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『余白』

仕事中、ふと視線を感じて後ろを振り返った。
私の背後には、部署を仕切るように配置されたキャビネットがある。
子どもの身長くらいの高さで、立てばフロアを見渡せるが座っていると視界は遮られる。
念のため立ち上がって周囲を見回してみた。
キャビネット越しに誰かが立ち寄った様子もなく、少し離れた部署で数人の社員がモニターに向かって黙々とキーボードを打つ姿が見えるだけだった。

似たような感覚は、打ち合わせ中にもあった。
簡易パーテーションで囲まれた会議スペースは、密室ではないものの視界はやはり通らない。
なのに感じる、外からの視線。

妙な違和感を払うように、マグカップとティーバッグを持って給湯室へ向かった。

給湯室では、同期入社の男性社員がいつものドリップコーヒーを入れていた。
彼とは時々ここで一緒になる。
小さなペーパーフィルターに電気ポットのお湯を注ぎ足しながら、コーヒーがフィルターを通して落ちていく様子をじっと眺める彼の横顔を、いつもなんとなく観察していた。
正面から見ても印象的な高い鼻は、横から見ると目に近い位置の骨が盛り上がっている。
彫りが深くて凹凸が多い顔のラインは、形のくっきりした喉仏に続いていた。
いかにも男らしい骨格の彼が、長身の腰をかがめて熱心にコーヒーを眺める姿がなんだか可愛い。
家では回っている洗濯機をずっと見張っていたりして。想像して心でクスッと笑った。

洗濯機を思い浮かべた自分に気付いたとき、彼の存在が心の一部を占めていることにも気付いた。

そうか、私は彼とプライベートを共有したいのかもしれない。


だからあの日、給湯室で「先輩に彼氏はいるの?」って突然聞かれたときは驚いた。
彼の言う先輩は、私の部署のチーフだ。
入社してすぐの研修で私たちは同じチームにいて、その指導に女性の先輩がついた。
3ヶ月の研修期間が終わるとそれぞれの部署に配属された。
私は先輩の部署に入った。その数年後、先輩はチーフになった。

「チーフのこと?」思わず聞き返した。
「そうだよ」と答える彼は、冗談っぽくはぐらかしたりしないでまっすぐだった。
その様子を見て、彼の気持ちが確かなのが分かった。

同期くんがチーフを意識したのは一体いつなのだろう。
確かに彼女はしっかりしていて、研修の時から頼りになった。
同じ部署だと分かったときは嬉しかった。
仕事には真摯に取り組むし、甘えも嫌味もない。だからって堅くて融通が利かないわけでもない。
メイクは濃すぎず、淡いベージュのネイルに派手さはなく、まとめた髪もさりげなく、かといって地味ではなく全体的に洗練されていた。
もちろん好感は持っていたけど、自分と同じ並びで考えたことはなかった。
年齢も立場も、少し上の存在として認識していた。

***

「先に帰るけど、大丈夫?」
手荷物をまとめたチーフがPCをシャットダウンしながら私に声をかけた。
「はい、あと少しなので」
久しぶりの残業で心配をかけないように笑顔で答えた。

ガランとしたフロア。
人がいなくなった部署の電気は消えて、全体的に薄暗い。

ちょっと多めに引き受けたデータ処理を手早く片付けた私は、誰も見ていないのを確認して、そっと同期くんの席に行った。
彼の椅子に座り、私たちの部署を眺める。
キャビネットに隠れる私の後ろ姿は見えない。キャビネットが途切れた位置にあるチーフ席はこちらを向いていて、表情も伺えそうだ。
フロアの角にある会議スペースの方も見た。
可動式の簡易パーテーションは足の部分が空間になっていて、パーテーション同士の隙間も大きい。誰がどこにいるのかくらいは分かる。
それほど離れていないから、声も届くかもしれない。

チーフを追っていたのであろう彼の視線をキャッチしてたのか、私は。

ふーっと深くため息をついて、天井を仰いだ。
椅子が軽くきしんで鳴った。

ーーーーーー

ボルダリングは、仕事帰りに通っているジムに併設されてからすぐに始めた。
運動不足の解消や体型維持のために体を動かすより、達成目標があることでモチベーションが向上した。

いまトライしているグレードを、まだ完登できていない。
次のホールドに一瞬指先が触れたあと、体を支えられずに背中から落下する。

惜しい、どんまいと声をかけてくれる顔見知りたちに手を上げて応えて、額から流れる汗をタオルで押さえながら、次のチャレンジャーの登りを睨むように眺める。
足の角度、重心の置き方、手の伸ばし方。
何とか次のホールドを掴みたい。

