ゲームをやってメシが食える、それだけで十分に幸せなんだけど
『eスポーツ産業における調査研究報告書』には、スウェーデンでは高校生以下の授業で『CS:GO』をプレイする学校があり、中国やアメリカでは大学機関ではEスポーツを専門的に教える学部がある、みたいなことを書いた。
ゲームは「依存症」だの「ゲーム脳」だの、とかくイメージが悪い。Eスポーツという新しい競技が生まれて盛り上がっている時に、水を差されるとイラっとする。
人口が増えて、企業がたくさん参入すれば、儲けられる産業になる。「よっしゃ、専門の授業をつくって生徒を集めるぞ」と気概を持った教育機関もあるだろう。オリンピックを目指す動きもあるだろう。慶応大学では寄付授業が始まった。
その一方で違和感もある。
ゲームに対して華やかで、健康的で、フレッシュなイメージを過度に付加しようとする色々な人の発言を見て、「いや、そういうんじゃねぇし」と心の底で毒づく。
「ゲームもスポーツだ」、「バリアフリーの娯楽だ」、「グローバルにつながる手段だ」という美辞麗句が並べられると(時に自分もそういった話しをするのだけれど)、「ゲームに過度な期待を負わせるんじゃねぇよ」と毒づく。
ゲームはリア充のものじゃない。
非リア充のものだ。
時代は変わって、イケイケの少年少女がオタク文化を消費するようになっても、ゲームは非リア充のものだ。
アメリカのスクールカーストの最上層にいる青年がアメフトで女の子にチヤホヤされている横で、さえないオタクが部屋にこもってオーバーウォッチをやっている。NFLで活躍するマッチョな選手と、オーバーウォッチリーグで活躍するオタク然とした選手達は、全く相いれない文化で育ってきた。
ステレオタイプ? そうかもしれない。
でも、「ゲームがうまい」というのは、スクールカーストで決して上位にはいけない少年少女の数少ない特技であり、自分を肯定する"何か"だ。非リア充に残された数少ない"武器"だ。
華やかで、健康的で、フレッシュというイメージは、数少ない"何か"を非リア充から奪っていくようで居心地が悪い。
筆者は高校生の時にUltima Online(UO)というMMOをやっていた。生産系の職業に熱を上げていて、もっぱら鉱山で鉱石をほり、それを溶かしてインゴットにするという作業が好きだった。朝の5時に起きて、人の少ない日本サーバーの鉱山に行き、鉱石を掘った。その単調な作業がとても好きだった。
あるとき、筆者がオンラインゲームをやっているということを知った、いわゆるリア充系の同級生が声をかけてきた。「俺もオンラインゲームをやってるから、一緒にやろう」彼がすすめてきたのは『ポトリス』というゲーム。かわいいタンクを操るターン性のバトルゲームだ。
夜にICQ(当時はDiscordなんてなかった)で待ち合わせて、『ポトリス』でマッチングしようという約束だった。
彼はいい奴だ。気さくに声をかけてくれて、ゲームに誘ってくれた。サッカー部に所属していて彼女もいる奴だけど、とてもいい奴だ。
でも、筆者はその約束が憂鬱で仕方なかった。彼はゲームを通じて人と仲良くなりたいのだろう。でも俺はそんなことには興味はない。ただUOが好きで、鉱山で鉱石を掘りたいのだ。オンラインゲームで人と仲良くなりたいわけじゃない。ただそのゲームと作業が好きなだけだ。
約束の時間にICQはつけなかった。約束を反故にした。その代わり、UOで鉱石をひたすら掘った。
次の日、学校で彼に声をかけた。「ごめん、ネットにつながらなくて」。彼は返事をしなかった。俺が嘘をついているとわかったのだろう。以降、彼が話しかけてくることはなかった。自分にとってもそれが良かった。
話がずれたし、例に出したのがゲームがうまいという話じゃなかった。
戻そう。
ゲームのことを不当に攻撃されると、それを全力で否定したくなる。でも、変にゲームのことを持ち上げられると、それも全力で否定したくなる。
Eスポーツはゲームでメシが食える手段だ。素晴らしい。自分が好きなことでメシが食えるなんて、そんな幸せなことがあるか?
Eスポーツに対するメンタリティは"うしろめたさと屈折したプライド"のはざまにある。罵倒されても、褒められても、いやいやそれはない、と否定する妙なスノビズム。
その不安定さのなかで、Eスポーツは盛り上がっていくのだろう。
「しょせん、ゲームでしょ!」
「は?もっかい言ってみろ?」
「ゲームを通じて少年少女を教育しよう!」
「うるせぇきれいごとぬかしてんじゃねぇぞ」
面倒くさくてごめん。
でももう一度言おう。
ゲームをやってメシが食える、それだけで十分に幸せだろ?
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