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マイケル・ジョーダン: ラストダンスとSNS以前の世界

Netflixの『マイケル・ジョーダン: ラストダンス』を週末に一気観した。シカゴ・ブルズ黄金期を知っている世代が90年代を懐かしむものとしてこれ以上のものはないだろうし、エアジョーダン、スマートじゃない携帯電話、ダブダブのスーツが画面に出てくるだけで嬉しくなる。

(でかいスーツを取り上げたViceの記事)

90年代のマイケル・ジョーダン(とブルズとNBA)の人気は異常だった。MJは地上で最も有名な人間だった。エア・ジョーダンが全世界で発売され、NBAの放映権が200か国以上で売買され、タイニー・トゥーンズとコラボした映画まで制作された。

全てはSNSが普及する以前の話だ。セレブも政治家も一般人も、メディアの手を借りずに世界に発信するには、ホームページを開設するしかなかった。ブロードバンド環境が整っておらず、動画を共有するサービスなんてなかった。

そんなSNS以前の世界で、MJはブラック・ジーザスになった。MJをアイコンとして、NBAの興行が"アメリカン・カルチャー"を象徴するものとして全世界に輸出されていった。

MJはモハメド・アリやマルコムXのような黒人を代表するアイコンではなかったかもしれない。ラストダンスでも指摘されているように、1990年のノースカロライナの選挙で民主党の黒人候補者ハーヴェイ・ガントを支援しなかったし、人種内のアイコン化を本人が良しとしなかった。

でも、特定の人種や世代を代表せずにバスケを愛する普遍的存在だったからこそ、マスメディアがMJを取り上げ、全世界に受容されるアイコンになっていったのだろう。SNS以前の世界でだけ許された普遍性の化身は、信じられないくらい端正な顔立ちで、言葉ではなく、肉体とプレイ内容で人類とコミュニケーションができたのだ。

翻って、SNS以後の世界に仕事をしている身としては、エンターテイメントや興行で、ブルズ黄金期のような異常な熱狂を作れるのかと考えてしまう。個人発信のコンテンツが渦を巻いて起きる一時的な狂乱はあるけれど、その火は長くは続かない。

「誰もが15分だけは有名になれる世界」に生まれるブラック・ジーザスは、瞬時に消費され、相対化され、ミーム化されるだけ。熱を保てるのは、一部の熱狂的なファンのなかだけだ。

世界の人たちが同じコンテンツを観て熱狂していた時代にはもう戻れないだろうし、個人の嗜好に最適化されたコンテンツがますます普及し、多様化していくことを考えると、SNS以前の世界の、誰でも知っているものがつくれるかもしれない、という感覚を羨ましく思う。

でも、ビリー・アイリッシュのような特異点が生まれるのもSNS後の世界なんだよな~。


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