わかる、わかるよ。

手が届きそうで届かないところに手を伸ばして、届こうとするんだよね。
あと指一本、いや一関節分でも近ければ、とらえられそうな距離。
背伸びとチャレンジを繰り返して上を目指したい。そんな性格が少し似ていると思ってた。
ただその方向が交わらないことを、認めなければいけなかった。

ーーーーーー

ある日の昼休み、休憩室で女性社員たちが集まっていた。
その輪に加わって覗き込んでみると、注目の的になっているのは改装工事中の駅前ロータリーでビアガーデンが開かれるという案内チラシだった。
本格的に拡張工事が始まる前に、役所がバックアップして地元を盛り上げるイベントになるらしい。
「金曜日は予定入っててさ」「あ、私もー」
酒好きでノリの合うメンバー同士が口々に予定を共有して、ビアガーデンに出かける計画を立てていた。

金曜日か。
頭の中にあるプランが浮かんだ。


「ね、ビアガーデン行かない?」
コーヒーを入れる同期くんを追ってきた給湯室で、そう提案した。
「ビアガーデン?」
「そ」
予想通り、彼の金曜日は空いていた。
ジムに行くことが多い私もそうだけど、彼も会社のメンバーと積極的に連れ立って出かけるタイプではなかった。

そういうところも似た者同士だと思ってたんだけどな。

「私はチーフを誘うからさ、そっちはメガネくんを誘ってよ」
「メガネ?」
同期の彼は意外そうに目を丸くして私を見た。
3人じゃ不自然だし何より私が浮いてしまうから、無害そうなメンバーとして彼の部署の同僚を候補に上げたんだけど。
この様子は完全に勘違いしている。

そっちこそチーフじゃん。

勘違いされて困りそうなことは別にないし、訂正はしなかった。

ーーーーーー

「乾杯!」

4杯のビールが、まだ日の暮れない明るい空の下で重なった。

体温よりも低い温度の風が流れて、昼間の熱気をさらっていった。
夏はもうすぐ終わる。

街中に思える場所なのに、地元の農産物は美味しかった。
ご機嫌なチーフと笑顔の同期くん。
あっという間に減っていくビールとおつまみのおかわりを取りに、私はメガネくんを誘って席を立った。

同年代だけど中途採用のメガネくんは、即戦力としての自分の価値にプライドを持っていた。
確かに優秀で多才なんだと思う。途切れない自慢話は延々と続いた。
出店の行列に並ぶ間も、こちらが理解できるかどうかはお構いなく展開される武勇伝を、あくびをしないように気を付けながら聞いた。

席に戻ると、私は会話は二の次にして、とにかく飲んで食べ続けた。
次のおかわりに、今度は同期くんとチーフが席を立った。

私は思い切って、メガネくんに同期くんのことを質問しまくった。
程よく酔ったメガネくんは何かを察することもなく職場の話を何でも聞かせてくれた。
私の知らない彼の行動、言葉、失敗、試行錯誤。
入社から何年経っても、あの純朴で率直で生真面目な性格のまま、不器用に必死にトライしているんだ。
可愛くておかしくて愛しくて、私はお腹を抱えて笑った。

「おまたせー」
同期くんとチーフが戻ってきた。
彼が両手に持った4人分のビールは泡が下がっていて、それは注がれてからの時間の経過を示していた。

彼はチーフと向き合ったのだと悟った。

続けて、チーフが両手で持ってきたチキンの大皿をテーブルの中央に置いた。
焦げ目のついた皮の質感と、あふれる肉汁。
感激して思わず声を上げた。
その場にいる人たちが喜ぶことを考える、素敵な人だ。

私は受け取ったビールを持ち上げるとすかさず「それではあらためまして」と声をかけた。
皆が、それぞれのビールを手にする。

「乾杯~!」

グラスを合わせると、私は可視化された彼とチーフの時間を一気に飲み干した。

***

路線が違うチーフは、電車の時間に合わせて一足先に別れた。
ロータリーに面したバス乗り場で同期くんを見送ったあと、私とメガネくんは駅へと向かった。

「ね、今度ジムに行ってみない?」
試しに誘ってみた。

メガネくんは私と目を合わせずに、関節が弱くてスポーツは止められてるとか他人の汗の匂いが苦手だとか、自分以外の要素を理由に遠回しに断った。

だよねー。

同期くんがいなくなる心の余白は、他の誰かで埋めずにしばらくこのまま空けておこう。

今日はビールを飲んだから、ボルダリングは明日かな。
両手の指を、ビルの隙間から見える夜の空に向かってうんと伸ばした。

終(3562文字)

【関連作品】
#あの夏に乾杯 の企画への応募作品『ビール』の関連作品です。



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