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茅ヶ崎・ラチエン通りの物語

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さて、今回は、湘南のお話。

湘南といってもいろいろありますが、茅ヶ崎のある通りのお話です。

サザンオールスターズのアルバム『10ナンバーズからっと』は、1979年に発売されました。代表曲『いとしのエリー』を含む初期のアルバムで、まだ(いい意味で)学生気分の抜けきれないサザンの魅力がたっぷり詰まった作品です。

『ラチエン通りのシスター』という、洋楽ポップスの匂いがどこまでも気持ちいいナンバーは、茅ヶ崎に実在する「ラチエン通り」が舞台になっています。

サザンの桑田さんが茅ヶ崎にゆかりがあるというのは有名な話です。茅ヶ崎から鎌倉の高校へ通い、海を見ながら青春時代を過ごしていました。「鎌倉」「江ノ島」「茅ヶ崎」など、実在の場所も多く歌われ、大先輩・加山雄三さんと並んで、いまや湘南の顔とも言える人物となっています。

茅ヶ崎は魅力的な街です。ですが、この海沿いの高級住宅エリアは、ちょいと住むにはハードルが高い。横浜人であるわたしも当時の若者の例にもれず、湘南におおいに憧れました。ですが、なんとなく敷居が高く、駅周辺のライブハウスに、当時人気のあった和製プログレバンド「パラシュート」をドキドキしながら見にきたのが関の山でした。ちなみに、わたしの父や従兄弟は桑田さんの通った鎌倉の男子校の出身者で、その事実だけで少し誇らしい気がしていました。

駅から海岸方面を目指す南北の道のひとつがラチエン通りです。海を眺めながらこの通りを歩くと、遠くに「烏帽子岩」が見えます。サザンのヒット曲『チャコの海岸物語』にも歌われた「烏帽子形」の特徴的な岩のことです。

「ラチエン」という響き。これは架空の呼び名ではなく、この地に住んだドイツ人商人(輸入業、自動車や刃物、カメラなど)の名前です。近隣にある資料館には、ルドルフ・ラチエン氏が1935(昭和10)年に皇室に御料車として納めたメルセデス・ベンツ770・グローサーの模型が展示され、往時を偲んでいます。

このラチエン通りにはゆかりのある人物がもうひとりいます。芥川賞作家の開高健(たけし)氏です。

開高氏は、晩年この地に居を構え、遠く烏帽子岩を眺めながら創作に遊びにと日々を過ごしていました。その活躍ぶりは周知の通り。釣りや冒険の旅へと精力的に世界を飛び回っていました。

1989年、開高健さんは病に倒れ、創作への余力を残しながら、この世を去りました。ラチエン通り沿いにある閑静な邸宅は、現在「開高健記念館」として一般に公開されています。館内の至るところに、開高さんの作家として「矜持」や、人間としての「匂い」が充満し、週末の昼下がりの知識欲を満たすための、心地よい空間となっています。

開高さんはこの家で、詩人である夫人・牧羊子さん、エッセイストである娘の開高道子さんとともに暮らしていました。開高さんは奥様と娘さんに、まるで先に死ぬことを予想していたかのような言葉を残します。

「おい、お前ら。きいとんのか。オレが死んだら、しっかりやれや。(中略)負けたらあかんで!! オレが生きているうちは皆ヘーコラしとるが、死んだら、あることないこといいちらし書きちらす卑劣なバカが多いから覚悟しとけ」

洒落っ気のある言葉が、記念館隣の展示施設の壁に掲示されています。後年、開高さんと親しかった作家によって、この家族のことはさまざまに書かれています。気まぐれな来館者には、なんとも微笑ましい一家のワンシーンが映っています。

「ラチエン通りのシスター」は、近くにいるがなかなか思い通りの関係にならないシスター(親しい娘)を思う、愛しくも切ない歌です。桑田さんが結婚まで考えていたある女性をモデルに書いたとの話もあります。

ラチエン通りですれ違い、くっつき合う男と女。憧れの地、湘南にふさわしい物語がここにはあるのです。

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【開高健記念館】神奈川県茅ヶ崎市東海岸6丁目6-64
構想を練った書斎、仲間たちと集った中庭、サンルームなど、思慮深くもやんちゃな開高さんの日々の暮らしが垣間見えるような空間です。


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