに、ここが相崎うたう先生の凄いところで、自分が選んだ道をその正当性や理論的な判断により『正しい』と確信したり、世間や誰かから保証されたから『自信を持てる』のではなく、『間違っている』かもしれないけど、自分が意思持って選んだ今いる世界を何の後ろ盾もないまま他でもない自分自身が肯定し続けて生きること、そしてそれによって未来へ力強くつき進むこと、それを桃音や美術X室のみんなに課しているのです。
そんな強さを持つ5人に心打たれたからこそ朱花も間違った旅路を正しさを祈ること。つまり世間的には糾弾されてしまうであろう二学年からの突然の転科を決意することができたのかもしれません。
そんな背景があってこそ、この漫画の『間違うことが必ずしも『不正解』でない』というメッセージには『強さ』があるのです。
いや、本当に、強いんですよ。作者のキャリアがどうとか、そんなことはもうどうでもいいぐらいこの作品は強いんです。やはり、ここで打ち切りとなるのはどう考えても世界が間違っているとしか思えないです。

再会を 祈りながら

さて、全て押し付けるのも芸がないし、そして、間違いの正解を肯定するためにも、最後の一行は、どうかそれぞれ好き勝手に解釈して、自分の旅路を見つめてみましょう。

みなさんの現在地は一体、どこなのでしょうか。この記事と、相崎うたう先生の『どうして私が美術科に⁉︎』という作品、ついでにBUMP OF CHICKENのこのロストマンという歌が、そのヒントとなれば幸いです。

長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

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