ライブ・レポート

 タブラオに出演しないかと誘いをもらったのは4月の始めだった。僕はちょうど大学院生になり、学部生時代に4年間続けてきたフラメンコと、これからどんな関係をもてば良いのか、考えあぐねていたところだった。フラメンコ版ライブ・レストランとでも言うべきタブラオには、これまでも何度か出演する機会があった。新宿エル・フラメンコや西日暮里アルハムブラには、サークルの16周年記念ライブや、先生がもつ教室の発表会でお世話になっていたし、3月の卒業公演では、仲間と恵比寿サラ・アンダルーサを貸し切って、自分たちだけで集客をした。でも、いずれの場合も、僕は東京大学フラメンコ舞踏団というサークルの一員として、舞台に上がっていたに過ぎなかった。今回は、それとはかなり事態が違った。このライブには、杉山昂平という、個人の名前で出演することになる。今までサークルの傘に守られていた身としては、想像もつかない世界だ。

 逆説的だが、出させてもらいますという返事をしたあとでも、練習にあまり身が入らなかった。踊る曲目は、卒業公演でもソロで踊ったソレアだったから、全く踊れないという不安はなかった。むしろ、圧倒的にレベルの違う3人の共演者と同等の踊りができるわけがなかったから、自分は所詮この程度ですよという踊りができれば、それで良いのではないかという思いを抱いていた。卒業公演のときは自分の踊りを完成させるのに必死だったことを考えると、今回は変に開き直っていた。先生や先輩からライブへの思いを聞かれたとき、ぼくはプロと共演するのが不安だ、緊張する、と答えていたのだけれど、実のところ、どうせ学生ですからと思っていたのである。想像もつかない世界だからこそ、ぼくは自分の想像のつく範囲で済ませようとしていた。

 どこかで自分を卑下する思いは、フラメンコをやっていて、ずっと心の片隅に抱いていた。僕は、フラメンコに夢中にはなれない。誰かが僕の知らないスペイン人アーティストについて話し込んだり、スペインにフラメンコ留学した話をしていたり、あるいは後輩がアントニオ・ガデスのファルーカをコピーしてみたと言ったりするとき、自分はフラメンコに対してそこまで熱心に時間を割いただろうか、という思いがふつふつと湧き上がる。4年間フラメンコをやった。でもそれは、結局のところ習い事に過ぎないのではないか。僕にとってのフラメンコとは、人生にはならないのではないか。フラメンコを愛す人々に出会うたびに、考える。

 だが、もらったチャンスを逃したくもなかった。大学に入り、東京に来て初めて、僕は、中高6年間、ただ学校に通うだけの退屈な日常を過ごしていたと気づいた。そんな自分が、大学1年ではじめたフラメンコを通して、仲間や大学外の同好の士を知り、芸術のプロを知り、スペイン・アンダルシアの文化を知った。フラメンコをやっていれば、自然と自分の知らない世界に出会えた。だから、やりませんかと言われたら、やりますと答える以外、なかったのである。卒業公演以来のソレアの練習は、院生生活の中で行うには少し大変だった。でも、研究室の人々に、今からフラメンコをしに行くと言うのは、僕にとって楽しい瞬間でもあった。そうしているうちに、2ヶ月はすぐ経った。5月30日が本番だった。

 前日のリハーサルで、はじめて先生以外の共演者に出会った。彼らはみな、余裕を感じさせた。一番齢の近い共演者は、生まれは1年しか違わない。だが、フラメンコの世界に生きてきたという自負心、覚悟がそうさせるのだろうか、決して煩くなく、落ち着きを放っていた。これは共演して初めて思ったことだけれども、この人の舞台を客席で観てみたい、と感じさせる人がいる。一観客としての願望というよりは、一演者として、抱いた感想である。本番を迎え、パルマ席に座りながら、出番を迎えた共演者の踊りを目の当たりにすると、客席に向かっていく彼らの凄味が伝わってくるのだ。さながら、先陣を切って敵軍に攻め入る勇猛果敢な兵士のように見えるその姿からは、舞台という現場が、闘いをともなっていることを思い知らされる。それは、演者と観客の間の闘いであり、演者同士の闘いであり、一人の踊り手の中の闘いでもある。

 本番当日、会場である八王子グランデセオに入り、リハーサルをした時、僕はソレアを踊りこなせていないことに直面した。それは、舞台にあがる緊張のせいというよりは、僕が学生気分のままでいたことに原因するのだろう。結局、直前になって出来なかったことが本番で出来るはずもなく、なんとか演奏を止めはせずに、体裁を繕った形だった。その時やっと、これは発表会とは全く異なる空間なのだなと、身につまされたのである。観客にとっては、なぜ出来もしないことをやっているのか、ということでしかない。有難いことに、サークルの学園祭での公演を観に来てくださっていた方からは、良かったよと声をかけてもらった。でも、その言葉を文字通り受け取って満足しているだけでは、いつまでも僕はフラメンコに生きられはしないのだろう。

 楽しいこと、褒められることは、活動を続けていく上で欠かせないことだろう。だが、その楽しさの奥にある、困難さや孤独さに向き合わない限り、プロフェッショナルに近づいていくことは、一方では出来ないのだろう。打ち上げでは、共演者のそれぞれが、自らのフラメンコの歴史をもち、時に困難さに直面しながらも、今日まで闘ってきた話を聞くことができた。ライブを経た今だからこそ、プロフェッショナルは自分とは別の世界に生きていると、言うことができる。でも、それは想像もつかない世界でもないようだ。僕の知っていた世界と、プロフェッショナルの世界は、やはりフラメンコを通してつながっている。その結節点に立たせてもらった今回のライブは、僕のフラメンコにとって、どんな意味をもってくるのだろうか。それを知るために、まだフラメンコからは離れてしまえないなと思う次第である。

2015.6.14


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