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エンターテイメントに点数をつけることは正しいのか

The Last of Us Part II」のMetacriticがレビューボムを食らっている。2020年6月29日時点でMetascoreが94、一方User Scoreが4.8。ポジティブのスコアが41,000件超に対して、ネガティブのスコアが52,000件超である。

リリース前後にメディアが大絶賛の嵐、10/10スコアを連発したことに対して、「お前ら金もらっただろ」という批判の矛が向けられ、アンチの勢いが増してしまった。IGNでレビューワーだったAlanah Peaceが火消しのための動画を投稿し、レビュープロセスについて説明している。

要約すると

・金をもらってレビューを書いているということは無い。

・そもそも10というスコアは完璧という意味ではない。意味するところは"名作"であり、IGNが最もおすすめしたいソフトである。

・Metacriticは大手メディアのレビューでも、スコアに含んでいないことがある。ラスアス2に関してもいくつかのネガティブなレビューが除外されている。

なので10点(100点、A)のスコアがたくさんあっても不思議じゃない、ということだそうだ。

だが「思ったよりつまらなかった」というユーザーと、ポリコレ偏向作品許すまじというアンチSJW(ソーシャルジャスティスウォーリアー)な人たちが参戦して、レビュー界隈がはちゃめちゃになってしまった。

ゲーム業界にいる人は「ああ、ゲーマーゲート再び」と思っていることだろう。

BLM運動に端を発するSJWが幅を利かせはじめたエンターテイメント産業において、バックラッシュが起きるのは必然ではあったが、ゲーム関連企業やSJWがポリコレ棒をぶんぶん振っている最中に、オルタナ右翼がネットで大暴れしている様はパンデミックにもほどがある

レビューの点数がここまで問題になると(思想的に利用されるとなると)、「ゲームを含めたエンターテイメント作品に点数をつけることはそもそも間違いなのでは」という意見も出てくるわけで、そして随分昔にKotakuやEurogamerはスコアをやめてしまったわけだが、個人的にはスコアはなくならないだろうと思っている。

エンターテイメント業界において評価を流布させることで業界を盛り上げるという機能、そして評価を最速で一般消費者に伝えるという機能の需要は常に存在している。MetacriticやRotten Tomatoesが無くなっても、他の誰かがすぐに新しいメディアを立ち上げるだろう。

人は数字で評価することが大好きだ。M1グランプリは笑いという極めて評価しづらいコンテンツに点数をつけて、複数有識者のスコアを合算して順位付けをすることで、世の中の話題を席巻するわけだ。

しかし、皆が欲する数字というものが、あまりにも大きな影響力を持ち、そして邪悪にも成り得るということが普遍的な問題である。

有識者によるレビューの数字が偏ることはある。社会には色んな忖度が渦巻いていて、メディアに属するレビュワーがその枷から逃れてあらゆる権力に中立的なレビューを書くというのは妄想に過ぎない。(もちろんそれはクソみたいなことだ)

一方で、ユーザーレビューにも山ほどの構造的な問題がある。匿名で、そもそも作品を観てもプレイしてもないにも関わらず、思想を語るために点数を投稿できることが果たして妥当なのか。また、「アプリが起動しません」、「インストールできません」みたいなバグ報告が批評として扱われて良いのか。

有識者によるレビュー、民主化されたレビューともに構造的な問題が内在していて、それでも点数に対する過度な欲求が無くならないのだとすれば、残された解決手段は、一般消費者が賢くなってレビュー自体の妥当性を判断する、メタポジションに移行するしかないのである。

一般消費者が賢くなって、極端なレビューを自分自身でフィルタリングするしかない。食べログの点数に疑念を持つことがうまい店にたどり着くための試練であるように、良い作品に巡り合うにはユーザーが賢くなるしかない。

点数に対して常に疑問を忘れずに、自分自身で判断しましょう。

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