肩車

大人はもっと自分にお節介であれ

「いつかできる!」
子どもの頃は誰でもそう思えたにちがいない。

なにせ、歩けるようにもなったし、しゃべれるようにもなった。
自転車にだって乗れるようになったし、靴ひもだって結べるようになったのだから。

知らないことだらけの世界、できないことだらけの自分。
それでも、世界も自分も広がり続けると信じられた。

いつの頃からから、自分にはできないことがあることに気付く。
知らないことやできないことを恥ずかしいと思うようにもなる。
「いつかできる」と思えることが少なくなっていく。

歩けるようになった時のように、速く走ることはできなかった。
掛け算を覚えたときのようには、数学の公式はスラスラ解けない。
“上手に描けたね”と褒められた絵をもう誰も褒めてはくれない。

自分が知っている自分以外に、他人が知る自分が増えていく。
それでも「わたしだってもっと頑張れば…」と自分を鼓舞する。

20年近くかかって、ようやく自分を養えるようになる。
完全に自立したとまでは言えずとも、社会的には“大人”として扱われる。
再び「いつかできる!」と思えることが増え始める。

また知らなかったことを知り、できなかったことができるようになる。
そして、それを誰かが見ていてくれる。褒めてくれる。
少しずつ大人になっていく自分にちょっとドキドキしたりもする。

しかし、そんな時期もあっという間に過ぎていく。
思い通りにならないことがどんどん増えていく。
理不尽な要求をされることもある。

子どもの頃は、“宿題をしろ”とか“早く風呂に入れ”とか、そんなうっとうしい要求に「わかってるよっ!うるさいなぁ」と反発もできた。

周りの人間が、親のように自分を愛してくれるわけがない。
いつまでも子どもの成長を見守るような優しい眼差しを向けてはくれない。
それでも、立ち向かっていく。
期待してくれる人間がたとえ自分一人になったとしても…
自分を諦めない。諦めてなんかやらない!

世の中や自分のことを達観した気になって、実はどこかで諦めている。
そんなのは大人なんかじゃない(と、私は思う。)

もっとも理不尽なのはいつだって自分自身。
“お金は欲しいけど働きたくない”
“恋人は欲しいけど自分一人の時間は奪われたくない”
“やりたいことはあるけど、、面倒くさい…”

別に、それを貫いても構わない。
それなりの覚悟と責任をもって選択するのならば。

“〇〇をしたら幸せになれる”なんて保証はない。
だから、人はより良く生きられるよう悩みもがき続ける。
それをいちいち気にかけてくれる人はいないかもしれない。
優しいお節介をやいてくれる人も減っていく。

ならば、もっと自分が自分にお節介にならなくでどうする?
自分のわがままな要求にのみ従っていてどうする?

宿題もせず、風呂にも入らず、一日中ゲームをしながらお菓子ばかりを食べ続け、平気で友だちを傷つける…そんな子どもに“しょうがない、あんたはそんな子だから”と言うのか?
いちばんの理解者、いちばんの味方でありたいなら、そこは絶対諦めてはいけないところだろう。
親に見捨てられるなんて子どもにとって最たる悲劇、最たる不幸。
親の助けを借りなくなったことが“大人”になったということじゃない。
自分が、自分自身の厄介でお節介な親になれてこそ“大人になれた”のだと言えるのではないか。

かく言う私も、まだまだ大人になりきれない。
長く生きていれば大人になれるかと思ったが、そうでもない(-_-;)

たがら、頑張ってお節介をやく。
自分だけでは足りないから、周りにも助けてもらうようにする。
いつか誰かが気付いてくれるなんて勝手に他人に期待せず、困ったことがあれば“助けてほしい”と素直に伝える。
むしろ若い頃にはこれができなかった。格好悪いと思っていた。
根拠もなく「いつかなんとかなるだろう」と棚上げした。

『四十にして惑わず』というが、孔子の時代の平均寿命と同じではないことを加味すれば、まだ猶予はありそうだ。
それに“惑わず”は「不惑」ではなく「不或」らしい。
「不或」とは、“区切らず”という意味で、これまでの枠組みに留まらないことを指す。“自分はこんな人間だと決めつけず可能性を広げよ!”ってこと。

『五十して天命を知る』に向け、まだまだ伸び盛り!
いろんな人に助けてもらいながら
いつか自分の思うカッコいい大人になりたいと思う。

これからも信念ある者たちが音楽を続けていける場所を守っていきたいと思っています。歌うたい達を支援する私をさらに少しだけ支援していただけたら心強いです(#^^#)