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『ビール』

ポストに入っていた不在通知には、実家からの荷物が記されていた。
連絡後すぐに来てくれた再配達のお兄さんにお礼を言って、使い回された信州リンゴの白い段ボール箱を受け取った。
ガムテープを剥がすと、中身はいつものレトルト食品、果物、缶詰、菓子類。
地元銘菓の詰め合わせは職場への配慮だろう。
そして、これら不揃いの荷物の隙間を埋めるように、缶ビールが詰められていた。
大手メーカーのラガービールと、地元のクラフトビール。

発泡酒ではなくビールだ。

就職を機に実家を離れて数年。
一人暮らしにはすっかり慣れたが、僕のことをよく知る家族からの時折届く便りが自分を支える芯になっているのは間違いない。
早速、冷蔵庫にビールを入れた。

ーーーーーー

翌日、職場で実家から送られてきた菓子を配った。
席にいる人には手渡し、いない人の席には置いておく。
数が多かったので、フロア内の他部署にも回ることができた。

別の部署にいる女子社員が「やっておこうか」と声をかけてきた。
彼女とは同期入社で、部署は違うものの比較的気軽に会話ができる間柄だった。
お礼とともに断って、その部署のチーフの席に菓子を置いた。
この女性上司は、僕が入社したときの指導担当をしてくれた先輩だった。

先輩は手際が良くて仕事が早い。
発言は的確で聞き取りやすく、怒ったり感情的になることもない。
決断が早く、やると決めたことはすぐに取り組む。
たまにしくじることがあると「やっぱり」と陰口を言う人間もいるが、彼らがそうして足踏みしている間に、先輩は失敗の反省を生かして次の企画を立てている。
自分で動くよりも熱心に他人を観察して噂話をする奴らが差をつけられて、あっという間に周回遅れになる様子は、傍から見ればよく分かる。
僕は先輩のようでありたいと、仕事振りに注目していた。
その姿勢に憧れて目標にするうちに、尊敬の感情は次第に大きく育っていった。

「お菓子、ありがとうね」
外出から戻った先輩が、お返しのチョコを持って声をかけてきた。
「いいえ、実家からの荷物なので」
受け取った金色の包装紙は、僕が配った菓子より高価に見えた。
なんだか申し訳なくなって「先輩、ビールは好きですか?」と聞いてみた。
「あぁもちろん!」先輩は満面の笑みを浮かべた。「大好き!」
口角をキュッと上げてツヤのある唇が広がる。細めた目から輝きが溢れた。
素に違いない満面の笑顔と「大好き」という声の響きは、一瞬で僕の心を奪った。
「地元のクラフトビールも届いたので持ってきますよ」という申し出は「いいよ、自分で飲みなさい」とあっさり断わられ、それ以上僕の言葉を受け取らずに先輩は立ち去った。


午前と午後の2回、給湯室でコーヒーを入れるのが日課になっている。
一杯ごとにパックされているドリップコーヒーを、大きめのマグカップにセットしてお湯を注ぐ。
本来のコーヒーより薄めに作ることで、量が飲めるし胃にも悪くない気がする。
女性社員が多いこの職場は水周りも清潔で、給湯室の居心地は良かった。

マグカップを満たすまで何度目かのお湯を注いでいると、同期の女性社員が「おつかれ」と入ってきた。
先輩の下で働く彼女に、先輩のことを聞いてみた。
独身なのは知っているけれど、彼氏はいるのだろうか。
「チーフのこと?」
同期が不思議そうに聞き返してきた。
「そうだよ」
「けっこう年上だよ?」
「知ってるよ」
僕の様子を探るようにしばらく伺ってから、同期は何かを悟ったような表情で先輩のことを教えてくれた。
彼氏はいない。
誰か意中の人がいるわけでもなく、恋愛しない主義の仕事人間というわけでもないらしい。世間一般の常識に流されたり年齢で焦ったりしない性格なのだそうだ。
マイペースともちょっと違う。芯のある人なんだろうなと思った。

ーーーーーー

そのまま数日が経過した。
部署の違う先輩との距離は開きも縮まりもせず、遠くから聞こえる声と時折見える姿を確認するだけの、相変わらずな僕の日常が続いていた。

給湯室でコーヒーを入れていると、同期が入ってきた。
「おつかれ」といつもの声をかけてきたが、その手にはいつものティーバッグがない。
「ね、ビアガーデン行かない?」
突然の提案に戸惑った。
「ビアガーデン?」
「そ」
同期はニヤリと企みを含んだ笑顔を見せて「チーフ誘うからさ」と言った。

駅前はいま再開発事業の真っ最中で、古いビルが解体されて更地が広がっている。本格的な工事が始まる前に、その場所でこの夏限定のビアガーデンが開かれるらしい。
地域の活性化を兼ねたイベントとして行政がバックアップし、地元の商店や農産物も多数出店されることで話題になっていた。

「3人じゃ不自然だから、あなたはメガネくんを誘ってよ」
「メガネ?」

僕の部署に、メガネと呼ばれる男がいる。
仕事ぶりは真面目でそれなりに優秀だが、特に目立つタイプではない。
休憩時間に雑談をしても、彼が興味を持っている株の話などが中心で、女性受けしそうな要素が一切思いつかない。

目の前の同期の彼女を見る。
ジム通いで身体を鍛えて、最近はボルダリングにはまっていると聞いていた。
ストレッチ素材の長袖で覆われていても、その腕が引き締まっているのが分かる。
一方のメガネは、間違いなくインドア派で運動音痴だ。
細い体つきはシュッとしているというより単なるヒョロで、普通サイズのメガネが浮いて見えるほど薄くて印象のない顔だから「メガネ」というあだ名がついている。

