隣のあのひと

私が彼を好きになったのは、初めは確かあの人の字をちゃんと見た時だった。

少し崩された、でも芯が通った、そんな感じの字。姉が「字が綺麗な人って、それだけでいいよね。好きになる。」って言っていたことを思い出す。字だけで誰かにそんな特別な感情って抱けるの?って思ったけれど、確かに字だけで私は彼を好きになった。

それからは毎日ドキドキして、受験で私と同じ日本史を使うと知った時は、それをわざと利用して、「ここわからないんだけど、教えてほしい」なんて言って彼の字を見てた。

彼は本を読むのが好きだった。私も読書は好きで、だから彼にオススメの本を教えてもらったりもして。もう物語の展開はわかっているのに、今でもたまに読み返す。

彼は、物語を書いていた。それを読ませてもらえることになった時、私がどれだけ喜んだか、あの人はわかっているのだろうか。言葉は、その人の世界観を否応が無しに表してしまう。だからこそ、嬉しいの。彼の世界を覗くことを許されたようで、距離が近いんだと錯覚する。

ずっと好きで、でも勇気がなくて踏み出せなかった。気づいたら字以外も全部好きになってしまって、知らない間に吸うようになっていたタバコの匂いでさえも、嫌いだったはずなのにあの人が吸ったタバコの匂いは嫌いじゃないなって思うようになってしまって。

忘れてたはずの感情が、もうどうしようも忘れられなくなってしまって、たまらない。

好きな人の顔を忘れてしまうというのは、わりかしよく起きることらしい。体が興奮すると瞳孔が開いて、眩しいと感じるからだそうだ。まぁ、例に漏れず、私も彼の顔がはっきり思い出せない。写真を見ることすら恥ずかしくて、昔撮った彼のノート(もちろん日本史を言い訳にして)の写真を見ることもできない。

ちょっと近づけたと思ったら、やっぱり離れているんだなって実感することはもう何度あっただろう。そして何度諦めただろう。

でもやっぱり、わたしは彼が好きなのだ。そろそろけじめをつけないといけない。ダメだったら、諦めなきゃいけない。一人の男にこだわるなんて、時間の無駄だよって言われることもあったけど、あの人を好きになったことは決して時間の無駄ではなかったよって胸を張って言えるように、動かないと。わたしは、彼が好きなんだから。




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