そのメガネに、彼女が目を止めるなんてとても信じられない。
どう考えても噛み合わなかった。
「メガネ?」
思わずもう一度聞いた。
「チーフ?」
僕の声色を真似て、彼女もまた聞き返してきた。

ーーーーーー

「乾杯!」

4杯のビールが、まだ日の暮れない明るい空の下で重なった。

チーフ以外の外野が邪魔して来ないようにって、あえて金曜日の仕事帰りを選んだ同期の戦略はさすがだった。
この手の飲み会に便乗しそうな奴らほど、とっくにそれぞれ先約があったのだ。
一方でメガネは予想通り、誘いを断るような都合などはなかった。
誘われること自体が珍しいのだろう、喜んで付いてきた。

「先輩ビール好きっすね」
僕にとっては直属の上司ではないので、チーフではなく入社当初から先輩と呼び続けていた。
「うん好き好き。こんな開放的な場所で飲むとまた気持ちいいね」
先輩は上機嫌だ。
地元産の野菜や豆のサラダ、ポテトフライなどを勧めると「うっそ、これすごく好き」と喜んで頬張った。
この後も、最近話題の映画、俳優の話、人気のグルメなど、僕が提供する話題はことごとく先輩が好きなものを揃えた。
先輩の口から「好き」という言葉が少しでも多く聞けるように、同期から収集しておいた事前リサーチを活用し尽くした。

途中、同期がメガネを連れてつまみやビールのおかわりを取りに席を立った。
お互いにこっそり気を利かせ合って連携できている。

最初は「あの2人、仲良かったんだっけ」なんて同期とメガネを微笑ましく眺めていた先輩も、僕が繰り出す好きなものの連呼に勘付いてきたのか、問いかけに対して、んん?という反応をし始めた。

2杯目のビールが空きそうな頃、「今度は僕たちが取りに行きましょう」と先輩を誘って出店の並ぶ方へ向かった。
「青が好きなんですか」先輩が身につけているピアスの色を褒めてそう言ってみた。
「ラッキーカラーだからね」
先輩は少し斜めに構えて、僕に探るような目線を投げてきた。

進行方向にクラフトビールののぼりが見えた。
「おかわり、あれにしようよ!」先輩が指さすので「いいっすね」と向かう。
「先輩、クラフトビール好きですもんね」
「そうよ」ここまでくると先輩も苦笑いだ。

両手に1杯ずつ、2人で4人分のクラフトビールを持ったところで、何とも言えない香ばしい香りが漂ってきた。
「チキン!」
二人で満面の笑顔を見合わせると、すぐさま香りの元へと向かった。
地鶏をふるまうブースからは、焼きたてチキンが最高の音を立てて僕らを待っていた。
身を切り分けるナイフが入るたびに透明な肉汁があふれ、カリカリに焦げた皮の表面は旨いに違いない脂がテラテラと伝う。
4人分のクラフトビールを僕が引き受けて、先輩は肉汁たっぷりのチキンの大皿を両手ですくうように持った。
「チキンうまそうですね!」あふれる唾液を飲み込んで、僕は完全に作戦を忘れて「先輩好きそう」と言った。
「もう、大好き!」満面の笑みと最高の声の響きで先輩が答えた。

さっきまでお互いに「好き」という言葉に意識と緊張感を持っていたのを思い出して目を合わせた。
そして無言のまま、二人で席へと向かった。

しばらく黙って移動すると、「ねぇ」と先輩が切り出した。
「はい」
「もしかしてだけど。」ほんの少しの躊躇のあと、先輩は意を決したように口を開いた。
「私のこと好きだったりする?」

もしも先輩から問われたら、すぐに返事をするつもりだった。

「はい、好きです」

心の準備と覚悟をしていたつもりでも、少し声がうわずった。

「それは、付き合いたいとかそういう種類の好き?」
「はい、それっす」
歩きながら、ちょっと軽い返事になってしまった。
僕は立ち止まって、横を歩いていた先輩にまっすぐ向き直った。

「その”好き”です」

先輩は年齢も役職も僕より上だが、身長は僕の方が高かった。
ヒールを履いた彼女の目線は僕を見上げていた。
吟味しているようにも、表情を読み取って真意を測ろうとしているようにも見える。
迷いのない気持ちが伝わることを祈りながら、僕も彼女から目をそらさなかった。
心地いい角度だった。

少しの間のあと、先輩はきゅっと口角を上げた。
「この件、持ち帰らせてもらっていいかな?」
即断即決の彼女に、即座に断られなかったのは上々の結果だ。
「はい、もちろんです!」

遠ざかっていた周囲の喧騒が一気に僕たちを包み込み、「戻ろっか」と言う彼女の声も危うくかき消されそうに途切れて聞こえた。


席では、同期とメガネの会話が盛り上がっているようだった。
ビールが入っているせいかメガネは普段見せないほどの明るい笑顔だったが、それより驚くのは同期がメガネの話に腹を抱えて爆笑していることだった。
仕事中や休憩時間の会話の中でたまに冗談が出ることもあるが、女性をあれほど笑わせるような話題をメガネが持っているとは、僕の知る限りではまるで見当がつかなかった。

「おまたせー」
同期は「わぁ」と喜びの声を出しながら僕の手からクラフトビールを受け取った。
続いて先輩が肉汁たっぷりのチキンが乗った大皿をテーブルの中央に置くと、今度は「きゃぁ!」と全く別の種類の歓声を上げた。

「それでは、あらためまして〜」
頬を紅潮させた同期が上機嫌で音頭を取った。

「乾杯!」

とっくに日が落ちてすっかり暗くなった空に、4つのジョッキが上がった。
駅前のカラフルなネオンが、琥珀色の液体に反射して輝いた。

終(4378文字)

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